心に染みる,

 



 記憶が無くなるとはどういう事だろう。

 例えばある日突然、友達に今度遊びに行くのが楽しみだと言われた。最初はピンとこなくとも……段々と話を聞いて行く内にハッと思い出す。そんなやり取りが何度も増える事だろうか? いやそれはただのもの忘れだ。

 記憶が無くなるという事は、それを言われた事すら思い出せない。最初はもちろん、時間や場所を言われてもピンとこない。なぜならその人にとっては、今初めてその情報を聞いた事になるのだから。


 最初は適当に話を合わせる。

 けど、徐々にストレスが溜まる。苛立ちを覚える。そしてついに自分を否定されたかのような感情が爆発して怒りだす。

 そんな事が続けば、家族や友達、交流のあった人達との関係は崩れて行く一方だ。

 自分でもダメだと分かっている。だが、その状況を変える事は出来ない。そんな人達が最後に辿り着くのが……


 孤独


 誰とも話をしなければ、言い争いになる事はない。

 誰とも会わなければ、不快感を与える事もない。

 それは自分と相手を守る為の行動。だが一方で、認知症の進行を早める行動でもある。


 だからコミュニケーションを大切にしましょう。

 迷わないで?


 家に帰り、スマホで検索すると1番最初に出て来た動画。それは最後にそんな言葉で締めくくられていた。日付が分からない、物を置いた場所が分からない。そんな様子の人達の映像は、何処か思い当たる節があって動悸がした。

 家族や施設の人くを罵倒し、怒りを露わにする。椅子を投げ、胸ぐらを掴む。そしてその人の家族が声を震えさせてこう呟く。


 優しい人だったのに。あんな人じゃなかったのに。


 その姿に一気に不安になる。

 だから必死に調べた。表示されたサイトを手あたり次第開いては、少しの希望を胸に抱いた。でも書かれているのはほとんど同じ内容。


 完治する事はない。

 遅らせる事は出来る。

 ただ、年が若い人ほど進行は早い。


 その文字を見る度に、動画で見た叫び声をあげる人に自分を重ねてしまう。

 将来あんな風になってしまうんだと絶望感に包まれる。


 治らない。

 進行は早い。

 それはいくら進行を遅らせても、最後はああなってしまうという告知だった。


 目の前がぼやけて来る。

 ベッドにもたれかかって座っているはずなのに、地震でも来たかのようにゆらゆら揺れる。

 そしてその揺れに体が耐えられなくなり、ぐにゃりと折れ曲がるような感覚に襲われる。


 あぁ、暗い。

 周りが暗い。

 まるで自分の未来のように……



 ――――――――――――



 眼球の中に入り込む白い光。俺がそれに気が付いた理由は良く分からない。

 もしかすると眠っていたのかもしれないし、気を失っていたのかもしれない。それすら良くは分からない。

 もしかするとカーテンすら閉めてない窓から毎日姿を現していたのかもしれない。それすら記憶には無い。

 ただ、それは物凄く懐かしく感じた。少し顔を上げただけで、頭の重みと背骨の痛みを感じる位に。


 些細な動きで痛みを感じる。自分はいったいどれ程の時間をこうして過ごしていたんだろう。

 そんな疑問に、思わず自分の体に視線を向ける。窓から降り注ぐ月明かりのおかげで、それはハッキリと見える。だが少なくとも、その優しい光と対極的なのは事実だった。


 皮が剥けて、血の滲んだ手の甲。

 まるでぼろ雑巾のようなそれを見ても、そこまで驚きはしなかった。

 ……あぁ、そうだ。


 ―――なんで俺が?

 ―――なんで? 高校生だぞ?

 ―――そんな奇跡的な確率に……なぜ選ばれた。


 そんな怒りに任せて、喉が千切れそうになる位叫んだ。抑えきれない位、何度も何度も部屋の壁を殴ったんだ。

 そんな記憶だけが薄っすらと頭を過る。


 唇が痛い。喉が痛い。胃がキュルキュル鳴って食べ物を欲してる。

 ……あぁ、そうだ。物を食べないようにしたんだ。昨日何食べたのか、献立は何だったのか。それを答えられなくなるのが怖くて、ご飯を食べるのを止めたんだ。

 そんな記憶だけが薄っすらと頭を過る。


 自分の横に裏返しに置かれたスマホ。電源ボタンを押してみたけど、画面は真っ暗なまま。

 ……あぁ、そうだ。皆のメッセージが辛かった。いつも通りに反応できる気力がなかった。だから裏返しにしたまま放置したんだ。

 そんな記憶だけが薄っすらと頭を過る。


 頭が重い、頭が痛い。視線が定まらない。長い時間目を開けていられない。

 ……あぁ、そうだ。寝ないように我慢してたんだ。目覚めた瞬間、何かの記憶を忘れてる。それが異様に恐く感じて寝ないように……してたんだ。

 そんな記憶だけが薄っすらと頭を過る。


 伸び切った足を曲げようとしても、思うように力が入らない。膝が何かで固められているようで、無理矢理力を入れるとパキッパキッと軽い音を弾ませる。

 ……あぁ、そうだ。寝ない為に、出来るだけ座っていようと思ったんだ。

 そんな記憶だけが薄っすらと頭を過る。


 ガチャ


 そんな時、部屋のドアが開く音が耳に入った。


「日向」

「日向……」


 聞こえて来たのは、父さんと母さんの声。それは久しぶりに聞いた声。けど、なぜかボロボロの右手は握りこぶしを作っていた。そしてどこからか沸き上がるのは怒りにも似た感情。

