3.


 僕は都会の学校に行くようになった。いいところだった――だが、学友たちのほとんどは、僕にとって気づかずに踏んづけてしまう影だった。

 学校にも生活にも、何ひとつ問題がなかったにもかかわらず、僕は無気力で、いつもぼんやりとしていた。そして、僕は一度死んでしまったのに、どうしてまだ生きているのだろうと考えた。


  “死”を経験してから、僕は自分の存在が希薄になったような気がした。僕は鏡の中の像でしかなく、誰かが本物の世界で生きているような。

 僕は都会の学校に通うため古いアパートメントの小さな部屋を借りて暮らしはじめた。エレベーターはあったが、僕はたいてい階段を使う。アパートメントの階段は僕の大好きな螺旋階段で、手すりは劣化しており体重をかけるとぐらぐらした。廊下の壁も部屋の中の壁もひび割れや染みだらけだが、僕はこの建物がとても気に入っていた。

 部屋は広くはないもののこじんまりしていて安心できたし、クローゼットや明かりなどの調度品も(傷は多々あったにしろ)なかなか味があり、バスルームのタイルには美しい紋様が描かれていた。

 窓には古びてはいるが洒落た格子がついており、僕はいつも外を眺めながら剥がれかけた塗料を爪で削り取っていた――これは自分でペンキを塗りなおしてもいいかもしれない、と思ったが、実行はしなかった。格子の上に小さな植木鉢を置いて、花が咲くのを見て喜んだ。


 アパートメントの一階は寂れた小さなバーになっていた。夜になると、半分電気がつかなくなったネオンサインが闇をてらした。

 僕は時おりバーに顔を出し、亭主と顔見知りになった。

 ある日のこと、亭主は外を歩く人々を指して言った。


「あの人たちにとって、問題は、自分が世界にふさわしいかどうかということです。みんな世界に属しているふりをする。そしてだんだん、自分自身が淘汰されてしまって……何も気づかないうちに、消える」


 僕は尋ねた。


「そんなに意味のあることなんでしょうか――世界に属しているというのは?自分が消えてしまっても、こんなところにいる意味が?」


 亭主は僕の質問には答えなかった。

 バーから出ていこうとすると、亭主は僕を呼び止めた。


「あなたはいい人だ。本当に。私の秘密を教えてあげましょう」


 彼は僕を店の地下に連れていった。明かりがつくと、そこには膨大な数の絵があった。


 大きなものも、小さなものも、デッサンも、風景画も、肖像画も、抽象画も。僕はぐるっとその部屋を見わたしたのを覚えている。何かの囁き声が聞こえる気がした。


「美しいでしょう?」亭主は顎ひげをいじりながら言った。

「とても」僕は答えた。お世辞でなく、本当にそう思ったのだ。

「私は自分が消えてしまわないように、ときどきここに来ます――世界の中で、私は少しずつ、確実に消えている、感じるんですよ。でも、これらの絵には消えてゆく私の痕跡が残っているんです」


 僕は亭主の言うことを理解した。

 亭主は僕に手のひらほどの大きさの細密画ミニアチュールをくれた。どうして、と尋ねても、彼はただ微笑むばかりだった。

 僕は礼を言ってそれを受け取ったのだが――困ったことに、その細密画ミニアチュールに何が描かれているのか、さっぱり分からなかった。



*********



 僕はたいてい、図書館に入り浸っていた。僕は図書館の持つ空気が好きだった。整然と並ぶ本棚、規則正しくおさめられた本たち、高い天井のせいで小さな音も大きく聞こえる。ずっと昔は、ひそやかな大人の書籍が置いてあるエリアに入りこみ、椅子か、そうでなければ脚立の上に座って、ただ沈黙に身をゆだねた。その頃はここではなにか普通でないことが起こる、となかば確信していた。

