第78話:さあ、母親と決戦だ

「ただいまー」


 ほのかは気持ちに気合を入れてから自宅の玄関ドアを開ける。玄関ホールで屈んでショートブーツを脱いでいると、奥から母親が出てきた。

 どすどすという重い母の足音を聞くと、やっぱりまだ怒っていそうだ。


「ほのか! 電話もメールも無視するってどういうこと!?」


 母は眉間に深くしわを寄せて目つきもするどい。その迫力に一瞬気おされそうになる。

 いつものほのかなら、そんな母とは距離を取ってあえてなにも話さないという選択肢もある。


 けれども今日はそうはいかない。ちゃんと凛太のことを母に理解してもらわないと、今後もしも凛太と付き合うことができても隠れてこそこそとしなきゃならない。


 そんなのは嫌だ。


 ──がんばれ、あたし!


 だからほのかはもう一度自分の心にぐっと気合を入れた。

 


「まあまあ、ママ。ちゃんと話をするからとにかく中に入ろ」


 母は表情を変えずに無言のまま、くるっと踵を返して廊下を奥に歩いて行く。ほのかも母の後ろについてリビングに入った。


 ***


 リビングの立派な革のソファにどかっと腰を下ろした母は、腕組みをして足を組んだ。鋭い目線で向かい側に座るほのかを睨み、圧をかけるような低い声を出す。


「とにかくほのか。やっぱりあなたにはお見合いをしてもらうからね。あの人とは別れなさい。私はあの男性は認めません!」

「なんで?」

「なんでって、ほのか。見た目はパッとしないし、それにあんな暴力的な男はダメに決まってるじゃない!」


 ──暴力的な男? なにそれ? ひらりんって優しさが身体中から溢れてるような男ですけど。ママはいったいなにを言ってんの?


「暴力的な男って……何の話? あの人は優しい人だよ」

「ああっ、もう! だからあなたは恋に溺れて盲目になってるのよ。DVから逃げ出せない女って暴力を受けても、『でもあの人はホントは優しい人だから』って言っちゃうのよ」


 ──なにそれ?


 なんの話なのか、ほのかにはますますわからなくなる。今のほのかが恋に溺れて盲目っていうのは、はたぶん間違ってはいないのだろうけど。


 ──え? え? え?

  もしかしてママが今日見たのは別の世界線のひらりん? それがワイルドなひらりんだったとか? まさかのパラレルワールド? いや、ワイルドなひらりんなんて想像できないっしょ!


 とほのかの頭の中はパニくる。


「あの……ママ。DVとか、ホントわからないんだけど。あたし何も暴力なんて受けてないし」

「なに言ってんのほのか。今日交差点の手前で、あなたあの男に腕を引っ張られて転んだじゃない。あの男、腹が立つことがあったかなんか知らないけど、乱暴に腕を引っ張って女の子を転ばすなんて、暴力以外のなにものでもないでしょ! あなたはそんな感覚まで麻痺してるの?」

「へっ?」


 なんとなく話が見えてきた……気がするほのか。


「あの……ママ? 彼があたしの腕を引っ張る直前のシーン、見てたよね?」

「直前のシーン? なによそれ。交差点に向かって二人で並んで歩いてたでしょ」

「そうじゃなくて。あたしがスマホ見ながら歩いてたから、うっかり車道まで出てしまって、危うく車に轢かれかけたとこよ」

「え? そんなの知らない。ぱっと気づいたら、あの男が思い切りほのかの腕を引っ張ってた。えっと……私もほのかにメッセージ送ったり、歩きスマホしてたから……かな?」


 ──この女も歩きスマホに集中してたのねぇ~! しかもちょっとうっかりしたとことか、思い込みが激しいとこも一緒。さすが母娘だわっ!


