第二話 遠きにありて思うもの
この世界にも、地球と同じように昼と夜は存在しているみたいだ。
上空は薄暗くなったものの、ファンタジーな森らしい現象が起きた。青緑色の葉っぱが発光しだしたため、真っ暗になることはなく、辺りは幻想的な景色が広がっている。蛍光灯ほどの明るさはないものの、青色LEDを弱くしたような光り方で、足元はしっかりと見えている。
まだ明るい時間帯に蔦のような植物でスリッパと足を縛って固定したので、今のところは怪我なく歩けているけれど、さすがに謎の転移からの歩きっぱなしで疲れた私は、寝床も探しながら歩いている。
食糧になりそうな木の実か何かがないか探してみたものの、残念ながら何も見つからなかったし、ここで毒の木の実でも食べてぽっくり死んだら悲しすぎるので、見つからなくて良かったと思うことにする。ズボンのポケットに押し込んだコッペパンを大切に温存するしかない。
いよいよ疲労がピークに達して来たところで、視界の右側の方に暗い空間が見えたことに気付いた。
今の私の視界の上半分は、発光する葉っぱによって青緑に光っているため、一部だけぽっかりと暗いということは、その部分には木が生えていないということだ。
…もしかしたら、川があるかもしれない!
希望が見えた瞬間に、人は動けるものなのだ。へとへとになっていた私の足も、どうにか動いてくれた。そして、暗い空間に近付くほどに、水の音が聞こえてくる。幻聴でないことを祈りながら必死に歩いた。そして…
「水だあ…」
思わず声に出た言葉と共に、涙が込み上げてくる。暗さでよく見えないけれど、間違いなくそこには川が流れていた。耳に優しいせせらぎの音も聞こえている。幻聴ではない。
本当だったら今頃は自宅にいて、ゲームの新エリアで火星探検を楽しんでいるはずだったのに、何も分からずに着のみ着のままサバイバルをさせられたのだ。私はこの数時間、本当に頑張ったと思う。そして川を認識した瞬間に、その水が飲めるかどうか確かめようなどという気持ちも起こらず、勢いよく川のほとりに膝をつき、両手で必死に水を掬って口に運んだ。
「…っ、おひじひいぃぃ…」
喉はカラカラで、飲んだ分も涙で排出されてしまいそう。
おいしいと言ったはずの言葉は、嗚咽混じりになり、喉からうまく出てこなかったけど、誰も聞いてないから気にしない。しばらく私は一心不乱で水を飲み続けた。その川の水は、これまでの人生で飲んだどんな飲み物よりもおいしかった。
その夜は、川の近くの木の根元部分に大人ひとりすっぽりおさまるサイズの
翌朝からは、発見した川に沿って森を下りた。下り坂と言っても本当に緩やかで、地球だったらヨーロッパあたりにありそうな深い森のようだ。日本の山のような高低差がない代わりに、延々とどこまでも木が生い茂っている。
貴重な栄養源であるコッペパンを一口ずつ食べ、あとは川の水だけで凌いだ。幸いなことに死が間近に迫っているという緊張感からか、あまりお腹は減らなかった。
普段はデスクワーク中心で運動なんてしていないので、空腹よりも肉体的な疲労の方がしんどい。ああ、うちにあったフットマッサージ器を持って来れたら良かった…なんてどうにもならないことばかり考えて気を逸らしている。
歩いても歩いても森の終わりが見えず不安な気持ちを、鼻歌を歌って乗り越えた。思いっきり歌うと体力を消費してしまうので、最初はか細い音量ではあったけれど、同じ景色の中を当てもなく歩き続ける孤独を少しは紛らすことができそうだから。
最初は音なんて立てたら危険な生き物と遭遇してしまうかもと思ってビクビクしていたけれど、丸一日以上も人どころか動物にも虫にも遭遇しなかったので、この森には植物しか生息していないのだと結論づけた。
そこからはもうやけっぱちになって歌ってテンションを上げながら歩いた。最近ではひとりカラオケもすっかりご無沙汰になっていたから、久しぶりに大声で歌うのは意外にも頭をスッキリさせてくれた。
二日目に入り、川に沿って歩くことが間違っているのかもとも思い始めたけれど、バックパッカーで世界を飛び回っている姉の言葉を覚えていたので、そのまま信じて歩き続ける。
「ちよちゃん、文明は大河の流域で発生するというのは本当なのよ!世界中どこに行っても、川のない場所に街はないんだから!」
あるときはオーストラリアの広大な大地をぐるっと一周し、またあるときはアフリカ大陸で複数の国境を陸路で越えてきた旅好きな姉の言葉には信憑性があった。
それに、少なくとも川に沿って歩いている限り、誤って元の方向へ戻ってしまうという心配がないから、行く当てもない今の私にはこの方法しかないとも思う。
「…お姉ちゃんも、お父さんお母さんも心配してるかなあ…」
姉の言葉を思い出したら、急に家族のことが気にかかった。
私はひとり暮らしだったけれど、母と姉とは頻繁に連絡を取っていた。我が家では父には直接はあまり連絡しないものの、母に話したことはいつも自然と伝わっている仕組みだった。賑やかな女三人の陰で口数の少ない父だけど、娘たちのことをちゃんと大事に思ってくれていることは知っている。
時間の進み方が同じなら、もうあれから丸二日経つので、私がいなくなったことにもそろそろ気付いているかもしれない。戻れる保証も何もないので、いっそ私の記憶ごと消えてくれていたら良いと思う。きっとその方がお互いに楽だ。確かめる術もないけれど…
どこか遠くで私の名前を呼ぶ家族の声が聞こえた気がして、泣きたくなってしまう弱気な心を奮い立たせるべく、頬を思いっきり叩いて気合を入れる。
姉が音を決め、両親が漢字を選んでつけてくれた私の名前。
「チサ」と読み間違えられることが多い不便な名前だけど、私は気に入っている。「千の糸のように、たくさんの素敵な出会いを
悩んだって、心配したって、今は家族のことはもう分からない。
でも、両親も姉も、どこにいたとしても私の幸せを願ってくれる人たちだ。だからこそ私は、今この森で諦めずに、この世界でどうにか生きていくしかないんだ。
家族がくれた大切な名前を背負って。
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