第66話「ジン、今後のことを考える」
大陸暦1097年11月。
ジョーが抜けた後、サイモンとマシューが頑張ってくれ、和食屋キタヤマは以前と同じように繁盛している。
マシューも20歳になり、以前のような自信なさげな感じは無くなり、今では堂々と板場に立って客と談笑できるほどになった。
厳しく指導していることもあり、腕の方も順調に上げており、近いうちにレベルを上げるかもしれない。
他にも新しい日本酒造りも順調で、昨年マシア共和国のヴェンノヴィア醸造からは新たな酒米が届いている。
この酒米は“ノウチニシキ”と“マシアオマチ”を掛け合わせたものらしく、できた酒は香り豊かでしっかりとした味に仕上がっていた。
この酒米にも名前を付けてほしいという話があったが、今回は俺が関与した部分はほとんどなく、ネタも尽きてきたことから断っている。
断ったのはよかったのだが、付けられた名前に困惑している。
この米に付けられた名前は“キタヤマニシキ”。そう、俺の名を冠していたのだ。
慌てて手紙を送ったが、返ってきた答えは“既に定着しているので変更できない”というものだった。
その事実に愕然としたが、妻のマリーからは「ご自分で付けないからですよ。今後も覚悟しておいた方がいいと思います」と笑いながら言われてしまった。
プライベートも問題はない。
ジョーと結婚したケイトだが、昨年の6月に長女リナを出産した。血は繋がらないが、俺にとっては初孫で、これ以上ないくらいに可愛い。孫は子とは違うという話を実感している。
ジョーの寿司屋ジョースケが繁盛していることに加え、ケイトが産休に入るということで、本店と問屋街店から応援を出している。その中に次男のリュウもおり、彼はそのまま正式にジョースケに移ってしまった。
元々、寿司に興味を持っていたこともあり、そのまま居ついてしまったという感じらしい。
リュウも修業を始めてから2年ほど経ち、レベル6と一人前の腕になっているので、俺からは特に何も言っていない。
長男のケンは官僚として頑張っている。
といっても、役人になってまだ3年も経っていないため、いろいろと苦労しているらしい。
ケンの上司に当たるダスティンだが、昨年役人を辞めた。この世界に定年という制度はなく、自ら後進に席を譲ったそうだ。
その際、内務卿だけでなく、国王陛下からも慰留されたらしい。
それでも引退したので理由を聞いている。
「私も最近、無理が利かなくなりましてね。息子のルイスも役職に就きましたし、潮時だと思ったんですよ」
その話を聞き、俺も先のことを考え始めた。
その理由の一つに、ここ最近、身体の調子がよくないことがある。
調子がよくないといっても具体的にどこかが悪いというわけじゃなく、腰が痛いとか、疲れが取れないとかという程度だ。
この身体の不調については、俺の愚痴を聞いたダスティンが慌て、宮廷魔術師の治癒師を呼ぶという大ごとになったが、結局、特に心配することはなかった。
ただ、俺も60歳になり、老いていくということを実感したことで、少し滅入っている。
料理人も定年はないが、肉体的な衰えが影響する仕事だ。味覚や嗅覚も年齢と共に鈍くなるし、指の動きも当然悪くなる。
まだまだ大丈夫だと思うが、自分で駄目だと感じる前に潔く引退したいと考えている。
気がかりなのは和食という文化がきちんと根付くかということだ。
もちろん、ジェイクを始め、サイモンもジョーも、そして若いマシューもいるからすぐにどうこうということはないだろう。しかし、本物を知っている者が今のところ俺だけというのが気になっている。
月島風太のように日本から迷い込む“流れ人”は今後も続くだろうが、本当の和食を知っている者が現れるとは限らない。今では料理人だが、風太も中学生だったから、本物を知っているとは言い難いのだ。
そんなことを考え、あることを思いついた。
それは和食の教本のようなものを作ろうということだ。
一から料理の本を書くのは大変だが、俺には日本から持ち込んだタブレットの中にいろいろな資料がある。
既に25年以上経っているため、普通なら使えなくなってもおかしくないのだが、未だにタブレットは健在だ。
その一番の理由は
マジックバッグは時間を止められるので、劣化は一切起きない。そのことに気づき、早い時期からタブレットをマジックバッグで保管していたため、タブレットの実働時間はまだ2千時間ほどだ。
