32 トレヴィル背く
「宰相が、要人派たちに狙われているらしいの。彼を守ってあげて」
要人派の不穏な動きは、すぐにアンヌ太后の耳に入り、心配した彼女は銃士隊長トレヴィルを宮殿に呼びつけていた。
ここのところ、アンヌ太后とルイ十四世、王弟フィリップは、先王ルイ十三世の母マリー・ド・メディシスが建築させたリュクサンブール宮殿にいる。
アンヌの情夫マザランはというと、ルーヴル宮殿の近くのクレーヴ館に住んでいたが、ルーヴル宮殿から離れたテュブフ街の館に近ごろ引っ越していた。ピケというトランプゲームの賭け事で大儲けし、今のクレーヴ館よりも手広な屋敷を手に入れたのである。マザランは聖職者のくせして賭博をするのが大好きだった。
アンヌ太后は、マザランがそばにいてくれないことを不安がり、マザランの新居の隣にあるパレ・ロワイヤルという新しい宮殿に本拠地を移そうと考え、大量の衣裳や家具をこの宮殿に運ばせている最中だった。しかし、このパレ・ロワイヤルで生活するには、アンヌにとってひとつ大きな問題があったのである。
パレ・ロワイヤルは、元の名をパレ・カルディナル(
名前はパレ・ロワイヤルと変えたものの、この宮殿には、リシュリューの胸像や肖像画を始めとして、亡き宰相が個人的に制作や
アンヌ太后は、かつて自分の脅威であったあの枢機卿の残り香をなるべく消してからパレ・ロワイヤルで生活したかった。だから、パレ・ロワイヤルにあるリシュリューの遺品でアンヌ太后が要らないと判断したものは別の場所に移動させるか遺族たちに引き取らせ、また、気に入らない内装を直させていたのである。
というわけで、パレ・ロワイヤルは現状住めない状態だったので、引っ越し作業が終わるまでのわずかな期間をセーヌ川左岸のリュクサンブール宮殿で息子たちと過ごすことにしたのだ。
そして、トレヴィルは、アンヌ太后がリュクサンブール宮殿に移って五日目の夕方に呼び出されていたのである。
(太后様は、敵だったリシュリューの元住まいに身を置いてまでして、あのマザランのそばにいたいのか……。面白くない話だ。長年尽くしてきた俺を裏切り、アンヌ太后はイタリア野郎の愛人になった。国王の妃だから臣下の身である俺は手が出せないのだと自分に言い聞かせて、必死に想いを隠していたのに……)
そんな嫉妬の炎を胸に抱えたままリュクサンブール宮殿に参上したトレヴィルに、アンヌ太后が開口一番投げかけたのが、
「マザランを守ってあげて」
という言葉だったのである。トレヴィルは、ギリリと歯を噛んだ。
「……要人派のボーフォール公らが、マザラン枢機卿の命を狙っていることは知っています。俺がつかんだ情報によると、奴らはまさに今夜、マザランを血祭りにあげようと企んでいるようです」
「こ、今夜ですって⁉ その話、詳しく教えてちょうだい!」
要人派の貴族たちと繋がりを持っていたトレヴィルは、要人派の中では穏健な考えの持ち主の貴族から「この陰謀、止めたほうがよいのではないか?」と相談され、すでにボーフォール公たちの動きを把握していたのである。
「今宵、マザラン枢機卿は、ルネ・ド・ロングーユ殿の屋敷の
「そ、そんな……」
アンヌは、窓の外の夕闇迫るパリの風景を横目に見て、
「それはまずいわ。マザランには、人と会う約束をしたら、約束の時間に遅れないように早めに屋敷を出る習慣がある……。もう屋敷を出発しているかも知れない」
と、声をわななかせながら呟いた。
マザランにはリシュリューから受け継いだ護衛隊がある。大人数の護衛に守られることを嫌っていたマザランだが、暗殺に注意するようにとアンヌ太后に忠告されてからは十人程度の護衛士を随従させるようにはなっていた。
