第230話 皇帝と皇兄
それから三日、一行は山岳地帯を進んだ。
例によって足手まといのハディードに合わせた行程だ、一日に大した距離は進めない。担いできた食糧の減りも気になる頃だが……皆が野営の準備をする間にオーランとアフシンが組んで、大型のカモシカのような獣と、鴨のような鳥を狩ってきた。その日の夕餉でとても食い切れるような量ではなく、リリとマルヤムがスライスし、塩水を塗って吊るしたところに、フェレが熱風を吹き付けて即席の干し肉に加工する。
「まったく便利過ぎる魔術だな」
眼の前ですいすいと干し肉ができていく様を見て、皇兄が感心している。加えてこの日の昼間には「雲寄せ」でしこたま飲料水を確保するシーンを見せて、彼の度肝を抜いていたのだ。
「ええ、フェレの力は無二のものといっていいでしょう。できればこうやって、平和な目的だけに使いたいところですが……」
ファリドの言わんとするところは、テーベがモスルやイスファハンに手を出せば、この魔術が災いとして降りかかるぞ、ということ。もちろん皇兄はそれを理解し、ゆっくりうなずく。
「あの馬鹿者……アスランを退場させたら、東方諸国とは平和的関係を築くようにさせよう。アレニウスも納得するだろうよ」
「皇兄殿下にそう仰ってもらえれば安心です。ぜひ皇帝陛下を無事お救いせねばなりませんね」
「うむ……」
そして皇兄はぽつぽつと、現皇帝アレニウスとの関係を語り始める。
母親を異とするこの兄と弟は、生まれた時から何かと比較されてきた。学問に関しては弟アレニウスが一歩前を行っていたが、武術や指揮能力に関しては兄たるサフラーが圧倒していた。そしてテーベは武断の国……次期皇帝レースは兄有利というのが衆目の一致するところであったのだという。
「しかし、武力一辺倒の儂は、この帝国全体を統べ、富ませ民を養うことなどはあまり得意ではない。ましてや貴族共の権力闘争の間に挟まれることなど、はっきり言って御免だった。弟アレニウスはそんなことも含め『皇帝になりたい』と申し出てきた……ゆえに、皇位を平和的に譲ったというわけだ」
大国の皇位継承などはどこでも激しい争いが付き物と思っていたファリドだが、現皇帝の即位にあたっては、兄弟の間であっさりと理性的に話がつき、貴族たちもそれに従ったのだという。
「アレニウスは厳格な皇帝と言われているが、なかなか器の大きい男でな。最大のライバルであったはずの儂を、平然と軍のトップに就けて好きに振る舞わせていたのだ」
「確かに、それは大胆ですね」
皇位を話し合いで譲ったとはいえ、人の気持ちなどというものは移ろうもの。兄に軍権を預けたということは、サフラーがその気になった際にはその座を明け渡す覚悟があったのか、それともそんな気を起こさせぬほど、立派な統治をする自信があったのか。
「まあ結果として、弟の統治はまずまともなものであったゆえ、儂は二年前に引退するまで、一武人として職責を全うしたというわけだ。後継の育て方に失敗したこと、佞臣をはびこらせたことは大失策であったが……アレニウスが民を富ませ、守ったことは間違いない」
傍らで会話を聞いていたハディードがうなずく。テーベのような大国を数十年間大過なく保たせることは、内政の専門家である彼から見ても、なまなかなことではないのだ。
「なるほど。幸いなことに現陛下は国民の支持も高いようですし……まずは速やかにお救いし、実効支配を取り戻してもらわねばなりませんね」
「うむ。まあ弟も、こたびのことで懲りたであろう。厳格さ一辺倒でなく、衆知を広い耳目を持って集め、佞臣を遠ざける勇気ある者に、その座を譲るべきであろうな。やつの治世に一言も異を唱えて来なかった儂だが、そこだけは言い聞かせてやるゆえに」
後継者に言及する皇兄の視線の先には、無論ハディードがいる。部下を威圧することなくその意見をきちんと聞くことができる彼が至尊の地位につけば、テーベは民に優しく、周辺国と無用に対立しない、豊かな国となるだろう。
「アレニウスを救う役目は、そなたら異能の者に任せようぞ。儂には別の仕事があるゆえ……南へ向かうつもりだ」
「伯父上、南と仰られると……」
「ハディードよ、いくら異能の者に助けを借りて皇宮を抑えたとて、国全体を動かすには多数の兵が必要だ。お前がいくら声を張り上げたとて、従う軍勢はおるまい」
「た、確かに……」
「だが、南国境を守る将軍たちは、儂の子飼い。直接訪ねて説けば、味方にもつけられよう」
ファリドが、我が意を得たようにうなずく。
結局のところ、このクーデターもどきに勝利を収めるには、フェレの力で貴族たちの度肝を抜くだけでは難しいのである。重要拠点を制圧し、市民の安全を守り、妄動する貴族を迅速に抑え込むには、軍隊の力が必要なのだ。ハディードに軍人たちを引き付けるカリスマはなく……ファリドは皇帝を救い、その権威でどこかの地方軍団を傘下に収めるつもりであった。
だがここに、ちょっと前まで軍のトップであった皇兄が現れた。もちろん皇帝を自陣に引き入れるのがもっとも上策ではあるが、それがかなわぬ時でも、地方軍団を従わせる選択肢が、一つ増えたのだ。
「皇兄殿下、ぜひ南方軍団を、お味方に」
ファリドは、深く一礼した。
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