日本で使っていたと仮定した場合、一日10時間動かしたとしても半年ちょっとという計算になるから、初期故障でもない限り問題は起きない時間しか使っていないことになる。そのため、持ち込んだ当時とほぼ同じ状態で使えている。
タブレットにある資料は食材に関するものが多く、基本から書かれているものは少ないが、それでも修業時代から読んでいた本は残してあるので、それを参考にすれば、基本についても抜けなく書けるだろう。
資料があるのだからそのまま誰かに写させればいいと思えるが、資料は日本語で書かれており、読めるのは俺の他に風太しかいない。
何軒も店を持ち忙しい彼にそれを頼むのは悪い気がするので、自分の手で一つ一つ書いていかないといけない。
幸いなことに以前の流れ人が活版印刷の技術を伝えているので、写本という面倒なことはいらない。ただ、写真の技術は伝わっておらず、誰かに挿絵を描いてもらう必要はあった。
この話をサイモンとマシュー、妻のマリーに話した。
「師匠はまだまだお元気ですから、そんなに心配することはないんじゃないですか」とサイモンが意外そうな顔で言ってきた。
「そうは言ってももう60歳だ。教本を作るにしても1年や2年で終わるとは思えないし、できるだけ早く手を付けたいと思っている」
「そうですね。お店の方はサイモン君とマシュー君がいれば問題ないですし、あなたの仕事を後世に残すというのは素晴らしいことだと思います」
マリーは全面的に賛成のようだ。
「僕もお手伝いしたいです! 勉強にもなりそうですし」とマシューも賛成してくれた。
「そうだな。確かに勉強になりそうだ。なら、ジェイクさんやフランク、ジョーにも声を掛けてもいいかもしれないな。話をしたら絶対に乗ってくるだろうし」
サイモンがそういうと、マシューが大きく頷く。
「お前たちの手を煩わせるつもりはないぞ。第一、日本語が読めないんだから、手伝いようがないだろう」
俺がそういうと、マシューが首を大きく横に振った。
「師匠に読んでいただいて、僕たちが書くという方法もありますよ。それにフウタさんに手伝ってもらえば、師匠がいなくてもできると思いますし」
確かに読むだけなら風太でもできるし、彼も店を始めてから10年以上経ち、この世界の食材にも詳しくなっている。
そんなことを考えている間に、3人で今後の計画を立て始めていた。
「俺からジェイクさん、フランク、ジョーに声を掛けておく。女将さんからフウタに声を掛けてくれませんか」
「分かったわ。フウタ君に聞いてみる。無理しない程度に手伝ってほしいって」
「じゃあ、僕はいい出版社がないか、探してみます」
その話を聞き、慌てて割り込む。
「先走り過ぎだ。そんなに急ぐことでもないんだし、少しずつ俺がやっていけばいいんだから……」
「「「それじゃダメです」」」
3人が同時に声を上げた。
「ただ写すだけじゃ駄目ですよね。この国に合ったものにしないといけないはずですから」
サイモンの問いに頷く。
「そうだ。素材も全く同じじゃないから、できるだけ近いものにしようとは思っている。それに
「そうだとすれば結構大変ですよ。誰が読んでも同じように理解できるようにしないといけないんですから」
この世界にも計量器は存在する。
秤は天びん秤やバネ秤などがあるが、基本的に取引の際に使われるくらいで、料理に使うことはない。
計量カップも存在せず、ワインボトルの大きさですら割といい加減だ。
「そうだな。そこからやるとなると大変だな」とやる気が少し萎えた。
「役所にも動いてもらった方がいいですね」とマシューが言うと、
「なら、ケンがいいですね。あの子にその辺りを考えてもらいましょう」とマリーが言う。
ケンを巻き込むことに危惧を覚えた。
「今の仕事でも結構大変なんだぞ。こんな仕事を持ち込んだら……」
そう言いかけるが、マリーが俺の言葉を遮り、
「大丈夫です。あの子もこの仕事の重要性を理解できるはずです」
その勢いに「そ、そうか」ということしかできなかった。
翌日から3人は精力的に動いた。
すぐにジェイクたちが現れ、和食の教本作りに協力を申し出てくれた。
「こんな面白そうな仕事、師匠一人でやっちゃいけませんよ。俺たちにも噛ませてくれないと」
ジェイクがおどけ気味にそういうと、フランクとジョーも大きく頷く。
