第219話 暗殺

「あと一週間だな」


「ああ、そうだな」


「問題は、皇帝陛下が俺たちを宣言通りイスファハンに帰してくれるかどうかだが……」


 今夜も、ムザッハルはファリドの館で酒を飲んでいる。独り身で、友の少ないぼっち体質の彼が気楽に過ごせる場所は、そうそう無いのである。普通の家庭なら迷惑極まる話だが、今のファリド一家には時間の余裕がたっぷりある。フェレとリリもすでに心得たもので、夜の来客が毎日ある前提で、料理やらツマミやらを調えている。


「うむ、そこは心配する必要はないだろう。父は専制独裁を地でいくような君主ではあるが、一度口に出したことは曲げないのだ」


 言い切るムザッハルに、ファリドは少し意外の思いを抱く。父子の情愛など無縁に感じられたこの親子の間にも、ある種の信頼関係はあったようだ。


「そうか、ムザッハルがそう言うなら期待できるな」


 もはや「二ケ月」の間にフェレとファリドが明確な戦果を挙げることは、あり得ない。カルタゴとの前線ははるか西方……仮に今すぐ向かったとしても、戦場に着く頃には期限を迎えているだろう。


「しかし、あれ以来アスラン殿下の陣営から、何のアクションもないのだが」


「あの薬が、効きすぎたのであろうなあ」


 もちろん「あの薬」とは、豚貴族の惨殺である。結局のところアスランは、取り巻きの悲劇で覚えた恐怖を乗り越えてくることはなく、いたずらに時間が過ぎるに任せていたのだ。


「……そうか。帰れるのか」


 今日も男たちに混じって杯を空けているフェレの口角が、わずかに上がる。


「残念だ。俺が皇帝になったらどんな地位でも望み通りに与えるが、この国に残って……いや、これは言っても詮無いことであったな。お前たちが富や栄達に興味がないことは、わかりすぎるほどわかっているのにな」


 嬉しげなフェレと対照的に、目元に切なげな表情を浮かべるムザッハルである。皇子という出自と、俺様体質のせいで常にぼっちだったムザッハルとしては、ファリドたちの望みはわかっていても、言わずにはいられなかったのである。


「すまんな。二ケ月の期限が来たって別に急いで戻るってわけじゃない。のんびり観光でもしてから帰るさ。そんな顔をするなよ」


「あ、ああ……ならば、帰国する前に、お前の一家を特別な離宮に招待しよう。大河を遡ると渓谷があってな。そのほとりに建っているのだが……そこには温泉が湧くのだ。一日中、湯に浸かり放題だぞ!」


「ほう、温泉か……」


「……湯が、自然に湧くの? 行ってみたい」


 イスファハンでも、山間地には温泉がある。ファリドは冒険者として国中を旅して回っていた時分に何回か経験していた。しかしフェレの貧乏冒険者生活の記憶には馬小屋暮らしばかりがあって、温泉宿なんていうカネのかかる宿泊などしたことがなかったのだ。


「よしっ、みんなでお邪魔するとしよう。ムザッハル、約束だぞ? 忘れるんじゃないぞ?」


「ふん、忘れるものかよ。お前たちがびっくりするようなもてなしを準備するから、覚悟しておけ!」


 ムザッハルは満面の笑みで約束した。だがその約束は果たされることがなかった……少なくとも、彼の手では。


◇◇◇◇◇◇◇◇


「いやはや、今宵も楽しんだ……友との酒は、このように良いものであったか」


 宮殿への夜道をのんびりと歩くムザッハル。もちろん近衛兵が三人ほど護衛に付いているが、彼はそれすら必要ないと思っている。何しろ武勇だけが自慢の皇子なのだ、実際のところ並みの兵士ならば十人に囲まれても負けない自信を持っているのである。


 そして、したたかに酔っているにも関わらず、彼の第六感が闇の中に敵の気配を探り出す。


「このように楽しき夜に、無粋な……迎撃せよ!」


 不意討ちが成らぬことを悟った襲撃者が、次々と姿を現す……その数は、十二人か。


「ふむ、俺を討つならばこの三倍は討手を揃えねばなるまい。舐められたものだ……来るなら来い!」


 叫ぶなり剣を抜き放ち、瞬く間に一人を斬り捨てる。賊たちがひるむ気配が、ムザッハルの中にある獣性を目覚めさせ、皆殺しの欲求をもたらす。


「俺が全員片付ける! お前たちは俺の背後だけを守っておれ!」


 敵が前面だけならば決して遅れは取らないと言う自信が、彼にはある。そして近衛は精鋭揃い……背後に敵を近づけぬ程度であれば、簡単すぎるタスクである。


「ゆくぞ、ふんっ!」


 気合いの声とともに踏み出し、見る間に二人を斬る。宙を飛んで襲ってくる短剣を数本弾き返すと、彼は一瞬足を止めた。


「簡単すぎるな……このように無謀な任務を命じられたことは哀れだが、許すわけにはいかぬ。仰ぐ主人を誤ったことを冥界で悔いるがいい、覚悟せ……」


 ムザッハルは、全ての口上を言い終えることが出来なかった。彼の言葉を断ち切ったのは、二本の長剣。それらは背中から肺腑を貫き、胸まで突き抜けていたのだ。


「お、お前ら……」


 辛うじて振り返った先には、彼の背中を守るはずであった近衛兵の姿が。だが彼らは自らの剣を守るべき主の背に突き立てたまま、悲痛な表情を浮かべている。ムザッハルの脚が力を失い、その逞しい身体が、石畳にくずおれる。


「ファリド……お前の妻を温泉に連れて……」


 そんなつぶやきを残して、彼の瞳から光が失われた。

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