第9話 神様に会った話 後編
予定通り、その日の夕食はコンがつくった。
台所にコンの歌声が響く。
「ねえ、コンさん」
台所には、いつの間にか夫婦の実子である男の子がきていた。
「手伝えることない?」
不愛想にいわれたそれは、コンにとっては予想外の言葉だった。
昨日、男の子はずっと不機嫌そうだった。それは、コンのことを不快に思っているからだと思っていたけど、違うらしい。少し安心した。
少し考えて、洗い物を頼むことにした。
コンが調理する横で、男の子は調理器具や食器を洗う。
漂白剤の匂いがした。
「普通の洗剤だけでいいで」
コンは自分の手元を見たまま、つまり、男の子の方を見ないでいった。
テーブルの上に、天ぷら蕎麦といなり寿司が並ぶ。
「コンちゃんはね、お料理がとっても上手なんやで」
妻はおっとりとっした口調でいった。
コンははにかみながら「そうでも……」といった。口ではそういっても、料理が上手い自覚はあったし、今日のは特に自信作だった。
「俺、食べたくないんやけど」
突然、男の子がそういった。
「蕎麦嫌いやったか?」
夫がいうと、男の子は首を横に振った。
「これ、漂白剤の匂いがする」
コンは慌てて自分の分の蕎麦の匂いをかいだ。いたって普通の出汁の匂いだ。
「そんなはずないんやけど……」
コンは男の子の横までいき、匂いをかぐ。確かに、男の子の蕎麦からは、出汁の匂いに混ざって、漂白剤の臭いがした。
「なんで……」
夫婦も男の子の蕎麦の臭いをかぐ。
「確かに、漂白剤や……」
夫婦はコンを見た。漂白剤を入れたのは誰か、状況を考えて誰の可能性が高いか。
「私じゃ……」
コンは後ずる。
男の子は一瞬、口元に笑みを浮かべた。だけど、コンにはそれを指摘することができなかった。
「キツネのお化けめ、ボクを殺そうとしたんだな!」
男の子の言葉の意味が、コンには一瞬、理解できなかった。しかし、すぐに嫌な予感がして、食器棚のガラスにうつる自分の顔を見た。
頬の大きな火傷の跡、左目も火傷の後遺症で白く濁っている。そしてなにより、コンという名前。
「キツネのお化けって、私?」
その瞬間、蕎麦の入った丼鉢が飛んできて、コンの顔面に直撃した。
「そうだよ、お前以外に誰がいるんだよ。このバケモノめ」
続いて、いなり寿司が乗った陶器の皿が飛んできて、コンの額にあたった。男の子が投げつけたものだった。
痛かった。熱かった。額から血が流れ出るのを感じた。
コンは夫婦に一人ずつ、順番に目をむけた。男の子を非難してくれると思った。叱ってくれると思った。
しかし、夫は「いくらなんでも、食べ物に漂白剤をいれるのはやりすぎだ」といい、妻は「人を殺そうとするなんて……」とつぶやく。
コンは視線を足下にむけた。丼鉢と、皿と、そして蕎麦といなり寿司がグチャグチャになって散乱していた。
「ひどい……」
コンの目から、涙が流れた。
「泣いたフリしたら許してもらえると思うなよ。この殺人犯」
男の子は、床に散らばっていたもの、コンがつくった料理だったのもを足で踏みつけた。
喜んでほしかっただけなのに。喜んでもらえると思ったのに。
「出てけ、お前の家なんてどこにもないんよ。だから、母親に虐待されたんだよ。気持ち悪いバケモノが」
男の子はコンに飛びかかった。
コンはとっさのことで受け身がとれず、後ろに仰向け。頭を打った。クラクラする。
「出てけ、出てけよ」
男の子は馬乗りびになって、コンを殴る。
コンはとっさに、男の子の体を掴むと、力一杯放り投げた。
体格はコンの方が大きいし、重い調理器具を取り扱う分、筋力もある。
男の子は床に転がる。すかさず、コンは上からこれを押さえつけた。
