最終章
第56話 ラディカルな愛
僕はとりあえず彩香を病室に待たせて、懐かしき喫茶店・Caesarで京子さんへ宛てた手紙を書いていた。
お礼をせずに彩香と遠くへ行くことへのお詫び、感謝の気持ちは今なお薄れてはいない旨などを書き、別れとするつもりで。
京子さんに救われたにもかかわらず、こうして離れ去ることへの罪悪感はしばしば持つペンを止めさせる。
本当にこれでいいのだろうか、そんな素朴な思いにも答えられない程に僕らは追い込まれていた。
京子さんならまた優しくしてくれるだろう。でも、その優しさに頼ってしか生きていけないなんてダメだ。
一通り京子さんへの手紙が書き終わったので次は智花さん。
僕がずっと面倒を見ると思っていたのにこの有り様だ。本当にあわせる顔がない。謝罪すらもおこがましい。
たから僕の行動は何と言おうと逃げでしかないのだ。たとえ謝罪や弁解をまくし立てようとも、それが意味をなすはずがない。
だから僕は智花さんの本の感想をひたすらに
そして深雪さんにも書きはじめる。彼女との出逢いが、結果こういう事に繋がったとして、彼女は自分を責めかねない。だから、こうしてしっかりと思い出と今の思いを書く必要性があるのだ。
ほどなくして、僕は彩香を迎えに行った。これからする事は病院の治療方針に背く行為のはもちろん、医療そのものに背こうとしているのだから、慎重を要する。
かつて京子さんと感じたあの心中への憧れ。
僕は今こういて妹と一切の苦痛を断つ決心をしたのだ。
「お待たせ」
「いこっか、お兄ちゃん」
「うん」
あたかも散歩に行くかのような雰囲気を漂わせながら病院を抜け出す。途中、看護師と一度すれ違ったが、単なる気分転換の一環と思ってくれたようで、すんなり出ていけた。
「早めにどこかへ行かなきゃね」
「そうだな」
手紙をポストに投函し、僕らはいよいよこの世と一線を画すのを体現するかのように手を繋ぐ。
これから行くところは決めていた。帰る場所はやはりあそこしかないのだから。
「おかえり、彩香」
「お兄ちゃんもおかえり」
僕らの生まれ育った家だというのに、二人とも何だか違和感を感じたようで笑ってしまう。
「やっぱり少し埃っぽいね」
「僕が出て行ったせいだよ、ごめん」
「帰ってきてくれたからいいよ」
「妹とこうして手を繋ぐのって変だよね」
「こんなに笑顔で死んじゃうのも変だよ」
「まあ、確かに」
まるでドラマの感想を言いあうようにこれから起こるであろう事に対して語り合う。もはやここはあの世なのかもしれない。そう錯覚させるほどにフワフワとしていて、超俗的でもあった。
僕らが選んだ方法はお互いにナイフで刺し合うというショッキングなものだが、それこそドラマみたく手軽に毒物が手に入る世の中でないのだから、同時に果てるにはこれしか方法がない。
男女の力の差的に言っても、僕が生き残る可能性が高いという難点があるので、先に僕を刺してもらってから、彩香を僕が刺す。
「お兄ちゃんの命、私が貰っていいんだよね?」
「彩香はいいのか?」
「お兄ちゃんなら、いいよ」
<バリンッッ>
グサッといったような肉を刺す音ではなしに、ガラスが割れるような音がこの空間を制する。
「宗太君やめて」
初めて僕は泣いている深雪さんを見た。どうしてここに居ることが分かったのかは不明だが、見つかった事に違いはない。
疲れ切ったがゆえに完全なる無へと向かおうというのに、深雪さんに見られていては死にきれない。
「来るなッ! お兄ちゃんは私のモノ! 私だけのモノなの!!」
目を見開いてナイフを突き出す彩香。
やめろ。
「来ないで! お兄ちゃんの魂を解放するのは私なの!」
やめてくれ。
「彩香ちゃん、お願い、私から宗太君を奪わないで。お願いだから」
「お兄ちゃんは、誰にもあげない! 誰にも渡さない! 全部全部、私のモノなの! 髪の一本たりともオマエには渡さない!!」
「やめてくれ!」
全てに背を向けて旅立とうというのに、この光景はまさしく、深雪さんと智花さんのあの事件そのものじゃないか。
僕へと向かうはずの彩香のもつ
「大丈夫だよお兄ちゃん、アイツは絶対、私が殺すから」
「そうじゃなくて!」
「安心して。すぐに後を追うから…… それから生まれ変わってさ、ずっとずっと一緒に平和に過ごそ?」
「お願い、宗太君、私と恋人になってくれたじゃん!」
