第16話 水底の祈りの話 前編
ミキと、カコを背負ったイマは|八東川〈はっとうがわ〉の橋の上までやってきた。
ずっと速足で夏の日差しの中を歩いてきたから、全身から汗が吹き出し、呼吸が荒くなる。
「ごめん、先輩。ちょっと、休憩」
イマは橋の欄干に手をかけ、立ち止まる。
「ダメよ、イマ。もうちょっと頑張って」
ミキは険しい表情でいった。
そのときだ。
「私の、私の娘を、返しなさい! これは誘拐よ!」
声がした。カコの母親だった。
「あなたが、カコを物置に閉じ込めたからこうなってるんでしょうが!」
ミキがすかさずいい返すが、もちろんその声は母親には届かない。
母親の足がピクリと動いたその瞬間。
「イマ、カコを置いて逃げて!」
ミキは叫んだ。
イマは弾かれたように走り出す。カコを背負ったまま。
しかし、すぐに足がもつれてこけてしまう。
カコの体は投げ出され、コンクリート製の橋の上に転がる。
「この犯罪者め。私の娘をどうするつもりだ!」
母親は倒れているイマの体の上にのしかかる。
イマは体をよじらせ、足で母親の体を蹴る。しかし、母親はまるで動じることなくイマの顔面を殴った。何度も何度も殴った。
「やめっ……やめて……」
イマは声にならないような声を発する。
「お前だって、男に犯された穢れた女だろうが!」
母親はそう叫び、イマの首を絞める。
苦しい。
イマは徐々に意識が遠のく。
どうして、こんな目にばかりあるんだろう。
東京にいたとき、男に誘拐されて、襲われて。
若桜町に来て。
でも、やっぱり襲われて。
イマは、かすれていく視界の中で、自分を襲うあの男の姿を見た。
――いっそ、全て諦めてしまえば楽になるのかな。
もう、抵抗はやめてしまおうか。その方が、楽になるのかな? そんな考えが、頭に浮かんだ。
そのとき、
「いっぱい生きて」
頭の中に声が響いた。ミキの声だった。
「イマはアタシが守る。必ず守る!」
ミキが叫んだ。
それと同時に、狼の遠吠えのような轟音が響いた。
八東川にかかる橋。それが崩れてしまうのではというほど震えた。
「地震!」
その振動で、母親はイマの上から振り落とされる。
振動がおさまると、イマのかすむ視界に、それが映った。
先ほどまでミキが立っていた場所。そこに、キツネがいた。馬ほどの体躯の巨大なキツネだった。
「イマ、安心して。アタシがあなたを守るから」
キツネは低く、しゃがれた声で、しかし穏やかな口調でいった。
それを聞いた途端、イマは気が付いた。このキツネは、ミキであると。
「な、なんなの!」
男も、キツネの姿となったミキに気が付いたようだ。見えているようだ。
「イマを守る。神獣として!」
キツネは咆哮のように天に叫ぶ。すると、その足元から大量の水が湧き出してきた。
あふれ出した水は、鉄砲水のような勢いと水量で、イマと、そして男を飲み込んだ。
イマは大量の水流に飲み込まれ、流されていった。
気が付くとイマは、知らない場所にいた。
そこは、どこかの学校の職員室のようだった。しかし、イマがこれまでに通った二つの学校の、どちら学校のものとも違っていた。
先生たちがそれぞれ、せわしなく仕事をしている。
みんな、イマの知らない先生だった。
そして、誰もイマのことを気にとめない。そう、まるでイマの姿が見えていないかのように。
そのとき、ノックの音の後、入り口のドアが開く。
「失礼します」
入ってきたのは、ミキだった。
ミキはある一人の男の先生のところまで歩いていく。
「あの、先生。ちょっとお話があるんですが」
パソコンを触っていた先生は、手を止めミキを見る。
「この前、話していた件か?」
ミキはうなずく。
「やっぱり、水泳部、辞めようと思います。昨日、もう一度お医者さんと相談したんですが、アタシの肺では水泳は諦めろ、っていわれました」
ミキは胸に手をあてた。
「それなら、マネージャーにならないか? みんな、お前がいなくなると寂しがる」
先生はそういったが、ミキは首を横に振った。
「アタシも、部のみんなは大好きです。でも、でも、みんなは仲間だけど、ライバルなんです。アタシ、泳ぎたいんです。プールサイドから見てるだけなんて、嫌なんです」
ミキは徐々に涙声になる。
「そうか。じゃあ、これを書いて、持ってきてくれ」
先生は引き出しから紙を一枚出して、差し出す。
ミキはそれをひったくるように受け取ると、「失礼します」叫ぶようにいって、職員室を飛び出していった。
イマが追いかけようとした途端、一瞬のうちに周囲の景色が変わった。
電車の中だった。都会の通勤電車のようだが、ラッシュアワーの時間ではないらしく、ちらほら空席が見えた。
ミキはドアにもたれるように立っていた。イマはその横にいた。
足元にはスクールバッグ。そして手には一枚の紙。
イマが覗き込むと『退部届』とタイトルが書かれており、その下に氏名や部活名、退部の理由などを書く欄がある。
「アタシだって、ホントは辞めたくないわよ」
ミキは小さくつぶやくと、紙を乱暴にスクールバッグに押し込んだ。
『まもなく、横浜、横浜です』
アナウンスが流れ、駅に止まる。
ミキは少し考えるような表情のあと、電車を降りた。
イマも慌てて後を追いかける。
ミキは赤レンガ倉庫内のショッピングモールの中を歩く。
時折、目についた店に入ってみるが、つまらなさそうな表情ですぐに出てくる。
やがて、一軒の雑貨屋の前で足を止めた。
店の目立つ場所で、ストラップが売られていた。キツネのストラップだった。
POPには『厄除け効果あり 稲荷大社のお狐さんストラップ』と書かれている。
「あら、これ……」
ミキはストラップを一つ手に取ると、匂いを嗅ぐ。
そして、それを購入した。
ミキは赤レンガ倉庫を出ると、近くのベンチに座り、ストラップを海にかざす。
「驚いたわ。これ、本当に封印の力が込められているじゃない。かなり雑だけど。こんなものが市販されているなんてね」
ふと、ため息。
「こんな華奢な封印でも、アタシの“力”よりずっと強い……。神獣として生きていくには力が足りない。得意の水泳はもうできない。アタシ、なんの為に生きてるんだろ」
ミキの目から、涙があふれ出てくる。
そのときだ。
「お姉ちゃん、大丈夫? どこか痛いの?」
突然、声をかけられた。
ミキと同じくらいの身長の小学校低学年くらいに見える女の子だった。
「大丈夫よ。どっこもいたくないわ」
ミキがそういうと、女の子はポケットからハンカチを取り出し、ミキの目元の涙をぬぐった。
「明日はきっと、いい日になるよ」
女の子はそういって笑った。
「ありがとう。あなた優しいのね。そうだ。お礼にこれあげるわ」
ミキは持っていたストラップを渡す。
「キツネ?」
女の子は首を傾げる。
「稲荷のおキツネさんのお守りだって。持ってたらいいことあるかもよ」
「やった。お母さんに会えるかな」
女の子は嬉しそうにピョンピョンと飛び跳ねる。
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