背 中
最初の記憶は小さくなっていく母の背中を振り返って眺めている幼い自分の姿である。
不思議なことに、私は自分の目で母の背中を追い、もう一人の私が頭上で母の背中を凝視している私自身を見ている。
多分、それまで母と共に過ごした記憶が頭のどこかにあったはずだ。しかし、戸惑うこともなく
気が付けば、私にとっての母の記憶は私に向けられた愚鈍な背中が全てになっていた。
あの時、私の右手は大きな手にしっかり
「今日から
父は私と目線を合わせず、小さな私が精一杯見上げると、無くなりそうな細い目の中の眼光だけが鋭く光り、私の身体は背中から石化し硬直していくような感覚に陥った。
見上げたまま唇をきゅっと結び固まる私に父がもう一度言う。
「言いなさい。く、ろ、だ、ら、ん、こ」
「く…ろ…だ…らんこ」
「良い子だ。私のことはお父様と言いなさい」
「…お…とーたま…」
父の薄い目が少しほころんだように感じた。
この人の言う通りにしていれば、また笑ってくれる。
その時に刻み込まれたそんな思いが私を支配した瞬間だった。
連れて行かれた屋敷は、玄関が母と住んでいたところよりも広いと感じたことを覚えている。
大きな廊下は私を不安にさせるだけの静寂に包まれ、父の手を握った私の手にも力が入った。
「さあ、蘭子のお母様にご挨拶だよ」
「…おかーたま…」
私のつぶやきに、父を呼んだ時のような微笑みはなく父の顔は強張って見えた。
来訪を拒むかのように固く閉ざされた重厚な扉を躊躇することなく父が開けると、ベッドに横たわる女性がいた。
具合が悪いのか、ようやっと起き上がり乱れた髪を両手で撫でつけながら、ちらりと私を見てすぐに視線を外した。
「
父の問いかけに彼女は無言を返す。
子供心にも彼女からは招かれざる存在であることを感じ取り、私は父の背後に身をやった。が、父は繋いだ手を振りほどき容赦なく彼女の前に私を押し出す。
「蘭子だ…まあ、よろしく頼むよ」
彼女は相変わらず視線を逸らし、口を真一文字に結んでいる。
重苦しい沈黙が垂れ込め、時計の音だけがカチカチと響く。
堪りかねたように父が、傍らで控えていた小太りの女をチラッと見て、「
環と呼ばれた女が軽くうなずいたのを確認すると、父は足早に開け放たれた扉へと向かう。
慌てて私も後に付いて行こうとすると、環が私の両肩を乱暴に抑えた。
振り返った父が唇の端を少し上げて笑みを浮かべたが、すぐに向き直って出て行った。
閉じられた扉がたてた乾いた音の残響が、不気味に耳の底にこだまして不安と孤独が身体中を覆い尽くし私は声を上げて泣いていた。
環は慌てて私を部屋から連れ出した。
しゃくり上げる私の手を荒っぽく引っ張り足早に歩く環に、半ば引きずられるように駆け足になり息苦しさで声も出なくなる。ひっくひっくと喉を詰まらせる息遣いだけが清閑とした廊下に響いた。
連れてこられた部屋には若い女が待っていた。
「サチ、シャワーでよく洗ってあげて」
サチと呼ばれた若い女は私の服を無造作に脱がせ始めた。
「環さん、脱がせた服はどうします？」
「そんなもの全部捨てて構わないわよ」
当然でしょうとでも言いたげに顔をゆがませる。
私が小脇に抱えたウサギのぬいぐるみを、サチが取り上げようとした。
「いやッ」
思わず出た甲高い声に二人が驚いて初めて私と視線を合わせた。
「そんな小汚いもの持たせたら私が怒られますから」
環が口だけで笑顔を作って手を差し出した。
私はぬいぐるみを背中に隠して「いやッ」と叫んだ。
「いいじゃないですか。蘭子様にとっては大事なものなんだから」
サチが環にそう言うと、しゃがんで私の目線に合わせてニッコリ微笑んだ。
「大丈夫よ。捨てたりしません。預かるだけです」
私は環のほうを横眼で見た。
環は呆れたようにため息をつく。
「まあ、そんな目で睨み付けるなんて可愛らしいお嬢様が台無しですよ」
彼女は私に背を向け「全くお里が知れるわ」と背中越しに小さく吐き捨て部屋を出て行った。
私はそろそろとぬいぐるみをサチに渡した。
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