 ……あぁ、そうだ。あの日、


『日向、いいか? ……大丈夫だ』

『そうだよ。辛いのは分かる。けど先生、ちゃんと病院通えばきっと……』


 そんな事を口にしてたんだ。


 大丈夫? 何が? 

 辛いのは分かる? なぜ?

 ちゃんと病院通えばきっと? きっとなんだよ?


 俺の気持ちも分からないくせに、何を根拠にそんな事を言ってやがる。


『ふざけんな!』


 そのまま部屋を追い出したんだ。

 そんな記憶だけが薄っすらと頭を過る。そして、蘇る怒り。


「なんだよ。何しに来やがった」

「ひっ、日向。明日……病院だよ?」


「病院? 行って何になる。どうせ俺は全部記憶無くして、この年でボケた爺さんみたいになるんだよ」

「そっ、そんな事……」

「日向!」


「そんな事? 俺の病気は治らねぇんだよ! しかも俺みたいに若い奴の進行は早いらしいな。知ってるぞ。調べればなんだってすぐ出てくるんだよ」

「違う……」

「何が違うんだよ!」


「日向。ここ1週間、出来ればお前の望むように過ごさせたかった。けど、甘かった。すぐにでもまた病院へ連れて行けばよかった」

「甘い? 良いような事口にしてたくせに甘いだって? 何言ってんだ」


「力ずくでも、明日は病院に連れて行く。その為にご飯を食べろ。風呂にも入れ。そして明日一緒に……」

「うるせえ!!」


 その度重なる言葉に我慢は限界だった。その瞬間抱いた感情は、生まれて初めてのものに違いない。


 父さんを殴ってやる。

 そんな怒りに支配されたまま、徐に立ち上がり……拳を振り上げる。だが、そんな気持ちに体はついて行かない。

 足元はふらつき、踏ん張る事さえ出来ず、体も流されるまま。それに今まで人を殴った事のない自分が、突然要領を得る訳もなく……大振りな腕。その勢いにに負ける体。尋常じゃないほどゆっくりとした動き。


 そんなものを躱すのは……余裕だったんだろう。俺を見る父さんの目は悲しげだった。

 だが俺は、そんな顔すら憎くて仕方なかった。だから思いっきり、力の限りに腕を振った。だが、それが父さんに届く事はなかった。


 豪快に空振り、その反動を支えきれない俺は無様に前のめりになる。

 あぁ、このまま床に倒れるんだ。ダサいな。そんな事を考えていた時だった、崩れていたはずの体が止まった。そして、顔に、胸に、腕に感じる硬くて暖かい体温。そして目の前には大きく、ごつごつとした父さんの……肩と背中が広がっていた。


「日向……ごめんな……」


 優しく包み込むような父さんの声が耳に響く。そして不意に右手が温かくなったかと思うと、


「こんなになるまで……ごめんね……ごめんね……日向」


 震えるような母さんの声が頭に届く。


 ご……めん? ごめん?


 その瞬間、なぜか今まで心の中に渦巻いていた色んな感情が、ふっと消えたような気がした。そして、不意に頭に浮かんで来たのは、


 ごめん? なんで父さん達が謝るんだ。謝る? 何か悪い事でもしたのか。 

 そんな……疑問。


 あの日の事? ……待てよ。別に怒らせるような事は言ってない。そもそもなんで俺は怒ったんだ? 自分がアルツハイマー病だからか? ……だったら尚更違う。だったら……


 ただの八つ当たりじゃないか。


 病気になったのは誰が悪い。少なくとも母さん達のせいじゃない。何の俺は……話も聞かずに気に入らない事から逃げてた。怖くて不安で、それを隠す為に当たり散らしてた。そして、挙句の果てに……今まで見た事のない姿にしてしまう程、2人を追い詰めていた。


 自分の事なのに……自分から逃げてた? 


 自分の病気から。


 自分自身が人のせいにして、病気から逃げていた事への恥ずかしさ。

 知らず知らずの内に2人を、家族を傷付けていたという後悔。

 それを理解した瞬間、不意に涙が頬を伝う。そしてまるで必死に口を閉めていた蛇口が一気に壊れたかのように、止まる事を知らなかった。


 顔が熱い。

 だけど気持ちが良い。


 目が痒くなる。

 だけどどこか清々しい。


 そんな2つの感情に包まれながら、俺は無意識に口を開いていた。

 乾き切ってて、掠れてたかもしれない。でも、それは何よりも大事なものだった。


「父さん……母さん……」




「ごめん」



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