記憶パンダ

南新田

プロローグ はじまりは駅から


ああ、今日も朝からめんどくさい。

柵の向こうから遠足の子どもたちが声を合わせて呼んでいる。

タンタああン! タぁぁンタぁぁぁぁン、こっち向いてぇ!

おまけに、オレ様の周りをチョロチョロ走り回っているヒメネズミのハナまでが、頭によじ登ってきて耳元でうるさく言う。


「ほら、タンタン、みんなあなたに会うのを楽しみにしてきたんだから、顔くらい見せてあげなさいよ」

「オレ様の名前はタンタンじゃない。中村玄だ」


オレ様は子どもたちに背を向けたまま不機嫌に笹を背後に投げ捨てた。

ついでに、お尻を突き出して、おならをブッと一発かましてやった。

すると、きゃーー―っ。ものすごい歓声が上がる。


「ほんとにもう下品なんだから。あなたはいつも中村玄と言い張るけど、この際はっきり言っておくわ。あなたはね、その天然のかわいさがズルすぎるって他の動物たちがジェラシー燃やすくらいキュートなオスのジャイアントパンダ、タンタンなのよ。あなたがクシュンってクシャミすれば、パンダ舎だけじゃなくこの動物園全体が上を下への大騒ぎになって、日本中の新聞やテレビがトップで報道するくらいのスーパーアイドル、タンタンなのよ。自覚してる? ほらほら、またそんなとんがった目をしないで」


ああもぉ、ほんと、そういうのがめんどくさくてうっとおしいんだけど。

お前様はオレ様のマネージャーか。


「だいたいね、自分のことオレ様って、あなた何様なの? 日本一のアイドルだからってテングになってるんじゃない?」

「オレ様がオレ様と言うのにはワケがあるんだ。深ぁ〜いワケがね。そんなことより、ハナ、オレ様は行かなきゃなんない」

「どこへ? この動物園のパンダ舎以外のどこへ行くというの?」

「駅」

「え」

「とても大切な約束を果たさなくちゃならないんだ」

「そうね、約束は守らなくちゃ。よし、わかった。行きましょ、駅へ。パンダ割引があるはずだから。って、あるわけないだろ。切符買って自動改札通ってホームで電車待つパンダがどこにいるのよ」

「ここにいる。切符は買わないけどね」


そう言って、オレ様は子どもたちに向き直り、ごろごろ転がり始めた。

また大歓声だ。

タンタンが転がってる!

ゴロゴロ転がってる!

かわいい!


ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロの大合唱に合わせて、オレ様は放飼場の隅にある木の陰までごろごろ転がって行った。

そこは、子どもたちからも監視カメラからも死角になっている場所なんだ。


「ハナ、キミもいっしょに来る?」

「え」


オレ様は、目玉が飛び出るくらいに目をむいて気張る。

鼻の穴をぷかっと膨らませて、喉の奥から腹の底からムムゥゥゥンンッッッ。

声と気を吐いた。

すると、二メートル近いわが巨体は、空気が抜けたようにシュ〜ウと縮んでいく。


「……え」

「さあ行こう」


あまりのことに「え」としか言えなくなってしまったハナにはかまわず、オレ様はさっさと歩き始める。

その姿は、ヒメネズミのハナよりは大きいものの子犬や子猫よりは小さい、手のひらに乗るサイズになってしまった。

手乗りパンダなのであ〜る。


これだけ小さくなってしまえば、警備員が常駐するほど厳重なパンダ舎もすきまだらけだ。

オレ様のエサを作る台所の、強化ビニール製のスイングドアの下をくぐってパンダ舎の外に出た。

出たらまっすぐ動物園の出口へ向かう。

歩道を歩き、信号を渡って、駅へ急ぐ。

人々が自分の足元になど気を払わないものなのだと、オレ様は今までの経験でよく知っていた。

気づかれたところで、手乗りサイズのパンダなんて、誰も信じない。

せいぜい、「ちょっと小太りのダルメシアンの仔犬?」という程度にしか興味を示さないだろう。


駅に着いた。

切符は買わず、自動改札をくぐり、エスカレータに乗り、プラットホームに出た。

でも電車は待たない。

プラットホームをどんどん歩いていった。

オレ様の視線は、さっきからずっとホームの先端に向いている。

鎖の下をくぐって立ち入り禁止のエリアに侵入し、そこで立ち止まった。


そこに一人のおばあさんが立っていた。小柄なおばあさんだ。

古びて色のあせた巾着袋を下げている。

おばあさんはホームのへりに向かって歩きはじめた。

左右の脚のつりあいが悪い。

歩くたびにカクンカクンと傾く。

ついにホームのへりのギリギリに立って、のんびりと線路を見下ろした。

オレ様は鼻の奥がツンとなった。

懐かしくてせつなくて、思わず名前をつぶやいた。


「……らん……」

「知ってるの?」


あ、ハナがずっとついてきてたのを忘れてた。


「…うん…ずいぶん久しぶりだ」

「あのおばあちゃん、あんな所で何をしてるの。電車が入ってきたら危ないよ」

「死のうとしてる」

「…し、死ぃ…!?」

「急がないと」


オレ様は丸いシッポを振りながら、らんおばあさんに向かって走りだした。


「約束したんだ。必ず助けに来るって」

「でも、あなたに何ができるっていうの?」

「シッポを振るんだ」

「え」


らんおばあさんの後ろに立ったオレ様は、シッポの回転をあげた。

見上げる先に、巾着袋が揺れている。

ああ、焼け焦げあとが残る懐かしい巾着袋。

らんおばあさんがまるで歩くように足を宙に踏み出した。

線路へ飛び込もうとしている。

電車が迫った。

オレ様は喉が裂けるほど吠え立てた。


「シッポがちぎれてもいい! らん、おまえを助ける!」


電車が警笛をけたたましく鳴らした。

プワーーーーン!!

ハナは顎が外れるくらい口を超全開にして絶叫!


「危なぁぁぁぁいっ!」


プワーーーーーーーーーン!!

オレ様はムォォォォッと鼻息を放ち、

そこへ電車がワアァァァンンンッッと入線!

電車のものすごい風圧と轟音を鼻先に感じたその瞬間────

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