しかし、マザランは護衛隊をそれ以上の数は自分のために使おうとはせず、パリ市内の警備に護衛隊の人員を割いていたのである。ルイ十三世とリシュリュー――国王と宰相が立て続けに死に、パリの治安は非常に不安定である。自分の身を守ることよりも、パリ市内で暴動などが起きないようにすることが大切だとマザランは考えていたのだ。だが、そのせいで、護衛士十人の警護しかないマザランは、常に命の危険にさらされていたのである。
「パリの各要所で警備にあたっている護衛士たちをかき集めて救援に行かせても、きっと間に合わないわ! トレヴィル、お願い! 今すぐ銃士隊を出動させて、あの人を守って!」
「お断りいたします」
「なっ……。ど、どうして? いつものあなたなら、すすんで私の力になってくれるじゃない。それに、あなたには伯爵の爵位を与えてあげたばかりなのに……」
トレヴィルは、「トレヴィル伯爵」と自ら名乗ってはいたが、実際の身分は子爵だった。アンヌ太后は、今まで自分に尽くしてきた恩に報いるつもりで、摂政となってすぐに、トレヴィルに本物の伯爵の爵位を授けていたのである。
しかし、今のトレヴィルにはそんな恩賞などどうでもいい。自分を裏切った女に対する嫉妬と怒りの炎で気が狂いそうだったのだ。
「爵位の授与ごときで、私の心を満たすことができると本気で思っていらっしゃるのですか? 我が娘は、あなた様のために無残な死に方をしたのです。なぜ、あなたは、私の長年に渡る献身を軽く見て、マザランのような男と愛を交わされたのですか。
……あのイタリア人の容貌が、バッキンガム公爵に似ているからですか? 昔の恋人に顔が似ているというただそれだけの理由で、数年前に出会ったばかりの男に身を預け、多くの犠牲を払いながらあなたに尽くしてきた私にくれたのは、伯爵の地位だけなのですか⁉」
「ち……ちょっとやめて……。やめて、トレヴィル……! 何をするの⁉」
感情の高まりをとうとう抑えられなくなったトレヴィルは、アンヌの両肩をガシリとつかみ、涙を流しながら
「やはり、どいつもこいつも、俺のことを馬鹿にしているんだ! 貴族の身分を金で買った商人の息子だと……出自卑しい下郎だと侮っているんだ! 畜生! 畜生!」
トレヴィルもまた、シャルルの父方のカステルモール家と同じく商人からの成り上がりの家系だった。青年期には、その出自を同世代の血筋正しき貴族たちにさんざん蔑まれ、馬鹿にされてきた。ずっとその恨みつらみを押し隠して貴族社会を生きてきたが、愛するアンヌ太后に軽んじられたことをきっかけに、若き日から抱えていた劣等感を一気に吐き出してしまっていたのである。
狂乱一歩手前の銃士隊長は、国王の母に野獣のごとく吠えかかり、怨嗟の言葉を紡ぎ続けた。
恐怖に駆られたアンヌ太后は「だ、誰か来て! 助けて!」と助けを求める。その直後、
「太后様に何をしているのですか! 無礼はやめてください!」
一人の少女が太后の部屋に駆けつけ、トレヴィルの頬をパシンと平手打ちした。
「こ、コンスタンス……!」
「違います! シャルロットです! トレヴィル隊長、いったいどうしたのですか? 落ち着いてください!」
ようやく我に返ったトレヴィルは、その場にドスンと尻餅をつき、「申し訳……ございません」とかすれた声でアンヌに謝った。
「……ですが、私はもう……もう……あなたの我がままには付き合いたくない。ご自分の情夫の命ぐらい、ご自分で守ってください」
「と……トレヴィル……」
トレヴィルは、ゆらり、ゆらりとふらつきながら立ち上がると、青ざめた顔をして太后の部屋を去って行った。
アンヌとシャルロットは、魂が抜けた亡者のごときトレヴィルの背中をぼう然と見送ることしかできなかった。
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