ミハルヨサクラ
すだチ
櫻ノ壱『邂逅』
一つ、三春に花が咲き
二つ、桜の滝の音響き
三つ、泡沫(うたかた)の春のご到来でございます
……四つ、三春に……
駅を出ると、そこには絵に描いたような田園風景が広がっていた──と、画家である私が言うと変に聞こえるかも知れないが。
見渡す限り、空の青と大地の緑しか見えないのだ。
その二つの色は彼方の地平線で一つに結びつき、中間色を作り出している。
恐ろしい程に人工物が無い。いや、よく見るとぽつぽつと、緑の中に家らしきものが建っているのが見えなくもないのだが。それらは遥か遠くまばらに在って、歩きではとても辿り着けそうにない。
都会の喧騒が嘘のように、電車を乗り継いでやって来たこの町は静かだった。
福島県田村郡三春町。
一度に三つの春が訪れるというこの町は、春を象徴する花、桜で有名だ。
特に天然記念物に指定されている滝桜は、その名の示すように、滝の如く降り注ぐような大量の花を付けることで有名な、樹齢千年を越える巨樹である。
軟弱なソメイヨシノなどとは明らかに異なる威風堂々としたその姿は見る者の目を引き、虜にさせる。
桜好きなら一度は目にしておくべきだとまで言われては見たくなるのが人情というもので、一目見ようとこうして遠路遥々やって来た訳なのだが。
標識も何も無い、田畑を縫うように張り巡らされたあぜ道を見つめ、私は溜息をついた。これでは、滝桜を見つける前に迷子になってしまう。駅の売店で買っておいた観光ガイドを広げてみるも、目印となるはずの国道が一向に見当たらないのだから如何ともしがたい。
つまる所、私はこの時点で既に道に迷っていた訳だ。
途方にくれながらも適当に歩いてみようと一歩踏み出す、と。
「あ、そっちは危ないですよ。崖に突き当たりますから」
ふと、今まで人気の無かった場所に声が生まれた。
呼び止めるその声は少し高めで、少し低め。要するに並程度の音域で、耳当たりの良い女性の声だった。
声の方向を察して振り返ると、作業服姿の少女が田んぼから出て来る所だった。
年の頃は十七、八か。清純可憐な──とは、泥だらけの彼女を表現するには相応しくないだろう。純朴そうな人懐っこい笑顔で、彼女は私に声を掛けて来る。
「こんにちはー。三春町へようこそ。観光の方ですか?」
「ああ。ちょっと滝桜を観にね。日帰りで帰る予定なんだけど」
「あ、でしたら、帰りにでも是非ウチに寄って行って下さいよ。何も無い家ですけど、晩御飯くらいはご馳走できますから」
「え? あ、いやそんな、ご厄介になる訳には」
「……お礼に一枚絵を描いてくれると嬉しいかな、って思ってたりしますけどね」
あくまで笑顔のまま、彼女はそう言い足して来た。どうやら私の正体に気が付いたらしい。
まぁ、イーゼルやら何やらの道具一式を背負っている訳だから、気付いて当たり前と言えばそうなのだが。
だが彼女は、私の顔を見つめて言って来た。
「芹沢真人(せりざわ まこと)先生ですよね?」
名前を言い当てられて、私は一瞬絶句する。
「あ、やっぱりそうなんですね? やった、本物の芹沢先生だっ」
私の表情の変化を読み取ったのか、嬉しそうに微笑む少女。それを私は信じられないものを見るような目つきで見つめていた。
自慢じゃないが、絵の下手さには自信がある。と言ってしまうと誤解を招きそうだから付け足しておくが、プロとしては下手な部類に入るだけで、決して素人と同レベルな訳ではない。これでも一応美大出身なのだ、基礎は完璧にこなせる自信がある。だが、応用となるとそうはいかない。
いかにして個性を出すか、自分らしく表現できるか。その点において私は他者に劣っている。そう自覚できる程に下手な訳で、専門的に買い付けてくれる画商の知り合いなど居る筈も無く、地道に描いた絵を一枚一枚画廊に持ち込む日々を送っている。無名の新人も良い所だ。
そんな私の名前を知っているという彼女。ありえないことだった。彼女とは完全に初対面なのだ、知っているはずが無い。関東圏ならともかく、こんな片田舎の町でも私の絵が売られているとは思えないし……。
