第35話 頼りになるお姉さん

 布団の中で目が覚めた。

 跳ね起きると同時にスマホで日付を確認する。


「四月三日……」


 成功だ。狙い通りの時間に戻って来ている。

 時刻は午前十時半。

 体感的には約九か月前なので記憶があいまいだが、春休みなのをいいことに四月二日の夜に海空姉さんと夜通しゲームをして、日の出の直前に布団に入ったはず。

 この時間に飛べたという事は、海空姉さんは仮眠だけ取って『ラビット』を完成させたのか。


 周囲を見回す。松瀬本家に泊まった時に利用する客間の一つだ。

 俺は寝間着から外出着に着替えて部屋を出る。ちょうど廊下を乾拭きしていたお手伝いさんと目があった。


「巴様、お出かけでしょうか?」

「えぇ、先に海空姉さんに声をかけてきます。部屋ですか?」

「お嬢様でしたら、二時間ほど前にお目覚めになられてお部屋におります」

「分かりました」


 勝手知ったるなんとやら、海空姉さんの部屋に直行して、中に声をかける。


「海空姉さん、入っていい?」

「……どうぞ」


 扉を開けると、パソコンでニュースサイトを見ていた海空姉さんがこちらに向き直った。

 何か言いたそうだが、こちらから尋ねることはしない。

 現在、俺もチェシャ猫の対象者だ。おそらくは海空姉さんも一緒に過去に戻って来ているはずだが、実際のところは分からない。

 『ラビット』の更新プログラムの反映が遅れていたり、俺が渡したスマホの電源を切ってでもいたら、海空姉さんや笹篠、迅堂は四月十三日に取り残されているのだから。

 おかげで、俺はぎりぎりチェシャ猫の餌食になっていない。それは海空姉さんにも当てはまる。


 だから、互いに時間に関する質問などができない状態だ。

 さて、海空姉さんが部屋を出ていくまで居座るとしようかな。

 部屋に俺が足を踏み入れると同時に、海空姉さんがパソコンの前を離れた。


「巴、どこかに出かけるのかい?」

「寝起きだから、少しゆっくりした後に出るつもり。何か欲しいものある?」

「コンビニで紅茶プリンを買ってきてほしいかな」


 希望を言って、海空姉さんは部屋の扉に手をかける。


「どこ行くの?」

「春先とはいえ、その恰好では寒いだろう? ボクのおさがりのイヤーマフを貸してあげよう」


 海空姉さんはそう言って悪戯っぽく笑い、部屋を出て行った。

 あまりに自然に部屋を出ていく海空姉さんを見送る。あそこまで鮮やかに部屋を出ていくってことは、もしかして本当に四月十三日に取り残されてるのか?


 少し不安になったが、今さら計画を止めるわけにもいかない。俺は海空姉さんのパソコンの前に座った。

 『ラビット』のフォルダから『巴用』と書かれたものを見つけ、夏の事件での決め手になる台詞を仕込む。俺が床次さんとの対決で相打ちになった場合の保険だ。

 今回の作戦が上手くいけば『ラビット』の拡散はされないから、大塚さんも事件を起こさないはずだけど。

 台詞の登録が終わり、パソコンの画面を戻す。


 俺は定位置のクッションに座りなおしてスマホでネットにアクセスする。

 匿名掲示板のスレッドを眺めていると、海空姉さんが部屋のドアを開けた。


「巴、イヤーマフだよ。紅茶プリンをよろしくね」

「やけにこだわるね。どこのコンビニの商品が欲しいとかあるの?」

「商店街と病院の間に大通りがあるだろう? あそこの公園の向かいにあるコンビニに売っている奴が欲しいんだ」


 遠いな。

 海空姉さんからイヤーマフを受け取り、耳に装着。なかなか暖かいが、少し周囲の音が聞こえにくい。しかも、ちょっと重い。慣れてないからかな。


「車には注意するようにね」

「分かった。行ってきます」


 海空姉さんに見送られて部屋を出た俺は、スマホで掲示板を確認しながら本家を後にする。

 計画通りなら、いまごろ笹篠と迅堂も床次さんを探して、匿名掲示板で符丁を書き込んでいるはずだ。

 チェシャ猫を避けるために一般人の書き込みと混同するような符丁にしているから、情報としての精度は低いけど。


 ……紅茶プリン、買いに行くか?