「私が嫌いならそれでいい! 私の料理が嫌なら食べんでいい! そやけど、そやけどなママのことなんにも知らんクセに! ママは、ママは……」
「イタイ、イタイよー」
男の子は大きな声で泣き叫ぶ声で、ふと、コンは冷静になった。
「……ごめん」
男の子を抑える手の力を弱める。
「おかあさーん。イタイよ、イタイよー! はやく助けて、殺される!」
しかし、男の子は泣き叫びつづける。
次の瞬間、コンはふっとばされる。妻が体当たりしたのだ。
顔を上げると、夫婦が二人とも、男の子に抱きつき、繰り返し、繰り返し名前を呼んでいた。
胸の辺りが熱かった。
見ると、包丁が刺さって、血が出ていた。さっき、料理をつくっている間、コンが握っていた包丁だった。
驚くほど冷静に、状況が理解できた。あの妻が、包丁でコンを刺したのだと。
熱くて、熱くて、たまらなかった。
「かわいそうだね、痛かったね」
夫婦からのその言葉は、コンではなく男の子にむけられたものだった。
呼吸が荒くなって、視界がかすむ。
嫌だ。
死にたくない。
その一心で、生き延びる方法を考えようとするのに、頭がボーッとして、なにもおもいつかない。
徐々に、胸の熱さが和らいでいった。いや、全身の感覚が失われていくのだ。
死にたくない。
どうにか生きられないだろうか。
自分のつくった料理で、みんなを幸せにしたい。そう想っていたのに。
やがて、目の前が真っ白になった。
最後に見えたのは、我が子を愛おしそうになでる夫婦の姿だった。
あの子は、愛されているんだな。
じゃなかったら、刺されることもないか。
私も……。
気がつくとコンは、どこかの山の中にいた。
歩道もなく、木々が生い茂る薄暗い山の中に、たくさんの警察官がいた。鑑識さん、だっけ? 刑事ドラマで見たような服の人たちが、あわただしく動きまわっている。
ある一区画が、ブルーシートで目隠しされていた。
コンが自分の体を確かめる。どこも痛くない。休みの日によく着ているお気に入りの服は、汚れもシワもない。
まるで状況がわからない。
あの家で包丁で刺されてから、今この瞬間まで記憶が繋がらない。
「おっはー。もしくはグッモーニン。お目覚めの気分はどう?」
後ろから、やけにハイテンションな声がした。女性の声だった。
振り替えると、高校生くらいの少女がそこにいた。
派手な色に染めた髪、派手な化粧、寒い時期なのに肌の露出が多い服。そんな感じだった。
「えっと……」
ここがなにかの事件の現場なら、少女は明らかに場違いな雰囲気なのに(まあ、コンもヒトのことはいえないが)、警察官たちはまるでその事を気にしていないようだった。まるで、姿が見えていないかのように。
「せーかい。ピンポン、ピンポーン。私たちの姿は、周りには見えていませーん」
少女は突然、大声でそういった。コンはなにもいっていないのに。
「私はウカノミタマ。稲荷神、とか、お稲荷さんっていったらわかりやすいかな? 豊穣と穀物の神様なのだ、えっへん」
「えっと、ウカノ……」
「ウカちゃんって、気軽に呼んでくれたらいいよ」
「私、一体……それに神様って……」
ウカと名乗った少女は、短く息を吐くと、意を決したようにいった。
「コンちゃん、あなたはね、死んでしまったの。包丁で刺されて殺されたの。遺体は土に埋められて、魂も一緒に眠りについた。でも、事件はすぐに公けになり、遺体も掘り出された。見にいく?」
ウカの視線はブルーシートにむく。コンは首を横に振った。
「うん。その方がいいと思う。気持ちいい状態じゃないしね」
ウカは再びコンに目をむけた。
「まあ、それで、遺体が見つかったことで、コンちゃんの魂も眠りから覚めて、ここにいるの。体との繋がりは完全に切れて、魂だけの存在、わかりやすくいえば、幽霊ね」
