第5話 漆間涼と古の封印


 漆間涼は、今日で二十歳の誕生日を迎えた。

 だからといって、それでがらりと彼を取り巻く世界が変わるという訳ではなかった。

 淡い期待のようなものはあったが、結局いつもと変わらずに大学の講義を受けている。

 高校三年生の時に父が死んだ。進学せずに働くといった自分をとめたのは母だった。将来のために、大学ぐらい出ておきなさい。なんて、なんの根拠があるのか分からないが、ともかく母がいうので、適当な大学を受けて適当に受かった。

 だから、この場所には、卒業という目的以外になんの興味もない。

 友人がいないという訳ではないが、人付き合いも希薄な方だという自覚がある。広い講堂の中で顔と名前が一致する人間などはほどんどいない。知り合いが増えたところで自分の人生に何か影響があるわけではないので、あまり興味もない。


 父は過労死だったらしい。

 父の事はあまり記憶にない。涼が物心ついたときには、彼は外国を飛び回っていて、家に帰ってくることは殆どなかった。輸入雑貨の買付の仕事らしい。確かに彼が亡くなってから一度だけ入ったことのある彼の部屋には、どこかの国のランプや、絵画や置物が並んでいた。

 父が家にいない孤独を埋めるためか、それとも昔から社交的だったのかは分からないが、母は自宅を改装して随分と昔に「漆家」という名前でちょっとしたカフェを経営している。

 母である漆間文江に言わせれば「いまをときめくおしゃれカフェ」らしいのだが、涼にいわせればそこはご近所の暇なマダムたちの溜まり場だった。

 時間があるときに涼も手伝っているが、「すっかりイケメンになって」だの「彼女はできたのか」だの口喧しく聞いてくるので、厄介だと思っている。


 涼は無意識に、首から下げているネックレスの飾りを弄る。

 簡素な紐に一つだけついているのは、小さな赤い宝石だ。宝石の事はよくわからないが、水晶の一種らしいと文江が教えてくれた。

 父の形見だった。

 父の葬式が終わった夜、文江が少しだけ困惑したように涼に渡してきたものだ。「涼が二十歳になったとき、何か悪いことが起きるかもしれない。けして外さないよう、身につけておくように言って欲しい」と、書かれた手紙が出てきたと、彼女は戸惑いながら話した。

「悪いことなんて起きるわけないし、どうして遺言なんて書いたのかしらね……、まるで自分が死ぬことを知っていたみたいじゃない」

 涼を安心させるためだろう、文江は冗談交じりに言っていたが、不安と混乱を隠しきることは難しかったようだ。

 悪い事とは何だろうという好奇心と、そんなことは起きるわけがないという呆れた気持ちがせめぎあっていたものの、涼は首飾りを外すことはしなかった。

 記憶は薄いが、父は父だ。亡くなった者の気持ちを、無下にすることもないだろう。

「やっぱり、何も起きないな」

 講義が終わり、講堂から出ていく生徒たちに気づかれないように、涼はひっそりと呟いた。

 何かを期待してしまっていた自分に呆れる。

 別に日常に不満があるわけでもないし、別の世界にいきたいとか、そんな願望があるわけでもない。

 けれど、父が何故そんな事を言ったのか、二十歳になった今日というこの瞬間に判明するような気がして、少しだけ楽しみにしていたのだ。『悪い事』と言っていたのだから、何もない方が良いのだろうが。

 今日は講義は午前だけだったので、午後は完全に時間が空いた。

 大学に残っても仕方ないので講堂から外に出ると、廊下に篠宮桜と柳橋弘一が立っていた。

 家が近所だったので、小中高と一緒だった友人たちだ。涼の幼馴染のようなものである。

 涼が大学に入ると知って、何故か二人とも志望校を合わせてきた。口をそろえて、涼が心配だからという二人に心配されるほど、涼は頼りないわけではないと自分の事を評価しているのだが、どうだろうか。