 時が経つにつれ、その感覚は薄れてしまったが、大きくなってからも図書館にいるのは好きだった。ありとあらゆる本があるだけでなく、なんにもしないことに最も適した場所だったから。僕はよく、ノートに無意味な落書きをしたり、装丁が気に入っただけで読みもしない本をぱらぱらとめくったりして無為に過ごした。僕は古く黄ばんだ本の、かすかに甘い香りが好きだった。

 時おり、誰かの視線を感じたが、そこには誰もいなかった。そんな気がした時、僕は自分の足元を盗み見る。だが相変わらずそこは空っぽで、僕の影はいない。



 その日、僕が選んだ場所には案の定誰もいなかった。僕はときおり本の背表紙に目をやったが、心を惹かれるような題名はなかった。しばらく歩くと、僕はある棚の前に人がいるのに気づいた。それを目の端でとらえながら思った。僕がそばを通り過ぎても、あの人は何にも気づかないだろう。ここではほかの人間なんか存在しないから。

 僕はその人物の後ろを静かに通りすぎた。予想に反して、その人は振り向いて僕の方を見ているようだった。だが、また手元の本に目を戻した。

 しばらくして、僕はもう一度その棚の前を通り過ぎたが、その人物はいなくなっていた。


 

 数日後、僕は同じ汽車に彼女が乗っているのに気づいた。彼女は僕に気づいていなかった。彼女はため息をついた。もうすぐ汽車が駅に着いてしまうためだろうか――彼女は汽車を降りたくなさそうに見えた。降りたあとに起こるはずの、なんの面白みもない出来事にうんざりしているのかもしれない。

 彼女はスピードを落とす汽車の窓の上を転がる水滴を目で追っていた。きっとこの汽車は朝早くににわか雨に降られたのだ。今、雨はやんでいた。

 汽車が止まると、彼女は他の乗客の後ろからのろのろと下車した。反対側の路線には元の方へ向かう汽車が来ていたので、彼女は一瞬それに飛び乗ってしまいたい衝動に駆られているように見えた。もちろん彼女はそうしなかった。



