優しいナイフ

 私は暗闇の中にいた。

 周りには誰も居なくて、独り。

 本もベッドも無くなって。

 でも相変わらず髪は白いままで。

 ぽたり、ぽたり。

 口から滴る鮮血が、黒い床を染め上げていく。

 そして朱の水溜まりが、私の足に絡みつくのだ。縋るように、乞うように。

 じわじわと私を蝕んでいくそれは人の熱を持っていた。気持ち悪い。私の熱だ。


 怖い、

 怖いよ。


 こんなの嫌だよ。


 ——ななし。


 不意に名前を呼んでいた。




 ——大丈夫?


 青年の声がした。

 ゆっくり目を開けると、心配そうに……といってもその実無表情だったがななしが結実の頭をそっと撫でていた。


「悪い夢でも見たの?」

「……ううん」


 でも涙が流れているのはなぜだろう。

 毎晩同じ夢なのに。

 見飽きるほど見てきたのに。


「やっぱり、怖かった……かも」

「そっか」


 声色は優しい。結実はおずおずとななしの目を覗き込んだ。図々しくも人のベッドを略奪した者とは思えない、慈愛に満ちた瞳であった。この人になら身を委ねてもいい。そう思えるような無表情に、心が絆される感覚がした。

 彼がそっと結実の手を握る。相変わらずの冷え性なのになんだか安心して、目を閉じるのが億劫でなくなった。


「…………私、病気なの。長くは生きられないんだ」

「病気?」

「うん。治らない病気で、延命もできないんだって言われた」

「そうなんだ」

「怖いのかな」


 ぽつりと零したのは、一度も口にしたことがない言葉。受け入れがたい、受け入れたくないと拒んできた感情だった。


「————生きたい?」


 一滴の雫が落ちるように,ポツリと、彼は尋ねた。


「どうなんだろ。生きたいのかな。よく……分かんないや、分かんないよ」


 ふと鼻を刺激するものがあった。澄んだ鉄の匂いがした。

 彼の手から現れたそれに、目を疑った。


「ナイフ……!?」


 どこから出したのかすら二の次だ。逃げることも忘れ、今はただ彼が手に抱く銀色の凶器に釘付けになった。


「そ。長生きのお守りだよ」


 そう言ってななしは、もう一方の掌にナイフの先を付ける。

 見ていられず顔を伏せる結実を他所に、何の躊躇いも無く刃を入れるななし。


「ほら、見て」


 結実はさらに目を見張った。貫かれたはずの彼の手からは血の一滴も流れなかったのだ。


「特別なナイフだから」


 そう言って結実の手の中に収め、ぎゅっと指先を畳んだ。


「君が持ってて。肌身離さずね」

「……うん」


 緊張はした、顔は強張ってたと思う。でも、それ以上は何もなかった。

 むしろ少しだけ、安心さえした。

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