 心の中で盛大にツッコミをしながらも、ほのかはこれでようやく合点がいった。


「あたし、ほんとに車に轢かれる寸前だったのよ。それをあの人が……凛太さんが危ないって腕を引っ張って助けてくれたんだ」

「そ……そうだったの?」

「そだよ。そのせいで凛太さんが勢いで車道に出ちゃって、危うく彼が轢かれそうになったんだから……」


 ほのかは話しながら、今日のその危険なシーンが頭の中にフラッシュバックした。ぞくりと背筋に悪寒が走る。

 もしもあの時凛太が轢かれていたら……と改めて頭に浮かび、少し涙が潤んできた。


「つまり彼が、ほのかを助けてくれたってこと?」

「そうよ。彼が自分の身を挺してあたしを助けてくれたんだよ。あたしが彼を危険な目に合わせちゃったのよ!」


 思わず感情が溢れてくる。ほのかは涙目になって母を見ながら、思わず大きな声を出した。


「でもさ、ママ。そんなあたしに、彼はなんて言ったと思う?」

「え……? 危ないじゃないか、とか? 気をつけろ、とか?」

「ううん、違う」

「あ、『何してんだ!』って怒った……のかな?」

「ううん。あたし、怒られても仕方ないよね。だってあたしのせいで彼が轢かれかけたんだから。でもね、彼は全然怒らなかったんだ。まずはあたしに『ケガがなくて良かった』って言ってくれたんだよ」


 ほのかの母は真顔で、黙って話を聞いている。さっきまで組んでいた腕と足はほどかれていた。ほのかは話を続ける。


「あたしが彼になんで怒らないのって訊いたら、彼はこう言ったんだ。『そんなことよりほのかが無事で良かった。もしもほのかが大けがしてたら、助けられなかった自分自身に対して怒ってたかもな』ってね」

「そ……そうなの? 私、車に轢かれかけたなんて全然知らなかった。だからてっきり彼と喧嘩したかなんかで、腹立ちまぎれに彼が腕を引っ張ったのかと……ほのかのことを心配してくれて全然怒らないなんて、いい人じゃない……」

「そうよっ! そんなあたしを助けてくれた彼に、あの時ママはなんて言ったの?」

「えっと……はて? なにを言いましたかね? 私もパニクってたから覚えてない」


 ──ええっ? そこ、ごまかす!? いや、もしかしてホントに覚えてないの? ……この人なら有り得る。


 ほのかは眉間にしわを寄せて、怒気をはらんだ声を出す。


「あのね。ママは彼に『ちょっとあなた。ウチの娘を危険な目に合わせて、どういうことですか?』なんて言ったのよ! 彼を危険な目に合わせたのはあたしなのに」

「あ、ああ。そうよね。確かそんなことを言ったわ。ほのかを転ばせたから怒ったのよ。ごめん。完全な私の勘違い。でも……あの時確か、彼は私に謝ったよね。だからてっきり彼が悪いことをしたんだって思い込んだままだったのよ」

「あれはね、ママ。『僕の不注意でご心配をおかけしました』って言ったでしょ。あたしが轢かれかけたのは、自分が気を配ってなかったせいだって彼は思ったんだよ」

「別にそんなの、彼が悪いんじゃなくて、ほのか、あなたが悪いんじゃない」


 そう。凛太はなにも悪くない。悪いのは不注意だった自分と、ちゃんと確かめもしないで凛太を責めた母親だ。

 そして凛太は悪くないどころか、あんなにも優しくて利他的で、とても素敵な人なんだとほのかは改めて思う。


 だけど母はそんな凛太の本質に目を向けようともしないで、さっきも『見た目はパッとしないし』なんて言っていた。それがほのかには本当に腹が立つ。


「そうよ。でもそれを自分のせいだって言って、謝るようなヤツなのよひらりんは! すっごく素敵な人なんだから! だからママ。ひらりんのことを、見た目がぱっとしないとかそんなことで判断するのはやめてよ! お願いだからやめてっ!!」


 今まで母の前では『凛太さん』とか『彼』と呼んでいたほのかだったけど、母に気持ちを伝えたい感情があふれ出て、ついつい『ひらりん』呼びになっていた。

 目からは涙があふれて止まらない。ほのかの目には、ぼんやりとかすんだ母親が何も言わずに固まっているところしか見えない。


 母は今の話を聞いて、真実がわかって、どんな反応をするのだろうか。

 それでもやっぱりイケメンじゃないからダメだなんて言うんだろうなぁ……と、ほのかはぼんやりと考えていた。


 そう思っていたら、意外にも母は穏やかな声を出した。


「ほのか。あなたがそんな風に男の人のことを言うのは初めてよね。ほのかが『すっごく素敵な人』なんて言うのを初めて聞いたわ」

「そ……そうかな」

「うん。もうべた惚れって感じ。今までそんなほのかは見たことない」

「あ、あはは……」

「わかったわよ。平林凛太さん。ホントに素敵な人のようね。あなたの好きにしなさい」

「え?」


 耳に届いた母の言葉を、ほのかはしばらく簡単には信じられずに呆然としていた。

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