飴玉

雨宮夏姫

日常のキス

「ふぅー」


 もう夜十一時を回った頃だろうか、私はリビングでソファーに寝ながら大きなため息と煙を吐いた。煙はゆっくりと天井に上っていきやがて壁に染み込む。Tシャツと下着というだらしない姿で時間を浪費していた。


「ねぇ凪ちゃん。禁煙したらどうかな?私達はもう二十七歳、すぐに三十歳になっちゃうよ。そろそろ健康に気を付けないと……」


 私の目の前で洗濯物を畳んでいる大森小春が手を止めて私に話しかけてきた。私は手に持っている煙草を乱暴に目の前のテーブルに置いてある灰皿に押し付けて捨てた。


 それから私はかったるいような、図星を指されバツが悪いような声色で


「私も頭では分かってるんだよ。でもちょっと一服しないと口元が寂しくて」


 子供のような言い訳をする。ヘビースモーカーではないが毎日ちょくちょく吸う私にとっては生活習慣を変えるようなものなので難しい。禁煙した場合何か生活習慣の穴を埋めてくれるような物があればいいのだが……


「ベタだけど飴でも舐めてみたらどうかな。少しは気の紛れになるんじゃないかな」


 小春が心配そうな顔をして提案してきた。


「そうかな。まぁ小春が言うなら頑張ろうかな……」


 私は小春から目を背け俯きながら不安げに返答した。


「それに……キスする時に匂うから…」


「え、私の口煙草臭かった?」


 かなりショックだった。キスする時に不快な思いさせてるのは辛い。


「たまにね。気づいてなかったんだ……」


 呆れ顔で返答される。ふわっとしたショートヘアの鮮やかなブロンドの髪が呆れ顔についていくように揺れる。くりくりした垂れ目を持つ可愛い顔が台無しだ。私のせいでこんな顔にしてしまったのは本当に申し訳ない。パートナーシップ制度を使って結ばれてる私達。私の人生のパートナーの小春を悲しませるのは私にとっては大罪だ。


「ごめん。私禁煙頑張る」


 私がしょんぼりと肩を落としていると


「もう綺麗な顔が台無しよ。あなたは凛としたクールな顔をしてるんだからそんなしょんぼり顔をすぐに見せちゃだめだよ。まぁその顔が落ちていく姿が好きなんだけど……」


 小春が右手を私の顎に添えながら妖艶に笑う。まじまじと私の目を見つめられ私はごくりと唾を呑む。それから左手で私の後ろ髪をゆくっくりと梳く。さらさらと綺麗に梳いてくれるのではなくゆっくりと焦らす様に一本一本に神経を張り巡らされ、私はビクッと全身に痙攣が走り気絶してしまった。


 次の日になった。今は小学生が登校してる時間帯。私は家の玄関で急いで靴を履いていた。


「もうやばいって遅刻だ」


 あぁーもう、なんで踵が靴に入らないの。焦って空回りしちゃうあの現象だ。やばい本当に遅刻する。


「じゃーもう行ってくるね」


 私は家の中にいる小春に向かって声を荒げた。するとパタパタと廊下が揺れる音が聞こえた。バタバタじゃないパタパタだ。


「待って」


 そもそも家は狭いアパートなのでそんなにも急がなくて間に合うのに……行動が愛らしい。


「もう行かなきゃやばいんだけど」


 私は急いでいるのに止められる苛立ちと焦りで素っ気ない返事をした。


 その返事を聞いた小春はにやりと口角を上げた。けど目は笑っなかった。どうやら少しお怒りのようだ。


「行ってきますのキスはいいの?あとこれ持っててね」


 小春は飴の袋が入った紙袋を手に持っていた。私の返答は決まっている。会社に遅刻しようが……


「いる。どっちも」


 小春が満足そうな顔になってくれた。それから次はちゃんと目が笑っていて、やってやった!みたいな可愛い顔を見せながら


「でも会社に遅刻しちゃうんじゃない?」


 あぁもうなんなのよ。嫌がらせのつもり?でも目の前に餌を出してきたのに与えないのはただの嫌がらせではないと私は思う。だって現にされて本人は嫌だと思ってないから。会社に遅刻?そんな覚悟一番最初の会話でできてるわよ。


「お願い早く……」


 私は小さい声で懇願する。遅刻しそうで焦っていて早く欲しいって思うのもある。だけどそんな決められた時間に関係なくただ私がキスしたくて我慢できない……焦らされている。会社の時間?そんなもん飴玉みたいに溶けちまえ。


「どこに?」


 小春がもっと焦らして来る。もう駄目だ、色々と。こんなにも焦らされるなら私からやってやる。いつも私が受け側に回る。でももう抑えられない。


「「ん、ん……ちゅ、むぅー。んん、はぁ」」


 小春の柔らかく鮮やかな深紅の唇を嬲る。小春にとって小春の唇は瑞々しいリンゴのようなものだった。古来より禁断の果実と称されるそれ。深紅の色合いは誰をも魅了し堕とす。私もそのうちの一人だった。しかし私はこれに堕とされてはいけない理由がある。パートナーシップを結んだ私達。私が一方的に魅了されるのはいかがなものか。


「ちょっと一回とめて」


 駄目でした。小春が私の顔を手で押し返す。それから徐々にむすーっと不機嫌そうな顔をしていく。


「ちょっとそんな押し付けるようなキスは駄目でしょ。貴方はキスは私からするの」


 そう言いながら今度は小春がキスを迫ってきた。小春は私より幾分か小さい。そのためキスする時は右手で私の頭をまるで自分の物の様にぐりぐりと撫で回し、下に向ける。勿論私は抵抗しない。だって……


「「んん!ん……ちゅ、ちゅ、はぁ~。んん~!」」


「「ちゅーーーー!!」」


 小春は私の唇を小春の唇で食べるように挟み込み私の口腔内に突き刺す様に柔らかく魅力的な小さいそれを入れてきた。それから小春は私の唾液を強く吸い上げる、渦流ポンプのようにグルグル舌が動き回り、強い圧力によって。


 それからしばらくした後私は堕ちてしまった。心も体も……もう完全に遅刻だが後悔はない。


 小春は玄関口でドアにもたれ掛かりながら倒れてる私を見て満足そうな顔をして頬に軽いソフトなキスをしてリビングの方に歩いて行った。その足取りは軽やかでふわふわと飛んでく勢いの可愛らしいものだった。


「小春だいしゅき」


 私は小春がこの場にいないのを分かったうえで呟いた。けど小春には聞こえていたようで


「私もだよ」


 なんて……ううぅ。私は恥ずかしさと喜びで顔をリンゴの様に赤くし項垂れた。


 これが私の日常。けど日常が非日常になるだろうと私は確信していた。私自身が変わる。そして禁煙と飴……これからどうなるかは分からないがいい方に転ぶだろう。それほど私の決意は固いんだ。

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