 僕はプラットフォームで彼女に出会った。とつぜん、彼女は真っ直ぐに僕の目をとらえた。


「こんにちは」彼女は言った。

「こんにちは」僕は答えた。

「どこへ行くの?」彼女が尋ねた。

「分からない。どこにも行く場所はない……でもここにはいたくないんだ。いいかげん、頭がおかしくなってもよさそうだけど、期待するだけ無駄みたいだ」


 僕は答えた……というより、うっかりそう口走った。



 僕たちはすぐに親しくなった。

 昼下がりの街で、僕たちは広場の石畳に座りこんでいた。近くに小さな人だかりができており、誰かがアコーディオンを弾いている音がした。

 彼女は僕に寄りかかってその音を聴いていた。

 僕はぼんやりと虚空を見ていた。

 しばらくして、彼女は口を開いた。


「何をしているの?」

「思い出そうとしているんだ……いつも。忘れてしまったものを」少し考えて、僕は答えた。「でも、僕以外の誰に、僕が思い出せないものが分かる?」

「誰にも分からないわ」

「今となっては――いったい、僕に何が分かるだろう?」


 彼女は黙って道行く人々を眺めた。僕も同じ方を見て、この人たちは本当に存在しているのだろうか、と考える。


「君は何をしているの?」

「消えていくはずのもののことを考えていたわ」

「ふうん」僕は彼女の方に向き直った。

「例えば、何?」


 彼女はしばらく考えてから、言った。


「もうずっと、うんざりしていたの。ずっと昔にあった悲しいことや苦しいことに――それから楽しいことも。うんざりするのにも疲れたわ」

「でも、もし手放してしまったら、何にも分からなくなるよ」

「何でも、そのうちなくなるわ……なくなるはずなのよ」

「君は、消えてしまいたいと思っているの?」僕は言った。

「どうかしら……たまに、自分自身でいるのがつらくなるわ」

「それは分かるかもしれないな」

「本当?」

「ああ。僕は、ここにいたくない……そう思うことがあるよ」

「さっきもそう言ったわね」


 彼女は僕をじっと見つめた。


「あなたは誰なの?」

「それが分かればよかったんだけど」

「あなた以外の誰だっていうの?」


 僕は答えに窮してしまった。


「さあ……君に分かったら教えて欲しいくらいだよ」



*********



 僕は町の広場の階段の半ばに座り、別段なんの考えもなく往来を眺めていた。ひとりの人物と目が合い、彼は数メートル離れた、数段下に座った。

 しばらくして僕は立ち上がり、物思いに耽りながら階段を降りた――意識が散漫だったためか、僕は先ほどの人物にぶつかってしまった。彼は僕に押されるまま、音もなく倒れた。僕は助け起こそうとしたが、彼は全く動かなかった。

 僕はその人物の顔を覗きこんだ。彼はだった。そして、彼は死んでいた。

 どうしてこんなことが起きたのだろう?

 僕は思い出す。焼け落ちた家の中で、僕の死体は立ち上がり、去っていった。あの僕・・・が、この広場にいる。あの時と同じく、死んだ状態で。あの時とは違い、ぴくりとも動かない。

 僕はの身を起こし、元通りに座り直させると、そこから逃げた。

 あの時、僕の死体は骨だけになっていた。でも今は肉体を持っている――相変わらず死んだまま。



 その日の午後、僕はずっとぼんやりしており、いつのまにか椅子の上でうたた寝をしてしまった。目覚めると太陽はほとんど沈んでいた。立ち上がろうとすると体中がこわばって上手く動かせなかったので、まるで死から蘇ったような感覚に陥った。

 僕はふと、部屋の中に自分以外の誰かがいることに気がついた。死者ではなかった。僕は部屋の明かりをつけた。

 それは、昼間に広場で死んでいた僕自身だった。彼には影がなかった。彼は死者ではないが――死んでいる。彼は間違いなく死んでいる。今も動きもどこかこわばっている。死んでいるという点以外、彼は僕とそっくり同じに見えた。ひどい病気だったようにも見えないし、餓死するほど痩せてもいない。どうして死んでいるのか分からないくらい健康そうに見えた。


「ここで何をしているんだい?」とりあえず、僕は尋ねた。


 彼は僕の問いに答えなかった


「いい絵だね」彼は壁にかかった細密画ミニアチュールを見て言った。

「何が描いてあるんだい――僕には分からないんだ」

「……はここにいたくない」彼は言った……まるで僕のことばが聞こえていないかのようだ。

「ここはの場所じゃない。どうしてそう感じるのか、やっと分かった気がする」


 僕は肩をすくめた。彼は何を言いたいのだろう。


「君はどこへ行きたいんだろう?」


 僕は言った。向こうのは、途方に暮れているように見えたから。

 今度は彼が肩をすくめた。


「君が分からないなら僕も分からないよ……ただ、はやっと思い出したよ」

「何を?」

は君だったっていうことをさ」


 彼は思い出したくなかったのだろうか?

 もう一方の僕はしばらく黙っていたが、噛みしめるように言った。


は君で、君は僕なんだ――でも、生きて・・・いたら・・・、君は存在しなかったはずだ……」




*********



 彼女は僕の部屋にいた。


 彼女はシャツのボタンを外し、胸をはだけてみせた。

 彼女の胸には穴が開いていた。その穴から、機械仕掛けの心臓が見えた。それはかすかに、カチ、カチ、カチ、と時計のような音をたてていた。

 僕は言葉を失って彼女を見つめるばかりだ。

 僕は彼女の心臓に手を伸ばし、むき出しの歯車にそっと触れる。僕の掌の下で、冷たく硬い金属が整然と動いている。


「痛そうだ……」思わず僕は呟く。

「でも、そういうものだから」彼女は言った。

本当は・・・もっと痛いはずよ」


 こんなものと引き換えにしてしまうほどの苦しみとはなんだろう――

 僕は彼女をじっと見る。見れば見るほど、彼女がどんな表情をしているのか分からなくなった。彼女の目の色は何色だろう?