「あの、私先生の大ファンなんです。良かったらその、握手して下さい」
泥だらけの軍手を脱ぎ、おずおずと手を差し出して来る彼女。僅かに頬を赤くして緊張した面持ちの様子を見る限りでは、彼女の言っていることに偽りは無さそうだった。どっきりカメラか何かかな、などと一瞬頭をよぎったが、私はテレビに出演できるような有名人ではないのだと思い直す。
普段から畑仕事をしているせいか、年の割には節くれ立った手を握ってやると、直に彼女の体温が伝わって来た。私より少し高い。
「ああ……私、感激です。憧れの芹沢先生と握手できるだなんて、夢のよう」
「はぁ。感激されてるトコ悪いけど、誰かと勘違いしてないか、君? 確かに私は画家の芹沢真人だが、君に尊敬されるような有名人じゃないし、実力も無いに等しいよ」
苦笑混じりに言ってやるも、少女はぶんぶん首を振って「とんでもない、ご謙遜を!」と力一杯否定するばかりだった。
彼女が首を振る度、三つ編みにしている髪も左右に揺れて何だかおかしい。
「先生は天才です。私には分かります。だって私、先生の絵を見る度心がこーぐぐぐっと動くんですもの。
ときめきに近いというか、ぶっちゃけ恋かも知れませんよ?
──って、きゃーやだ、言っちゃった言っちゃったー!」
独りで言って勝手に盛り上がる彼女を唖然と見つめ、私は白昼夢でも見ているのではないかと思った。考えれば考える程ありえないと思えてしまう。こんな田舎まで来て疑心暗鬼も良い所だが、急に降って沸いたファンだと言う少女の言葉を素直に信じられる程には、私という人間は単純ではなかったのだ。
「まぁ、ファンでも何でもいいんだけどさ。それより君」
「あっ、ごめんなさい名前を言うのすっかり忘れちゃってましたね! やだなぁ私って独りで舞い上がっちゃって。私、幸子(さちこ)って言います。宜しくお願いしますね、芹沢先生」
「あ、いや別に名前を訊いた訳ではなくてだね。できればその、滝桜がある場所まで案内して貰いたいんだけど」
私が言うと、幸子はようやく得心したのか、「ああ」と頷いて手を打った。厄介な子と関わり合いになってしまったかな。少し後悔したが、彼女以外に今の所人間が見つかっていないのだから仕方ない。迷子の異邦人としては、猫の手も借りたい所なのだ。最悪、滝桜を見ずに帰るという手も無い訳ではないが、今日という一日を無駄に過ごしたことになってしまう。画家にとって一日絵を描かないということがどれ程手痛いことか、少しでも美術の心得のある者ならばきっと分かってくれるだろうと思う。
「お滝様ならこちらに御座います。案内しますから、ついて来て下さいね」
そう言って、早速歩き出す幸子。泥のこびり付いた長靴を履いたまま歩道を歩くのは大変なのだろう、ぎゅっぎゅっと巍々(ぎぎ)が鳴くような靴音を立てて、えっちらおっちら大股で何とか歩いている。その後をついて歩きながら、私は何の気無しに辺りを見た。
一面の緑の正体は青田だった。田植えを終えたばかりなのか、背の低い苗にはまだ穂らしきものは見えない。そう言えば聞いたことがある。東北では遅咲きの桜の花が散る頃に田植えを始めるのだと。そうしないと、秋の収穫に間に合わないのだそうな。
「ねぇ君、ひょっとして田植えの途中だったんじゃ?」
何気無く思いついたことを訊いてみると、幸子はぴたりと足を止めた。ぎぎぎぎぎ、と軋むような音を立てて振り向いて来た彼女の顔は蒼白で。どうやら訊いてはいけないことを訊いてしまったらしい。
「ごめんなさい、私戻らないと……姉さんに殺されてしまいますので」
「あ、ああ。お仕事、頑張ってね」
「は、はいっ! それでは!」
元来た道を風のように──とは言い難いドタドタとした足取りで走って行く彼女。その背中を、騒々しい娘に出逢ってしまったものだと苦笑しながら見送っていると。
少し走った所で立ち止まり、彼女は付け加えるように言って来た。
