惨痕の章

第19話 大掃除

 今宵は満月だ。

 近年まれにみるスーパームーンも重なり、天文学的には貴重な一夜なのだという。

 といっても、夜に外出できないるい達にとってはある種宝の持ち腐れだった。窓から眺めることしかできない。故に、その珍しさ感動も満足に噛み締められない。


 るい自身も多少楽しみにはしていた。だが拝む前に眠ってしまいそうだという確信があった。なぜなら……。


「第3回藤川グランドマザーん家の大掃除大会! はっじめま~す!」


 今日は毎年恒例大掃除の日なのだから。


「そんなに張りきったら体力もちませんよ」


 拳を上げるかなれを制したのはつとむ。


「大掃除って何するの?」


 期待半分、不安半分で尋ねたのはポーカー。

 そしてるいはと言うと、


「むにゃ……むにゃ」


 器用にも、立ちながら意識の境界を右往左往していた。


「もーるい君起きて~! るい君には書斎の整理をやってもらうんだから~」


 かなれはるいの身体を揺さぶる。


 実を言うと、藤川るいはここ数日満足に眠れていなかった。

 今にも泣きだしそうなポーカーの顔、永年我慢し続けてきたであろう溢れんばかりの嗚咽。そしてどうすれば彼女を人間にできるか。


 夜というのは不思議なもので、鎮めるべき時に限って人の精神を活発にしてしまう。

 一度は眠れたのにも関わらず午前二時ごろぱっちり目が覚めてしまう不可解な現象。そしてその後、なんとなく始めた考え事に脳が興奮し枕に顔を埋め嘆く深夜。

 そうしているうちに、紫立ちたる雲が細くたなびいてしまう訳だ。きっと太古——約二千前清少納言も同じような経緯をたどっていたと思うと感慨深い。


 そんなこんなで藤川るいは、今世紀最大級の睡眠不足に陥っていた。


 かなれが揺さぶっても尚意識を朦朧とさせるるいを見かねたつとむは、神妙な面持ちでバッグからタッパを取り出した。

 蓋を開け、摘まみ上げたのは半月状に切られた黄色い果実。思わず口を窄めてしまう酸味が売りのあれであった。


「喰らうのです! レモン汁!」

「ぐああっ!! 目が、目がああ!」


 透明なエキスを喰らったるいが、患部を押さえ悶え始めた。甘酸っぱい香りが周囲を包む。


「だ、大丈夫?!」


 驚き戸惑うポーカーを他所に、平然としているかなれとつとむを見る限り、日常的なことらしい。


「うう……」


 るいの瞳が潤む。


「目、覚めました?」


 そう言いながらつとむは、残ったレモンを齧ってしまった。特に表情変えずに。この男、酸っぱさに耐性があるようだ。


「相変わらずドギツイなあ」


 小言を垂れながらも、るいも慣れっこらしい。むしろ楽しんでいるようにも見えて、ポーカーにとっては不思議な光景だった。

 一段落したところで、かなれがパンっと手を叩き、


「じゃあ早速だけど、るい君は書斎を、つとむ君はキッチン周りのお掃除をお願いね~。私とゆいちゃんは寝室担当で……」

「寝室で、何するつもりですか」


 一足早い夏の汗のような視線を向けるつとむ。眼鏡の奥にある瞳孔が、じとりとかなれに張りついた。


「そりゃもちろんイイコトに決まってるじゃ~ん」

「いいこと?」


 純真無垢なポーカーが聞き返す。


「そうだよゆいちゃん、私が気持ちよくして……ちょ、レモン汁反対!」


 つとむが無言でレモンを構える。果実は今にも爆発しそうだ。


「ゆいさんは僕とで良いですよね、書斎は……入れないんでしょ?」

「はあ~……折角ゆいちゃんと二人っきりになれる機会だったのにぃ」


 渾身の策を瓦解され、かなれはわざとらしくため息をつく。


「でもこれぞ、次期部長の貫禄ってやつね。これで写真部も安泰だよ~」

「ま、まあそれほどでも……」


 つとむは赤くなった頬を細長い人差し指で搔いていた。


「がんばれつとむー」

「お前も頑張んだよ! ……じゃなかった、こほん。あなたも頑張るんですよ、暫定次期副部長さん」

「はーい」

「あ、ゆいちゃんは書記ね」

「書記?」


 いきなり自分の名を出され目を丸くするポーカー。


「会議のメモ取ったり、二人を補佐したりする仕事だよ」


 欠伸をした口元を手で隠しながら、るいは答える。


「そ。まだまだ色々学んでほしいし」

「この何も無い部から何を学ぶんだか」


 次期部長ことつとむの唇の端が非対称に上がった。合わせるように意味も無く眼鏡も押し上げる。


 この穏やかなまとまりが、ポーカーは好きだった。和やかな語気と柔らかい笑み。彼女には少し眩しいぐらいの、春の日差し。まだ馴染むのには時間がかかりそうだったが、このぬるま湯は居心地が良い。出たくない、離れたくない。そう思えるのだ。


「ふふっ」


 だからだろうか、意味も無く笑ってしまったのは。


「あははっ」


 釣られて三人も笑い出した。

 自分がきっかけで生まれた笑いに、ポーカーは嬉しくなってさらに笑う。


「そうだ! ちょうど皆いるんだし、集合写真でも撮ろうよ!」


 手をパンと合わせ、かなれが提案する。


「まあ、悪くないんじゃないんですか」

「カメラも持ってきてるし!」

「準備いいっすねー」


 かなれがカメラを高く上げ、そのレンズを皆で見つめる。

 るいはピース、つとむは直立不動、かなれはポーカーに手を回して。思い思いのポーズを決めて。

 ポーカーはるいを真似て二本指を立てた。


「はい、チーズ!」


 こうして、大掃除が始まった。

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