「僕もできる限りお手伝いさせていただきます。料理の勉強にもなりますから」
風太もやる気になっている。
「大丈夫なのか? たくさん店を持っていると聞いているが」
風太のウインドムーンはブルートンに3軒、港町ボスコムに1軒、フォーテスキュー侯爵領に1軒ある。他にもタコ焼きのシルバーオクトパスや、最近ではラーメン屋も始めたと聞いている。
「大丈夫です。うちの店長たちはほとんどがこの店で修業していますから」
フランクの居酒屋ポットエイトもそうだが、風太の店には和食屋キタヤマで修業した料理人が結構いる。これはうちの店で職人を目指して修業したものの、和食でやっていく自信がなくなり、辞めたいという者を紹介しているからだ。
理由は客の数だ。
和食の店はまだうちの店とジョーの寿司屋しかない。これは和食を楽しむ客の数が少ないことが大きな要因だ。
料理人を目指すなら自分の店を持ちたいと思うのは当然だが、うちの店では板場に立てるのは2人しかおらず、ジェイクの問屋街店を含めても、なかなか上に上がれない。
その点、ポットエイトやウインドムーンはファミリー層からの支持もあり、店を出せばすぐに人気店になれる。
また、調理法だけでなく、接客などもマニュアル化しており、すぐに戦力になれることも転職の理由だ。
「だが、経営者としてやることも多いんじゃないか?」
「その点も大丈夫ですよ。妻のシルヴィアも経営者としては優秀ですし、それに新しいメニューのアイデアが生まれるかもしれません。第一、この世界に名を残せる仕事に関わらないなんてもったいないですから」
風太が手伝ってくれると、俺の負担が一気に軽くなるのでありがたい。
その後、ケンがダスティンと一緒にやってきた。
「何か凄いことをするみたいだね」とケンがいい、ダスティンが興奮気味に話し始める。
「これは偉業といってもいいことですよ! ケン君から内務卿閣下に話をさせますが、恐らく陛下も興味を持たれるはずです。あと、サッカレー氏にも協力いただくつもりですが、問題ないですか」
「サッカレーさんもですか?」
元宮廷料理長のレナルド・サッカレー氏は宮廷料理長を辞めた後、レストランを開いたが、6年前に店を息子に譲り、隠居生活に入っている。
72歳とこの世界の人間、
「計量の仕方などはトーレス料理でも同様にすべきです。そうなった場合、サッカレーさんが入っていれば、トーレス料理の料理人も素直に受け入れるのではないかと思うんですよ」
ダスティンの説明に納得する。
サッカレー氏は歴代の宮廷料理長の中でも群を抜いており、現在の宮廷料理長を始め、ブルートンにいるトーレス料理の料理人に対しても強い影響力を持つ。
「王国としては和食だけじゃなく、トーレス料理の教本も作るべきだと思っているんだ。今もないわけじゃないけど、調べてみるとレシピの記載がまちまちで分かりにくい」
ケンがそう言って一冊の本を見せる。
パラパラとページをめくっていくと“グラス一1杯分”とか、“鍋に半分ほどの水”という表記があった。しかし、グラスや鍋の大きさの記載はなく、どれくらいの量になるのか分かりにくい。
「誰が作ってもある一定のレベルになるようにした方がいいと思うんだ。そうすれば国全体の料理のレベルが上がるから」
「確かにそうだな。で、サッカレーさんには話をしたのか?」
俺の問いにダスティンが答える。
「私の方からさせてもらいました。サッカレーさんもかなり乗り気で、今日にでもこちらに来られると思いますよ」
そんな話をしていたら、サッカレー氏がやってきた。ダスティンの言う通り、非常に乗り気で、満面の笑みを浮かべ、いきなり俺の両手を取る。
「面白そうですな。私にも手伝わせてください」
「こちらとしてもサッカレーさんにお手伝いただければとても助かります」
と言うものの、だんだん大ごとになっていくことに危惧を抱き始める。
その危惧は現実のものとなった。
その翌日、国王ジェームズ陛下から呼び出しがあったのだ。謁見の場には国王と宰相、内務卿と言った重鎮たちがいた。
「王国としても全面的に支援するつもりだ。ぜひとも成功させてほしい」
国王からそう言われ、「全力で当たらせていただきます」と答えるしかなかった。
こうして教本作りが始まった。
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