コンは自分の手を見た。今、気がついた、微かに透けている。
ウカに連れられて、コンは山道を下る。
「私、これからどうなるんですか?」
「悔しかも、遠く来まさず。吾は
ウカがつぶやくようにいった。それは、ウカ自身の言葉ではなく、本かなにかの引用のようだった。そして、コンにはその意味がわからなかった。
「あのね、コンちゃん、死んだヒトの魂は、死者の国の火でつくった料理を食べなければいけない。それをやって、はじめて生者の世界との縁を切ることができるの。その後は、死者の国で暮らすか、記憶を消して生まれ変わるのか、選ぶことができる」
そのとき、登山客らしい中年の男女が前からやってくるのが見えた。コンとウカは道端によける。
木々の間を、風が吹き抜ける。
「寒いね」
「そうだね」
登山客たちの会話に、コンはまるで共感できなかった。寒さを感じなかった。
すれ違うその瞬間、登山客の女性の方のポケットからハンカチが落ちた。
「あ、落としましたよ」
コンはハンカチを拾おうとした。しかし、手はハンカチをすり抜けて、拾うことができなかった。数回試してみたけれど、結果は変わらなかった。
「ハンカチ……」
コンの声も届かず、登山客はいってしまった。
「コンちゃんは、優しいね」
ウカは優しい笑顔を浮かべると、ハンカチを拾い上げる。
「大丈夫。帰りに、必ずこれに気付いて、持って帰るから」
「私、死んだんですね」
大がかりなイタズラでも、夢でもない。受け入れるしかないと、悟った。
「うん。そうだね」
ウカは拾ったハンカチを、木の枝にくくりつけた。
登山口にやって来た。
そこに女の子がいた。あの朝、駅で出会い、家まで送っていったあの女の子だった。
「あの……この前は、ありがとうございました」
女の子の言葉。それは、明らかにコンにむけられたものだった。
「私が、見えてんの?」
女の子は小さくうなずいた。
「コンちゃん、紹介するね。この子は長尾サナちゃん。私の使いの一人よ」
女の子――サナは小さく「よろしくおねがいします」といった。
「コンちゃん、遅くなったけど、サナちゃんを助けてくれてありがとう。それから、ごめんなさい。本当は、コンちゃんが死ないように、したかった。でも、気付いたときにはもう手遅れだった」
ウカは、深々と頭を下げた。
「神様でもどうしようもないのなら、どうしようもないですよ。きっと、きっと……」
コンはそれ以外の言葉が出てこなかった。
ウカは顔を上げる。
「あのね、コンちゃん。お願いがあるの」
「お願い?」
「うん。サナちゃんの実家の近くに、死んだヒトがやってくる食堂をつくろうと思っているの。コンちゃんには、そこで料理をつくってほしいの。さっき話した、死んだヒトが生きている者の世界と縁を切るための料理を」
「私で、いいんですか?」
コンは自分の腕に自信を持っている。でも、世界一だなんて思っていない。もっと上手なヒトも、沢山いるはずだ。
「大社でいなり寿司、配ってたことあったでしょ? あれ、私も食べたんだけど、おいしかった」
コンの脳裏に、一つの景色がうかんだ。床に散らばった食器と、料理だったもの。それを踏みつける足。それは、あの里親になるはずだった人の家での景色だった。
「ホンマですか? ホンマに、おいしいって、そう思ってくれはったんですか?」
「うん。嘘じゃないよ。コンちゃんほどの料理の腕前のヒト、なかなかいないよ。自信をもって」
コンの目から、涙がこぼれた。死んでも泣けることに、自分でも驚いていた。
「ありがとう、ございます……ありがとう……」
トウカはコンの頭をそっとなでた。その手の温かさを、コンは確かに感じた。
「コンちゃんは、料理で、みんなを幸せにしたかったんでしょ?」
