夜あけの章
第25話 悪夢
窓の内に見える青年を眺めながら、赤段なぎは憐れみを込めて声を漏らした。
人の死には二種類ある。一つは生物学的な死。呼吸・心拍の停止、瞳孔の散大に挙げられる条件を満たして初めて認められる、人間の絶対的な末路。人は生まれれば必ず死ぬのだから、それ自体は然程大きな問題ではない。
問題は、二つ目の死である。それが、セカイ的な死。社会的な死とも言えよう。
こういう考えがある。“生者に記憶、記録されているならば、死んだヤツは心の中で生きている”という思想だ。俺が人間やってたときには、死を受け入れられないヤツらの現実逃避かと思っていたが、どうやら違うらしい。
忘れられる……ましてや初めから居なかったことにされるのはどうにも報われない。生きていた証を食い荒らされる……これほど悲しいことはない。だからゆいは殺すことを選んだ。藤川るいの友人を。その痕跡が消える前に。
だから、影痕は恐ろしい。
目を醒ませば消えていく黒い霧。精々何かを見た気がするという、判然としない幻が横たわる程度にすぎない。その程度だ。あれは人を、こうも軽々しく侮辱する。強固に繋がる痕跡を、こうも簡単に引き千切る。
口から雲が出てしまいそうなほど、大きなため息をつく。
——ああ、また吐いてるよ。
「可哀そうにな」
ポーカーは、自分にしか聞こえないように諦念の声を漏らした。自然と口角の力が抜けていく。
——もう長くはないんだからさ。潜伏期間は4年……か。もうあいつの身体はもたない。
眉を顰めることしか敵わない。
——まるで……悪夢だ。
「お゛っ、ええええ……」
窓も扉も閉じた部屋に、一人。
カーテンは閉めていないが、木の枝と葉で隠れるし心配はなかった。電気も点けず薄暗い部屋は、今の彼を切実に表していた。
また墨色を吐いた。部屋を汚さないよう洗面器にしているが、すぐに膨れ上がってしまう。もう二杯目だ。時折、ボコっと泡を立てるのが気味悪い。口の中に痰のような粘り気を感じて再び吐き気が襲った。
「う゛っ」
……あの日からだ。
つとむが死んだ日。
ポーカーが殺した日。
あの日からもう
死因は森で熊にでも襲われた……そういうことになったらしい。密やかに行われた葬式には行けなかった。墓参りもできていない。
最低だ。僕は何もできなかった。無力だ。助けることも、駆けよることすらできなかった。ただその場で怯えて、ゆいに掴みかかって……。
もうぐっすり眠れやしない。
夢を見るのだ。黒いものが僕の身体を蝕む。蛆虫のごとく蠢くそれは僕の身体を文字通り食い荒らそうとしている。周りには誰もいない。ただ何もない空間が広がって、どこにも行けない。声も出せないのは、口からもそれらが出てくるからだ。
——るい? るい?
時折声がするのに、僕は金縛りにあっていて、手を伸ばすことも敵わない。僕を引き上げてくれる人はおらず、指先の爪にまでしゃぶりつく強欲な影。悍ましい夢に、目覚めることすら叶わない。
……逃げ道はない。だから必死に目を反らす。
ふと目についたのは、こっそりくすねた書物……“白の民”。どうしてか吸い寄せられるように、まるで光に交ろうとする蛾のように本へと手を伸ばした。
捲れども捲れども白い伏字ばかり。ただ今は求めていた。黒から最も隔絶された“白”を。
「やばっ……かはっ」
ページに
「まずい……!」
ティッシュペーパーを適当に引っ張り出し乱雑に手を往復させた。憤りが滲み、白いティッシュも黒が滲み——。
「……あれ?」
——見える。
沈んだ文字が浮き出していた。
漆黒の反吐を後にし、彼は腰を上げた。立ち眩みを堪え、誰もいない廊下を抜け玄関に佇む。
——強く乞うのだ。新雪積もる“夜”の野を、艶めく無数の星々を、かつての少女のアトリエへ。
そうして彼は、世界を開けた。
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