第82話 救世主

「さあ王女様、こちらでございます」


「ねえ。本当に逃走経路なんてあるのかしら?」


「お任せ下さい。このときのために準備をしてきたのです」




 いつになく自信げに語るキュレムに違和感を感じながらも、この状況で従わないわけにもいかず必死に屋敷を走るキリク。




「で、逃亡先はどこなのよ」


「ええ、このまま国境付近まで西に向かえば、森に身を隠す小屋がございます。そちらに身を潜めている間にお味方の到着を待つのです」


「なるほど……そんな小屋、いつの間に?」


「王女様の身を案じる者たちがほそぼそと準備をしておりました」


「へえ……そう」




 満更でもない様子のキリクを見てキュレムがほくそ笑む。


 カルム辺境伯に雇われた工作員の一人だが、キュレムほどその役割をしっかりこなせたものはいなかった。


 他の工作員たちがメチャクチャな王女の指示に耐えかね、その要望を満たせぬままに追放され続けてきた中で、唯一執事として、厳密には代理ではあるものの居座ることができたことを、キュレムは誇りに感じていた。


 単純なタイミングの問題なのだが、キュレムはそれを自分の力であると過信している節も見受けられた。




「ご安心を。ささ、こちらへ。馬の準備は整っております」


「当然エリザベス号よね?」


「へっ? ええと……その……」




 キュレムは馬の世話など関与していない。


 キリクのお気に入りどころか、何頭の馬がいるのかすら把握していなかった。




「本当に使えないわね……」




 幾度となく続いたこのキリクの罵声に内心で舌打ちをしながら、それでもキュレムはこのあと訪れる自分の幸福を思い気を取り直す。


 このまま小屋に王女を連れていけば、この作戦における第一功労者の地位は揺るがないものになる。


 外で人形を使って暴れている人間など目ではない。そう考えていた。




 だが――




「なっ!?」


「え……ちょっと!? ねえ! 突然どうし……え?」




 キリクからしてみれば、先導する形で一緒に走っていたはずのキュレムが突然倒れて意識を失ったようにしか見えない。


 それが自分のための行動であることすらわからないままに、再びキリクは一人になった。




「小屋の場所だって聞いていないのに……」




 再び最悪の未来に向けた覚悟を固め始めるキリク。


 だがすでに彼女の救世主は動き出している。




「あれ……? 何か懐かしい気配が…………まさかね」




 今まさにキリク自身気が付かずすれ違った人物こそ、いまキリクが最も会いたいと切望する人物だった。




 ◇




「さてと……あとは適当に足止めしておけば姫様は逃げられるだろうか?」




 何の当てもないかと思っていたが、馬の準備もあることからどこかしらに逃げる算段はついているものと見えた。


 であればこれ以上介入するより、あとのことはそちらに任せたほうがいいだろう。




「にしても……久しぶりに見たな」




 俺がいた頃と比べると顔つきがまるで別人になっていた。


 鋭い目つきは心労からか更にすごみを増していたが、それでも以前より良い顔をしているようにも見えた。なにか覚悟や責任感を感じさせるような、あの頃にはなかった目の輝きがあった。


 だからこそ……。




「生きて欲しいな」




 逃亡先の面倒までは見られない。というよりこちらから手を加えないほうがいい。


 あとは時間を稼げばいいと考えて庭園で暴れる民衆軍レジスタンスたちのもとに向かおうとしたのだが……。




「おかしい……姫様の移動先が、馬のほうじゃない?!」




 なぜだ。


 だがあえて姫様は庭園を見下ろせるバルコニーを目指して駆け出していたのだ。




「一度外に出たほうが早いか……」




 俺も駆け出す。


 バルコニーには一階から飛べばギリギリ手がかかるだろうしそのほうが早い。




「どうして……」




 意図のつかめない姫様の行動に思考が麻痺しているが、ひとまず身の安全を守れるように移動を開始した。

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