第170話 アフシンの帰還

 宿に戻って、二人で食事をする席でも、フェレは腕環に施された精密な細工をじっと見つめてはほうっと息を吐き、その目尻を下げている。最初見た時に少し大きめに見えたそれは、何かの魔法が付与されているものか、まるで最初からフェレのために誂えられたかのように、ぴったりと彼女の白い手首にフィットしているのだ。


 別れ際にカシムがぽつぽつと語ったところによると、彼の妻はテーベの王族に連なる者であったのだという。もっともそれは、彼女が死病の床について初めて語られたことであったのだが。腕環に刻まれた紋様は王族にのみ許された印なのだそうで、銀色の地金は実のところ魔銀であるのだとか。


「よっぽど、気にいったみたいだな」


「……うん。リドに買ってもらったもの以外で、こんなに大事に思えるものは、初めて。どうしてだろう……」


 ファリドへの好意ダダ漏れの返しに思わず照れる彼だが、モノにこだわらないフェレがこれだけ執着する腕環に、ふと違和感を覚える。


「なあフェレ、『あれ』やってみないか?」


 ファリドがそう言って開けたのは、卓上の塩壺だ。「あれ」とはもちろん、フェレの超絶魔法の原点である、塩粒で竜の姿を形づくり、宙を飛ばす「隠し芸」と自称する魔術のこと。小さく彼女がうなずくと、瞬時に手のひらサイズの竜が二体、食卓の上で絡み合い、舞い踊る。


「……うん……んっ! あれっ? すごく、楽にできるんだけど?」


 毎日のようにこれを鍛錬しているフェレが、驚きの声を上げる。


「やっぱりそうか。この腕輪は、魔術師のための術具だ。術者の魔力を効率よく増幅して、より少ない魔力で術を発現させる、便利な道具なんだ。カシムの奥さんってのは、魔術師だったのだろうな」


 身を飾ることにあまり興味がないフェレがあれほど惹かれるのだから、きっと何か魔力に関わる機能が付与されているのだろうというファリドの想像は、当たりだった。


 王族で、魔術師……そんな最高級の出自を持つ女性が、たとえ金鷲徽章持ちとはいえ異国のいち冒険者と結ばれるにあたっては、間違いなく複雑でろくでもない事情があるに違いないが、そこを詮索しても仕方がない。少しでもフェレの身を安全にしてくれるものならば、ありがたくもらっておこうというのが、彼の本音である。


「……テーベか。いつか行ってみたい……リドと二人で」


「そうだな。平和な時代が来たら……いつになるんだろうな」


 フェレのつぶやきが何かのフラグを立ててしまったのだろうか。彼らはほどなく、テーベを訪れる羽目になる。


◇◇◇◇◇◇◇◇


「……アフシン、結局昨夜は帰ってこなかった」


「大丈夫ですよフェレ様。あのお方は殺しても死にません」


「……だよね」


 もはや家族扱いとなった老魔族の心配をするフェレに、身も蓋もないフォローを入れる、侍女兼護衛のリリ。その一言で納得してしまうフェレも、大概ひどい奴である。


 その日もカシムの家に寄り、娘ナスリーンの顔色がすっかり良くなったことを確認し、安堵する。おそらく数日のうちには、身を起こせるようになるだろう。昨日に引き続き何度も感謝の言葉を重ねるカシムに苦笑しつつ、思い出をたどる旅を再開する二人であった。


 初めて二人で狩りをした森をそぞろ歩き、木漏れ日の光に目を細めるフェレを、愛しげに見やるファリド。巨木にもたれ二人並んで腰を下ろせば、フェレが不思議な構造色をまとった黒髪を、ファリドの肩にそっと預けてきて……彼はその髪を柔らかく撫でる。へにゃりと笑って気持ち良さげに眼を閉じ、そのまままったりとした昼下がりの時間が流れていく。


 本当は頬に口づけのひとつも落としたいファリドであるが、今日の護衛は、リリである。これ以上親密さを見せつければ彼女のやきもちがいずれ自分にぐさぐさ突き刺さってくることを、賢いファリドはもちろん承知している。いや、もうこの程度のイチャつきでも、離れた木陰でリリがプンスカしているのが、眼に見えるような気がする彼なのだ。


 そんなこんなで、何をするでもないが心満たされる時間を過ごした二人が日暮れどきになって宿に帰ってきても、アフシンの姿はない。さすがにファリドも不審に感じ始め、口数少なく夕食のテーブルに向かったその時、リリが食堂に小走りで飛び込んできた。


「アフシン様が……」


 しまいまで聞かず、フェレの椅子がガタリと大きな音を立てる。母ハスティに幼い頃から躾けられたものか大食いの癖に完璧なテーブルマナーを身に着けている彼女が、こんな音を食卓でさせるのは珍しい。バタバタと出ていくフェレを追いながら、ファリドはリリに問う。


「無事……なんだよな?」


「ええ、アフシン様は。ですが、思わぬお連れが……」


「連れ?」


 宿の玄関に走り出て、その意味がわかる。そこには、無言で首に抱きつかれて当惑するアフシンがいて……なぜか彼の手は、泥や血で汚れ切った子供と繋がれていた。

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