コンは小さくうなずいた。
「おいしいものを食べさせてくれたお礼に。サナちゃんを助けてくれたお礼に。コンちゃんの想い、必ず叶えるから。神として」
ウカは、コンを抱きしめた。
ウカに連れられてやってきたのは京都駅だった。
コンはここからサナと一緒に鳥取へいき、そこで食堂をすることになるそうだ。
特急列車が滑り込んでくる。
サナと、それに続いてコンが乗り込む。
「あの……ありがとうございました」
デッキから、ホームにいるウカにむけてコンは深々と頭を下げた。
「じゃあ、またときどき様子を見にいくから。元気でね」
幽霊であるコンにむかって、元気でね、というのが不思議な気もした。
ドアが閉まる。
特急が発車するまで、ウカはずっとホームで手を振っていた。
サナが、小さく手を振り返した。
完全にホームから離れると、客室に移動した。サナは二人掛けの座席の窓側に座り、通路側は空いている。
「座らないんですか?」
サナが不思議そうにコンを見る。
「私、座っていいんやろか?」
コンは切符を持たずにこの列車に乗っている。幽霊だからそれでいいらしいし、駅の自動改札も素通りできた。でも、なんだか悪いことをしているような気になる。
「いいですよ。お客さん来ないと思いますから」
コンは車内を見渡す。コン以外の乗客は、サナだけだった。
まあ、混んできたら立てばいいか。コンはサナの横に座った。
「久しぶり、になるんかな?」
コンがサナと駅で出会ったあの朝から数週間たっているらしいが、コンの体感では一日もたっていない。
「あのときは、ありがとうございました」
サナはペコリと頭を下げた。
「神様のお使いやってんな」
「はい。ごめんなさい、隠してて。それに、もし私がもっとはやくウカ様にコンさんのことを話していたら、コンさんは死ななかったかもしれない……ごめんさい」
ゴトリ、ゴトリ。列車の音が響く。
「お稲荷さんのお使いってことは、もしかして……」
サナはコンのいいたいことを悟ったらしい。周囲にヒトがいないか見渡すと、そっと頭に手をのせた。
「はい、キツネです」
手をよけたとき、その頭には三角形の、キツネの耳が生えていた。
「もしかして、クラスメートに秘密にしてることって……」
サナはうなずく。それにあわせて、頭の上の耳が揺れた。
「はい、私がキツネってこと」
もう一度、頭に手をのせ、よける。すると耳は消えていた。
「もともと、私の家は代々ウカ様に仕えるキツネの一家なんです。私はその中で、特に強い力を持って生まれたんです。きょうだいにできない術も、私には使えました」
「ようわからんけど、すごいやん。優秀なんや」
サナは首を横に振った。
「それで、ある日、家にウカ様がいらしゃって、京都の総本宮でもっといろいろ勉強しないかって、いわれて。嬉しかった。でも、私は……今の私は、キツネに生まれたことが、嫌で嫌でたまらないんです」
サナは服の裾を握り締めた。
「結局、元の家に戻ることになりました。私は、力を捨てて人間になりたいと、願ってしまった」
コンはサナの頭をなでた。
「……立派なキツネになって帰ろうって決めてたんです。家族のみんなも、応援してくれてたんです。きっとみんながっかりする」
サナの目に、涙がたまる。
「泣いていいで。私もさっき泣いてたし」
泣きながら、サナはうなずいた。
車内に電子音のメロディが流れる。駅名の放送前に流れる音楽だ。その曲はコンもサナもよく知っている、唱歌の『ふるさと』だ。
こころざしをはたして
いつの日にか帰らん
山はあおき故郷
水は清き故郷
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