 僕は彼女抱きしめた。彼女の体の中から、カチ、カチ、という音がした。



 しばらくして、彼女は呻きながら僕から離れた。


「重すぎるわ……」


 見ると、彼女の心臓は血を流していた。

 僕は彼女に触れようかどうしようか決めかねていた。


「このままでは、錆びてしまうよ……」僕は言った。

「錆びたら、動かなくなるわね……」


 それならそれでいいかもしれない、と彼女は考えているのではないか。

 彼女は機械仕掛けの心臓の歯車に手をかけ、力任せに引き抜いた……バキッという音をたてて歯車は外れた。痛いのではないかと思ったが、彼女何も感じていないようだった。

 歯車から赤い血がしたたり落ちる。

 彼女はどんどん部品を外していった。僕は黙ってそれを眺めていた。バキン、バキン、と固く組み合わさった金属がばらばらになる音だけが響いた。

 彼女は部品を一つ残らず外してしまった。


「重かった」


 身体からすべての部品を取り除いてしまうと、彼女はもう一度大きくため息をついた。地面には、乾いた血のこびりついた無数の部品が散らばっている。

 僕はその残骸を眺めていた。彼女は自分の空洞を眺めていた。


「たいしたことないわ……もともとすっからかんだったもの」


 彼女は顔を上げ、僕の部屋の壁にぽつんと飾られた細密画ミニアチュールに気づいた。彼女は近づいてそれを眺めた。


「きれい……」

「僕にはここになにが描かれているのか分からないんだ」


 僕はふと思いついて、そっと絵を額から取り出した。そして生身の絵を彼女の胸に開いた穴に入れた。

 細密画ミニアチュールはぴったりとそこに収まった。


「これをどこで手に入れたの?」

「もらったんだ。その人はたくさんの絵を集めていた――自分を失わないように。いつか失ってしまうとしても、このためなら、いま存在する価値があると、彼は言っていた」


 彼女はその細密画ミニアチュールをじっと眺めた。

 これがあれば、彼女が自分を見失ずに済むのではないだろうか?

 彼女はシャツのボタンを留めた。



*********



 もう一人のは、再び僕を訪ねてきた。

 彼は図書館で棚を物色している僕のもとにやってきた。肌は以前より蒼白く、僕は心配になった――彼はもうずっと前に死んでいるにもかかわらず。彼は非常に落ち着いていた。

 彼は言った。


「僕らは……同時には存在しないはずなんだ」


 そうだろうか、と僕は思う。


「決して同時に存在したりしないんだ」彼は繰り返す。

「でも、現に存在しているじゃないか」

「そうなんだ」彼は切なげに頷いた。

「それが問題なんだ……」


 僕と彼は本棚の間で向かい合っていた。


「僕たちはひとりだった――それが二人になった。片方は死んでいて……それでも動き続けている。ね、これがどんなにおかしなことが分かるだろう?」


 今度は僕が頷いた。


「僕たちはもう二度と会わないだろう」

「どうして?」

「そうでなくちゃ駄目なんだ」彼はゆっくりと言った。


 彼はじっと僕を見つめた。僕は何とも言いようのない感覚に襲われる――誰かが僕の墓の上を歩いた。

 彼は言った。


「僕らはもともと同じ人間だった。今は違う――いつまでもここにがいると、君はどこにも行けなくなってしまうんだ」


 もう一方の僕はその先を言おうか迷っているようだったが、けっきょく何も言わずに僕に背を向けた。


「どこへ行くんだい?」


 彼はこちらを振り返った。その視線に僕は身震いした。彼はゆっくりと首を振った。彼も知らないという意味なのか、教える気はないという意味なのか、他のことが言いたかったのか、分からないが、彼は何も言わずに歩き去った。

 彼の後姿を見送ってから――自分の背中を見る、というのも妙な経験だ――僕は落書きに戻った。



 僕は痛みを感じた。十年前からいつも感じているが、慣れてしまってほとんど気づかなくなった疼き。それをあらためて思い出した……僕は小さく呻いた。頭ははっきりしているが、周りが歪んでいる……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る