「消えて。ねぇ、消えてよ。できないんだったら 、私が消すから。早くお兄ちゃんと二人きりにしてよ」
「宗太君、ごめん! 謝るから許して…… ホントに、私、宗太君が居なかったら……」
「何もかも間違ってたんだよ…………」
「宗太くん、待って、ホントに駄目だよ!?」
「深雪さん、僕はもう耐えれない。でも、君の言葉とその涙は本当に嬉しかった。それに、いろいろあったけど、嫌な日々でもなかったから。
だから、僕らとあの世でやり直そうよ」
「宗太君、本気なんだね…………」
「もちろん」
ニーチェは
そのことを肯定してから、ようやく自分の人生が始まるみたいな解釈をしているが、正直、よく分からない。
でも、現世は辛いことも多かったが、結構よかったと思う。
アナタが好きですと言ってくれることは世界規模で見ればありふれたことだ。
でも僕は、アナタと死にますと言ってくれる相手を見つけたのだ。
これは非難もあるだろうが、得難い存在であるのは誰もが認めるところだろう。
「宗太君、最後にお願いがあるんだけど、いい?」
「なに?」
「キス、しよ?」
「絶対ダメだよお兄ちゃん!」
「!?」
「お、お兄ちゃん!?」
「これでこの世じゃお別れなんだからさ」
「彩香もいい、かな?」
「お兄ちゃん!?」
「今は兄妹だから変だろうけど、来世は遠慮なくキスしあえる関係になれるお願いも込めて、ね」
「お兄ちゃん……」
「僕もお願いがあるんだけどいいかな?」
「うん、お兄ちゃん。何でも言って?」
「僕の右眼を刺して欲しいんだ」
「宗太君それって」
「深雪さんには嫌な思いをさせちゃうかもしれないけど、何だかそうして欲しいんだ。これで智花さんの視力が戻る訳でも何でもないけど。でも……そうして欲しい。できれば深雪さんに」
「………宗太君のお願いなら聞く」
「お兄ちゃん、もういっそのこと燃やそうよ」
そう言って彩香は石油ストーブ用の軽油の入ったポリタンクを持ってくる。
「もう誰も近くに住んでないし、誰にもきっと迷惑がかからないはずだよ。それにどうせ取り壊さないと事故物件になって、誰もこの土地を欲しがらないしね」
「宗太君と私の灰が一緒に自然に還る。何だか素敵だね♡」
素敵かどうかは分からないが、無気力が理性を征服した今、もはやこの身がどうなろうと構わなかった。
今はこの狂気的とも言える雰囲気にほだされて、勢いをつけて消え去るしかない。
妙な情が湧いては、かえって取り返しのつかない事態へ発展するから。ゼロか100かの丁半博打。
「私はメイドさんとしていつまでも宗太君と共にいるからね」
「ありがとう」
「えへへ、いいよ」
「お兄ちゃん、私も居るから、ずっと一緒に」
そう言って、彩香は辺りに軽油を撒きはじめた。僕はこの匂いが嫌いではなく、むしろ好みだったりもするのだが、これまで高濃度なのは今まで嗅いだことがなく、刺すよりも、燃やすよりも先に気絶しそうだった。
「じゃあ、そろそろ」
深雪さんはマッチ箱を手に取り、彩香はナイフを構える。その手はにわかに震えている。
深雪さんも近くに包丁をスタンバイし、いよいよ僕はこの世から姿を消す。
僕はタオルを噛んで、声を押さえる用意をする。
着々と命を終える準備が完了しはじめ、いよいよ最期の時が到来しつつあることを、神経のひつとひとつが警告する。
生命倫理を犯し、生物の本能に抗う、神により禁忌とされる行為。
まるでサバトか何かのようだが、既に悪魔にとりつかれたと言っても過言ではないので、甘んじて受けようではないか。
頭を縦に降って合図をする。
深雪さんは変にためらって、余計なキズを負わせないようにと、一思いに僕の右目を切り裂く。
声にならない悲鳴がタオルを噛み締めながらも屋内に響く。
僕は血を流し、二人は涙を流す。
もう後戻りは出来なくなった。今度は彩香が僕を刺す番だ。でも、いざこうなるとやはり出来ないものだ。
彩香はただ「ごめんなさい」と泣きじゃくって、ナイフを両手で握りしめるばかり。
「お兄ちゃんが悪かった、ごめんな」
僕はそう言って、自分から彩香に抱きつき、お腹にナイフを突き刺した。
意識が朦朧とし、二人の泣き声と何かを語りかける言葉の数々。
でももう認識する力はなく、あとはただ時を待つばかり。
さよなら―――――
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