【第一章 砂漠に咲いた氷花みたいで】2-1

 辿り着いたのは、廃礼拝堂だった。

 大礼拝堂の新設に伴って、今では倉庫として利用されるようになったこの場所は、ガリラド大聖堂内部で唯一、聖職者が常駐していない建物であると言う。

 シキ=カガリヤはしばらくの間、ごちゃついた礼拝堂内を歩き回っていた……かと思えば水の溜まった大瓶を持って、早足でこちらへ戻って来て。

「……喜べエヴィル、聖水があった」

「聖水? ……興味ない。この国の馬鹿げた信仰には──」

「そんな話はしていない。君の腕が、腐らずに済むって言ったんだ」

 怪訝な顔をするエヴィルの前で、シキは瓶の蓋を開ける。数年にわたり放置されていたはずなのに、それは腐ることもなく透き通っていた。

「……この水は傷まず、腐らない。祈りの仕上げに、神官によって施される魔法処理が……微生物に対する、抵抗作用を付与しているんだ」

「……ビセーブツ?」

「目に見えない、小さな生き物のことだ。数えきれないほどの種類があるが……聖水はそのうち、およそ六割に効果があると考えられて、この傷口の場合だと──」

「何の話?」

 ぽかん。その表情に、シキは詳しい説明をすることを諦めたようで。

「……綺麗になるってことだよ、聖水の力で」

 そんなことを言いながら、エヴィルの傷口に聖水をかける。

「…………?」

 わけの分からない話ばかりしやがって、こいつは馬鹿かとエヴィルは思った。

 続いてシキは、縫い物用の糸針に聖水を浸して向き直る。

「……さて、縫うぞ」

「なな何で!? 血も止まったし、もう大丈夫──」

「一時的に縛ってるだけだ。このまま放っておけば、血が巡らずに腕が腐る」

 強引にエヴィルを押さえ付け、シキは傷口に針を通す。

「く……」

 爆破の痛みに比べれば、これぐらい何てことないはずなのに……肉を突き刺す感覚は、どうにも不愉快極まりない。

「……よし、完了」

 ものの数分で、全ての治療は終了した。

 そっと傷口に触れながら、少年は縫合の具合を確認する。うん、なかなか悪くない──涼しい顔で、そんな事を呟いている。

 ……崩れることない冷静さが、なんだか少し恨めしくなった。

「そういえば──」

 突如切り出し、エヴィルは素早く起き上がる。

 瞬間──柔らかな胸元のふくらみが、シキの指先にわずかに触れた。

「わっ……!」

 ぽよん。その感触に、さすがのシキも驚いたようで……慌てて手を引っ込めて、目を泳がせて動揺している。

「なな、な、なにすんだよ! お前、お前っ……!」

 エヴィルは頬を赤らめて、震える両手で胸元を隠す。

 じわりと涙目になりながら、呆然と立ち尽くすシキを見上げた。

「……まさか、ほんとは体目当てで……そのつもりで、助けたのか……?」

「はぁ!? 馬鹿、違う。今のは事故で──」

「ひどい。最低だ。そんな奴だとは思わなかった! ……でも……」

 震える声で「でも」を繰り返しながら、エヴィルは戸惑ったように目を伏せる。

「でも……なんだろう。なんだか、ちょっとドキドキして……」

 唐突にシキの手を掴み、自身の胸元に当ててみる。

 ふよん。シキはすっかり動転して、胸に触れた状態のまま悲痛に叫ぶ。

「何してるんだよ馬鹿ッ……!」

「なあ、なんでだシキ? 嫌なのに、なんで、ちょっと気持ちがいいんだ?」

「…………ッ……」

 エヴィルの疑問に、シキは一切答えない。ただ顔を赤くして、困り果てたまま目を伏せていた。

 その目をぐっと覗き込み、澄んだ瞳でエヴィルは呟く。

「なあ、シキ。もっと」

「はっ……?」

「わかんないんだ、俺。なんでドキドキすんのか、なんで気持ちいいのか……わかんないから、たしかめたい。もっと触って……そうだ、いっそ直接揉んでみてくれよ!」

 エヴィルはすっと立ち上がり、胸元のボタンに手を掛ける。

 すっかり硬直してしまったシキの前で、少女はワンピースのボタンを外してゆく。少しずつ少しずつ……きめ細やかな柔肌が、露わになって。

 突然の出来事にどうすることも出来なくて、シキはとっさに目を閉じた。

「…………!」

 ──ぱさ、ぱさ。

 軽い音を立てて、何かがふたつ、床に落ちた。

 おそるおそる、シキが薄目を開けて見てみれば──それは紛れもなく、ふっくらとした丸パンで。

「……ぷっ」

 我慢できずに噴き出せば、シキはハッと顔を上げる。その唖然とした表情を、エヴィルはニヤニヤと見つめ返す。

「いやー、面白えな。お前、なかなかカワイイ反応するじゃんか」

 ケラケラと笑いながら、エヴィルは床に、直接あぐらをかいて座り込み……サラシを巻いた胸元を、誇らしげにどんと叩く。

「ま! つまりは、こーゆーことよ!」

「は……?」

 女性らしさを感じさせない、伸びやかな平原のような胸元に……シキはすっかり愕然としていた。

 よし、作戦成功! エヴィルはすっかり満足しながら、床に落ちた「ふくらみ」をふたつ拾い上げ、ぽんとシキに投げ渡す。

「それ、俺の非常食。これがなかなか美味しくてさ、胸に詰めると良い感じのおっぱいになるからオススメだ」

「……え?」

「まあ、そう拗ねるなって。お前すげえクールな顔してっから、ちょっとからかってやろうと思ったわけよ」

 悪戯っぽくエヴィルは笑い、シキに向かって言葉を続ける。

「俺さ……どういうわけか昔から、髪を伸ばした方が力が出るんだ。だから、いっそ女装してみたってわけ。深い意味はないんだ。ただ、鏡を見たときにさ……むさい男より、可愛い美少女がいてくれた方がさ、捗るだろ? いろいろと」

「…………」

 シキは眩暈を覚えたのか、へなへなと椅子に座り込んだ。少し心配して覗き込めば、彼はキッとこちらを睨みつけ。

「ふざけんな、ド変態め」

 どすん。処置したばかりの右肩を、力の限り殴りつけた。

「ぎゃっ! おい馬鹿、傷口に当たったぞ!」

「知ってる」

「え?」

「わざとだ」

「わ、わざとかよっ……!」

 激痛の程度はかなりのもので、悶絶しながら呻くしかない。

 そんなエヴィルを横目で見ながら、少し拗ねたような顔でシキは言った。

「……本当は、かなり効く痛み止めを持ってるけど……お前には絶対、やるもんか」

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