 弘一は、涼が出てくるのに気づくと手を振った。

「涼、待ってたんだ。午後から暇だろ、みんなで飯でも食いに行こう」

「ん、分かった」

「何が良いかな、女子的にはそうだなぁ、タワーハンバーガーがいいなぁ」

 明るい茶色の髪を肩口で切りそろえ、小柄で愛らしい顔をしている一見して女子の代表のような桜が、恐ろしいことをいった。

 タワーハンバーガーとは、大学の正門からすぐのところに店を構えている、文字通り塔のように聳え立つハンバーガーの店だ。

 ノーマルのハンバーガーでも肉厚のパテが五枚も入っているのに、タワー追加と注文すると、それがいくつも連なって運ばれてくる。

 見ただけで胸やけがしそうな逸品である。

「……男子的にはそうだなぁ、旬彩カフェが良いなぁ」

「でたマクロビ。糖質制限男子」

「体系気にして何が悪いのー! モテたいんだもん」

「弘一怖い。青空の下モテたいって騒ぐとか、今世紀一気持ち悪い」

「桜ちゃんが酷い! 桜ちゃんの方が怖いよね涼ちゃん!」

 いつものやりとりを聞き流していると、弘一から話題を振られた。

 正直あまり聞いていなかったのだが、「どっちもどっちだと思う」と返す。

「涼ちゃんちょっとイケメンだからって、モテたい系乙女男子の俺を可哀想だと思ってるでしょ!」

「なんだその言いがかり」

「そうだよ弘一。涼はちょっと顔が良くても無機物みたいなものなんだから。感情が薄すぎて、大学の女子達から呪われてるタイプの宝石とか言われてるんだよ」

「何それ」

「呪われてるらしいよ、涼。だから涼はお払いの為にも塩を食べた方が良いよ。具体的に言うとタン塩」

 心配そうに桜が言う。

 確かに、二十歳になったら起こる悪い事という言葉に、涼は呪われている。

 首飾りが渡されてから、涼の世界の中心はその言葉になってしまった。文江は忘れた方が良いと言ったが、どうしてもそれはできなかった。

「桜ちゃん、タン塩食べたいだけでしょ。なんで昼から焼き肉食べなきゃいけないの、部活じゃないんだから」

「弘一は文句ばっかり言って。大きくなれませんよ」

「大きくなったら困るんですー、俺の肉体美が損なわれたら世界中の女子が泣くんですー」

「その薄っぺらい胸板のどこに肉体美があるっていうの!」

「桜ちゃんこそ筋肉信仰やめなよ! 桜ちゃんの理想の男なんて映画の中にしかいないんだからね!」

 不毛な争いを続ける二人にため息をつくと、涼はようやく現実に戻ることにする。

「旬彩カフェで良いんじゃないか? 一応肉もあるだろ、あそこ」

「涼ちゃん! 好き!」

「肉って、キーマカレーの中のひき肉だし、そもそもあれ肉じゃなくて大豆だし……、でも涼の誕生日だから、涼がそこが良いっていうんなら仕方ない」

 桜はごちゃごちゃ言っていたが、とりあえず納得したらしい。

 道行く学生たちに紛れながら、涼たちは歩き出した。


 正門から大通りに出ると、飲食店やコンビニが軒を連ねている。

 その中の一つである旬彩カフェは、野菜を中心とした女性に人気の店で、涼たちが席についたときにはテーブルの半数以上がすでに埋まっていた。

 メニューを眺めて、涼と桜はキーマカレーを、弘一はサラダボウルを頼んだ。

 「野菜しか食べないとか青虫か」などと弘一は桜に言われていたが、ちゃんと雑穀も入ってますと彼は言い返していた。

 講義の内容や、選択した科目、それから最近見た映画や新しくできた店の話など、弘一と桜がとりとめもなく話しているのを、大抵の場合涼は特に口も挟まず聞いている。

 会話に参加しない自分がここにいる必要があるのかと、昔二人に聞いたことがある。

 引け目を感じていたわけでもないし、彼らと一緒に居たくないわけでもなく、単純に不思議だったからだ。

 二人はあたりまえのように「涼がいないと成立しない」と言っていた。そしてお互いに指をさしあい、絶対に二人きりになりたくない、などといがみあっていた。

 物凄く仲が良く見えるのだが、涼にはよくわからない。

 二人の話を聞きながらゆっくりと食事をしていた涼は、ふと手を止める。

 それから顔をあげて口を開いた。

「二十歳になるとなにか変わる?」

 桜と弘一は、唖然とした表情で涼をみつめる。

「涼が自分から話題を振ってきた」

「どうしよう、奇跡が起きたよ桜ちゃん。苦節二十年、こんな喜ばしいことが今まであったかな」

「そうね、弘一。今夜はお赤飯だよ」

「……どういうことなんだ」

 予想外の反応に、涼は溜息をつく。

「ごめん、涼。つい吃驚して。……弘一は、何か変わった?」

「んー、お酒が飲めるようになったよ。大人な俺、カッコいい」

「酒、か」

 それもいいかもしれないと、涼は思う。

 今日はまだ終わっていないのだ。もし何も起こらなかったら、買って帰って母と祝っても良いのかもしれない。

 忘れた方が良いと言っていた彼女も、実は随分心配していたようだった。今日は学校を休めばいいんじゃないかと、朝ぽつりと言っていた。

「大人になった、ような気はするけど。二十歳って」

 桜の言葉に、弘一が首を傾げる。

「今日からいきなり大人です、頑張れ。みたいな?」

「いつまでも親に頼ってたらダメだよなぁ、みたいな」

「桜ちゃん偉いね」

 弘一が珍しく感心したように返した。

 確かに、そうだ。涼も頷く。あと二年で卒業して、働いて、結婚して。子供を育てる。それが大人というものだろう。別に嫌な気はしなかった。

 誰かと家庭を築く。

 嫌な気はしないが、どうにも自分がと思うと現実味が乏しい。

 桜と弘一が、と言われたら想像はつくのに、どうにもそうやって生きることができる気がしない。

 それは恐らく、涼の家の家族縁が薄いからだろう。

 父は家に居らず、祖父母や親戚は皆亡くなってしまったと文江は言っていた。

 父の葬式の時も、殆ど人が来なかった。母と自分と数人だけの、密やかであっけないものだった。

 そんなことを考えて、ふと窓の外を見る。


 大通りの雑踏の中で、一人の少女と目が合ったような気がした。

 涼は息を飲む。

 彼女があまりにも真っ白だったからだ。

 新雪のような髪を持った、儚く美しいすらりとした彼女は、真っ直ぐ涼を見ている。

 けれどそれも一瞬の事で、すぐに人込みに紛れ姿が見えなくなってしまった。


 気のせいか。

 それとも幻覚でも見たのだろうか。

 どうしたのかと聞いてくる友人たちに、涼は何でもないと首を振った。


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