櫻ノ漆『対峙』

 滝沢の言っていたことは真実だった。


 二日目に見た滝桜は、昨日よりも更に一回り程大きくなっていた。

 いや、実際には咲いた花の数が増えただけで、樹そのものが生長した訳ではない。だが、威圧感は間違い無く強まっていた。

 枝に収まり切らず、今にもはちきれて落ちてきそうな、やや大ぶりの紅白花。その重みを支える支柱さえもがぎしぎしと悲鳴を上げている始末だ。


 これでもまだ八分咲きだと言う。これ以上花を付けたら──想像するだけでもぞっとする。満月の光を浴びた、満開となった滝桜の異形。今は考えたくはなかった。彼女と空間を共有する、今この瞬間だけはせめて、平穏な心のままで居たかった。


「せ……先生」

「ん? どうしたんだい、幸子ちゃん」

「あんまり見つめられると、その……恥ずかしい、です」

「それは仕方ないだろう? 私は今、他の誰でもない、君の絵を描いているんだからね。慣れない内は大変だと思うけど、我慢してくれよ」

「そ、それはそうですけどぉ」


 居心地悪そうにもじもじする幸子は今、カンバスを構えた私と滝桜との丁度中間地点に置いた椅子に腰掛けている。今宵の彼女にはいつもの農作業服ではなく、桜の薄桃色に同調した白いワンピースを着て貰っている。愛子のお下がりで、押し入れに大切にしまわれていたものだ。

 そう、私達はいよいよ絵の制作に取り掛かっているのだった。


「そんなに固くならなくても良いよ。無理にポーズを取る必要は無いんだ、自然体で居てくれたまえ。私が描きたいのは、素の君の姿なんだから」

「でも、私が動いたら描きにくいんじゃないですか?」

「おいおい、私はこれでもプロなんだぞ? 多少は動いてくれても構わないんだ、微動だにしない相手はかえって描きづらい。

 私達画家は何も、対象の姿形だけを描写する訳じゃないんだよ。対象のちょっとした動作──瞬きや息遣い、生命の脈動のようなもの、その瞬間瞬間を捉えて絵に表すんだ。

 ここで言う対象とは、何も人間だけを指している訳じゃない。私が君を通して描こうとしているのはね、その背後にある滝桜の息吹なんだ。そしてそれを象徴しているのが、君なんだよ」

「私が……お滝様を……!」


 私の言葉に、感じ入ったように呟く幸子。その瞬間見せた儚い横顔を、私は見逃さなかった。素早く筆を走らせ描いていく。


 普通西洋画家はまずクレヨンで輪郭を描いてから絵の具で色付けをするが、今回の場合、その作業は不要だ。私の脳内において、滝桜と幸子の像は完璧に刻み込まれている。特に意識せずとも頭に浮かんで来るくらいだ。


 四方に伸びた太い枝から、真紅の滝がほとばしるかのように小さな花を無数に咲かせる滝桜。そして、おっちょこちょいでどこか抜けてて、だけど一生懸命で、絵に対する情熱は誰にも負けない幸子。一見何の共通点も無い両者は、その実私の網膜に完全なる調和を作り出していた。


 焼き付くようなそのイメージを、ありのままにカンバスに表していく。下書きは不要だ、いやむしろあってはいけないものだ。一瞬一瞬の変化を逃さず描き切るには、幾重にも塗り重ねる油絵こそが相応しいのだ。


 カンバス一面を塗り潰し、そしてその上から更に塗り続ける。紙ではこうはいかない。どんなに丈夫な紙でも、絵の具の油に侵されてすぐに駄目になってしまう。画布だからこそ耐えられるのだ。情熱に、胸の奥から噴き上がって来る、魂の炎に。これこそが画家の命だ、これこそが全てだ。情熱さえあれば、技量などは後から付いて来る。


 私が忘れてしまっていたものはこれなのだ。カンバスに拳を振るいたい衝動に駆られる。あらん限りの声を張り上げて、狂ったように走り回りたくなる。幸子を押し倒し、滅茶苦茶にしてやりたくなる。花を一つ一つ毟り取り、踏み躙ってやりたくなる。

 ああ、それらの破壊衝動、本能的欲求の全てが絵の中に収束していくのだ。一枚の絵画という形に纏められるのだ。本来そうでなければならなかったのだ。少なくとも、私の絵は。


 体裁などどうでも良い、結果として売れなくても構わない。私が私であるということと同じように、私の絵は私だけのものであるべきなのだ。だからこそ、私にしか描けない絵が描けるのだ。私が今描いているものは滝桜と幸子と、そして私自身なんだ。


「幸子ちゃん、唄ってくれないか、あの歌を」


 絵の具を練りながら、私は幸子に頼んだ。息が詰まりそうだった。

 狂ったように絵筆を動かしている間、私は呼吸を全くしていなかったのだ。


 この緊張感を保ったままで描き続けることは、私にとっては死ぬことに等しい責め苦だった。いや、描き終わるまでに本当に命を落とす可能性もある。私には一拍の息継ぎが必要だった。だから頼んだのだ。