「あ、お滝様の御座(みざ)にはこの道をまっすぐ行ったら辿り着けますから。くれぐれもお滝様に粗相の無いようお願いしますねっ」
それだけ言って、彼女は走り去って行った。彼女の小さな背中が完全に見えなくなるまで見送った後、私は溜息を一つついて歩き始めた。折角案内人を見つけられたと思ったらもうこれだ。母親に置いてきぼりにされた子供のような心境、とでも表現するのが正しいだろうか。妙な寂しさを抱きながら、私は延々と続く田舎道を歩き始めた。人恋し。近くの山の方から聞こえて来る小鳥のさえずりさえも物悲しく感じるから不思議だ。
それにしても、お滝様とは。先程の幸子の言葉を思い出し苦笑する。
幾ら天然記念物級の貫禄ある桜とはいえ、所詮は桜だ、敬語を使う必要は何処にも無い。それなのに幸子は、まるで目上の人物を敬うような口調で滝桜のことを言っていた。しまいに粗相の無いようお願いしますと来たもんだ。子供じゃあるまいし、私が桜に悪戯等する訳が無いのに。ファンとか先生とか調子の良いことを言いながらも、余所者だと警戒されているのだろうか。
それとも、他に何か理由でもあるのだろうか。
「一つ、三春に花が咲き」
そんなことを考えながら歩いていると、声が聞こえて来た。風に流れて来たその声は子供のもので、集団で合唱しているように聞こえる。歌声の方向に視線を巡らすと、雑木林の先に、小さな丘が目に入った。その頂上付近に何かが見える。薄桃色の、まるで林のように茂ったそれは……たった一本の、桜の樹だった。
「二つ、桜の滝の音響き」
それを見た瞬間、私は圧倒されてしまっていた。予想を遥かに超えるスケールのそれは、私が探していた滝桜に相違無い。枝を縦横無尽に張り巡らせ、その全て、先端の細枝に至るまで花を付けている。その数、数千、数万──いや、もっと多いか。数え切れない程に咲き誇る花の自重で枝が折れてしまうのを防ぐ為、支柱が何本か立てられている。幹は大人数人が手を伸ばしても届かない程に太い。……本当に、これは桜なのか?
特有の儚いイメージは微塵も感じさせず、他の木々を侵食する程に枝を広げたその様は正に王者だ。生命力漲る強烈な存在感。
私は走り出していた。もっと近くで見てみたかった。ガチャガチャと背中の道具が揺れて音を立てるのにも構わず、滝桜のある丘へと駆けて行く。
「三つ、泡沫(うたかた)の春のご到来でございます」
走っている内に息が上がって来たが、構わず私は全力疾走を続けた。
歌声は強まっている、近付いている証拠だ。間違い無い、この先に滝桜は在る。そして私は、それを心より見たいと願っていた。心が燃えているのが分かる。頭がズキズキと痛む。
「……四つ、三春に……」
鬱蒼と茂った雑木林を抜けると、滝桜は目前に在った。
目に入って来たのは、頭上に広がる、今にも降ってきそうな程に生い茂ったピンクの花の大群。凄まじい光景だった。
桜に押し潰されると、生まれて初めて私は思い、そして心の底からぞっとした。怖い程に美しい、美しい程に雄々しい。この感覚を何と例えれば良いだろう。真の恐怖か。それとも、皇(すめらぎ)たる存在への畏怖か。美し過ぎるものへの畏れと感動、それらが入り混じった感情。
あるいは──ああ、言葉ではとても言い尽くせない。この想いは、身体を突き破らんばかりに溢れ返るこの激情は。
そうだ、私如きが見て良いものではなかったのだ、これは。足が震えているのが分かる。失禁こそしていないが、すっかり腰は引けてしまっている。初めてだった。ここまで何かを恐ろしいと感じたのは。
ぶわっ。急に横から風が吹き、桜の花びらが舞い上がった。あまりの量に、一切の視界が閉ざされる。滝桜とはよく言ったものだ。水の代わりに数多の花弁が、私目掛けて雪崩落ちて来た。
その勢いに圧されるように、私は尻餅をつく。と。
花の洪水の中に一瞬、人影が見えたような気がした。
髪の長い、白装束を着た少女の。
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