 イヤーマフに片手を当てて、考える。

 このタイミングで海空姉さんが紅茶プリンを買ってくるように頼んできたのが気にかかる。

 甘党だから単に食べたかっただけかもしれないけど。


「やっぱり情報の精度が低いな」


 未来人なのに情報アドバンテージが活かせない。チェシャ猫は本当に厄介だ。


「――ん?」


 更新した掲示板に書き込みがあった。いくつかの符丁を含むそれは一般人のものとも笹篠や迅堂のものとも判別できない。

 だが、その書き込みの符丁は床次さんが大通りを商店街の方へ向かっていることを示唆している。

 紅茶プリンを買いに行くなら通りがかる場所だ。


 いや、考えるのは止そう。

 すべては偶然である。そう考えるのが生き延びる術なのだから。


 俺は速足で商店街に向かう。

 四月三日、新年度に浮かれる新一年生が親と文房具を揃えに出かけている。

 通り抜ける商店街では花見のお供にお惣菜を買って行く集団を見かけた。

 平和な春の陽気の下で、当たり前の日常が滞りなく展開している。

 来年のいまごろに、みんなで花見に出かけるのも面白そうだ。

 そんな明るい未来を掴むために――俺はスマホを取り出した。


 大通りから公園に入った床次さんを見つけ、俺は駆けだしながら非通知で床次さんのスマホに電話をかける。

 公園で、床次さんは足を止めてポケットからスマホを取り出すも、通話には出ようとしない。

 非通知でかかってくれば未来人でなくても警戒するしな。

 だが、注意は逸れた。


 俺は足音を立てないように気を付けながら素早く床次さんに近づく。

 その時、床次さんがスマホを掲げた。

 咄嗟に視線を向けてしまったそのスマホの画面は、何かの動画を再生しているように見えた。

 ゾッとする。電話に出ていないということは、いま床次さんがスマホで何をしている?


 一般人にしてはあまりに不可解な動きだが、動画を見るにあたり太陽の反射が気になって影を作ったとも考えられる。

 だが、もしも未来人なら何かを仕掛けてくる。例えば、大音量での未来人暴露など。俺を認識せずとも周囲にいるのではと考えれば、こんなテロみたいなやり方もできる。

 でも、サーバーを奪取して『ラビット』を消去した床次さんが、自分以外の未来人を想定する意味も、自分が狙われている可能性を考える意味もないはずだ。

 いやもう、どっちでもいい。


 一気に距離を詰めて、耳栓をしてても聞こえるくらいの大声で未来人暴露を先にかますしかない。

 全力で駆けだした俺の足音に気付いた床次さんが振り返り、少し意外そうな顔をして――不思議な笑い方をした。


「すまないね――」


 そう床次さんが俺に声をかけた直後、爆音が鳴り響いた。

 頭を殴りつけられたような強烈な音の衝撃を受けてよろめき、全力で走っていた俺はバランスを崩してその場に倒れこむ。

 痛い、痛い、めちゃくちゃ痛い。頭が割れそう。

 床次さんがスマホのスピーカーをこちらに向けながら歩いてくる。何かを言っているが、よく聞き取れない。

 だが、自分の勝ちを確信した顔だった。

 そんな床次さんを、俺は仰ぎ見て――


「――サーバーで戻ってきた未来人でしょう?」


 そう、用意していた台詞を投げかけた。

 一瞬動きを止めた床次さんが目を見開き、スマホを取り落とすと同時に膝から崩れ落ちる。

 チェシャ猫が発動したのだ。

 俺は立ち上がり、いまだに爆音を鳴らし続けるイヤーマフを頭から外す。耳鳴りがひどい。鼓膜が破れてないか心配だ。


「海空姉さん、普段から悪戯好きとはいえこれは怒るべきか、許すべきか……。頼りになるよ、ほんと」


 おかげで、床次さんのスマホの録画音声を聞かずに済んだけどさ。


 俺は床次さんのスマホを拾い上げ、録画音声を削除し、ついでに通話履歴の非通知も削除して、その場を立ち去る。

 救急車を呼んで関係性を疑われたくない。

 大通りの近くにあるとはいえ、遊具もない公園だ。人の姿もなく、俺は倒れた床次さんから距離を取った後、歩く速度を緩めてコンビニへ向かう。


 ようやく大人しくなったイヤーマフを睨む。


「通話履歴か……」


 床次さんが自分以外の未来人に襲撃される可能性に気付いた理由。それはおそらく通話履歴だ。

 以前の世界線の俺もおそらくは非通知で電話をかけた。結果として、床次さんと相打ちになり、互いのスマホに履歴が残った。

 そして、以前の世界線の床次さんは出先で俺の電話を受けてチェシャ猫を受けて倒れたのだろう。


 未来人やシュレーディンガーのチェシャ猫を知った未来の床次さんは、自身の昏倒した記録と非通知の着信履歴から何らかの未来人の襲撃を予想した。

 しかし、床次さんが知る未来人はすべてチェシャ猫を受けたか『ラビット』を喪失している。そのため、床次さんは自分を襲撃する者が誰か分からなかったのだ。

 だから、俺を見て意外そうな顔をした。


 だが、その直後の床次さんの表情は何というか、対等な相手を見つけたような妙な笑い顔だった。

 俺がどうやって過去に戻ってきたのか分からないが故に、『ラビット』奪取の障害として認めたのかもしれない。

 単なる俺の自惚れかな。


「今となっては分からないけど」


 匿名掲示板に作戦終了の符丁を書き込んで、俺はスマホをポケットに押し込んだ。

 数時間前まで冬休みだったのに、いまはこうして春の空の下、桜並木を歩いている。

 気温差で感覚がおかしくなりそうだ。

 年中寒い海空姉さんの部屋に急いで避難しようと、俺は紅茶プリンを買いに走った。

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