 私の意図を汲み取ったのか、彼女はやや姿勢を崩し、そして大きく息を吸い込んだ。


「一つ、三春に花が咲き」


 花は咲いた、だが未だ満開ではない。そのことの意味を私は実感していた。今のままで良い、今のままの滝桜で。美し過ぎるということは、時として見る者に恐怖すら与えるものなのだ。

 それは醜いということでもある。究極の美醜を受け入れられる程に、人の眼は進化してはいないのだ。それは、人が未だ神にはなれていないことの証となる。

 だから私は思うのだ、滝桜は現在の不完全な姿のままで良い、と。


「二つ、桜の滝の音響き」


 咲き終わりの滝桜はまた、枝に付いた花々を春の強風に乗せて振るい落とす。その時、滝の水が流れ落ちるような轟音を立てるという。その音は近隣の町にまで響き渡る程だと言うが、流石にそれは誇張表現だと思う。だが、火の無い所に煙は立たない。誇張だとしても、それに近いことは起きるのだろう。


 この桜を見ていると、どんなことでも不可能なことでもありえるように思えてしまうから不思議だ。生命の奇跡の瞬間、雪崩落ちる花の洪水を、果たして私は目にすることができるのだろうか。その瞬間を目撃できた時こそ私は、神隠しから逃れ、生き延びることができたということになる。


「三つ、泡沫の春のご到来でございます」


 滝桜が満開を迎えた時、三春町に本当の春は訪れる。一時に三度春が訪れるという三春町、一年に三度春が訪れるという三春町。取り方によって、如何様にも解釈できる。それがこの町をよりミステリアスにさせるのだ。


 眠っていた好奇心を刺激し起こす、本当に魅力的な町だと思う。しかも、そうしてやっと訪れた春でさえ、泡のように脆くも消えていってしまうものでしかない。それが東北の春の宿命なのだ。


「四つ、三春に四度の春鳴かず。来ず方哀しき御座候。嗚呼、南無南無」


 そして、最後の一節。この部分だけ古文調なのは、前の三文と比較強調している為だろう。今までは盛り上げる調子で唄っていたのが、急に暗く沈んだ調子に変わるのだ。最後こそ調子を合わせる為に「嗚呼、南無南無」などとおどけた感じになっているが、私に言わせれば薮蛇以外の何物でもない。


 四季において、三度の春しか持ち得なかった三春。ならば、残り一つは何なのだろう。それは極寒の冬だ。東北の冬の厳しさは想像を絶するもので、暖房設備が整っていなかった昔は多くの凍死者を出したという。また仮に凍死しなかったとしても、冬場の飢えからは逃れられない。蓄えの無い、貧しい人々はまた死んでいく。そうした人々の犠牲の下に、現在の三春がある。平和な今の三春町が。


 私は思うのだ。三度の春しか無いからこそ、この町の人々は春というものを心から待ち望むのだろうと。足りないからこそ、満たされないからこそ、その物のありがたみが分かるのだ。手に入れようと必死になれるのだ。私と同じだ。才能が無いからこそ、死に物狂いで絵を描いて居られる、今の私と。


「三春四文詞……か」


 恐らく滝沢が言っていたのは、この歌のことなのだろう。幼くして伊達家に独り嫁いだ愛姫の身を案じて、故郷三春の自然を四節の文にしたためた清顕の、親の愛の篭った詞。

 手紙を見て愛姫はどう思ったのだろう。三春に帰りたいと思っただろうか、父に逢いたいと思っただろうか。思えば彼女も孤独だった。伊達正宗という夫が居たが、彼もまた幼過ぎた、愛姫の心を満たしてくれる存在としては不完全なものだったのだ。


 『三春四文詞』は元々、清顕の愛と愛姫の哀を謡ったものであったのだろう。それが民衆にまで浸透したのは、彼ら親子の情が人々の春を求める想いと重なっていたからだ。そして私はまた、その想いをも描こうとしていた。三春を象徴する滝桜を描くことによって、三春町そのものを描き切るつもりだった。


 愛と哀、幸子と滝桜。私が背負うものは大きい。


「大分お疲れのようですね。そろそろ休憩しませんか?」


 そんな私を気遣うように、幸子は声を掛けて来る。彼女自身、少し疲れたような表情をしていた。無理も無いか。時計を見て、私は息を吐いた。もう三時だ。朝から延々と、休憩無しで描き続けていたことになる。

 そう言えば、筆を持つ手に力が入らなくなって来た。私自身、そろそろ限界なのかも知れない。


「そうだな。今日はここまでにしておこうか。続きはまた明日に──」


 言い掛けて。残された時間が明日一日しか無いことに気付き、私は愕然とした。予報通りなら明日の夜には滝桜は満開になり、そして散る。そうなってしまったらもうお終いだ。

 いくら頭の中でイメージできているとは言っても、フィクションを描いたことになってしまう。

 ノンフィクションに、ありのままの滝桜の姿を描く為には、実際にそれを見る必要があった。だからこそ私は今、ここに居るのだ。


「……いや。日暮れまでにはまだ時間がある。もう少しだけ頑張ってみよう」


 筆を握る手に力を込め直し、私はそう応えた。休む時間など、私には無いのだ。幸子もそれは察しているのか、複雑な表情を浮かべながらも、それ以上何も言っては来なかった。


 結局私達は、その後二時間以上そこに居た。

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