アンファミリアの海

モノ カキコ

中川紗雪

【白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ】




ざざと波が鳴る。

あすこにぽつりと漂い飛ぶ海鳥の名はなんというのか、私は知らない。

鳥の骨は空洞で、だからあんなにも軽々と空を扱えるのだという。見ているぶんには、飛んでいるというより泳いでいる様子に近い。

この国の輪郭のきわを歩いている。

此処は海街。あんなにも憧れ焦がれた、海街なのだ。

柔らかなくせに灼熱を閉じ込める砂浜はほとんど凶器だ。けれどその滑らかな見た目に誘い込まれて肌を沈めたくなる衝動には抗えない。頼りない足取りで、私は歩く。

私には海は似合わない。私の生まれは山に囲まれた雪国だから。名前からして紗雪さゆきだもの。海に雪は積もらない。

こうして歩いていると、思い出す。あなたのことばかり、思い出す。

一見何の変哲もないこの砂浜には、けれど奇妙な言い伝えがある。教えてくれたのはこの街に住んでいたあなただ。何年かに一度、この浜辺から見る波がはっきりと虹色に見えるのだという。

──いちめん虹色なんです。たいそう綺麗ですよ。

ほんとうですか、と私は問うた。頭の中で今でも問うている。ほんとうですか。何の根拠もないのに、あなたが言ったというその一点のみで信じてしまうのは、そろそろ私が切羽詰まっているからだろうか。

あなたは愛おしい友人だった。朗らかで、偉ぶったところのない優しい人だった。屈託ない笑いかたが好きだった。


異性だった。

それが悲しかった。


異性というただそれだけで、恋人だの結婚だのという付加要素が勝手に付いてまわって、ただの友情さえままならないのが悲しかった。私はあなたを愛していたけれど、それがあなたに知れることを恐れた。あなたが私を愛していると知っていたから。互いの愛しているの感覚が、多分違った。

どうしてこう何度も同じことばかり考えてしまうのだろう。この浜辺に毎日通って、毎日同じことを考える。もう幾年になるのかわからない。自分がいつから此処にいるのか、わからない。

毎日通っていると海の不変に驚かされる。

畑が美しいのは、その背後に人の勤勉さを見るからだ。

だったら海が美しいのは揺るぎのない規則性のためだろう。波は絶えず止むことがないし、干上がった水分は山から川となり必ず帰ってくる。もし、そのメカニズムの中に虹色の波のサイクルも含まれているとするならば──信頼できる。比較して、私ときたらまったく信頼できない。


私はおかしいのだろうと思う。あなたとの思い出は細部まで想起できるのに、あなたの顔も名前も、私自身の素性も──さっぱり思い出せないのだ。

もう随分、昼間の記憶しかない。自分の住居すら分からない。私は夜一体どこで眠っているのだろう。毎日この浜辺を歩いて歩いてあなたとの記憶を辿りつつ虹色の波について考える。


不意に突風が来て、迂闊だった私は帽子を飛ばしてしまった。帽子は私の頭から離れてあっという間に風に運ばれてしまう。慌てて追いかけようとするけれど、先日怪我した脚がもつれて足許あしもとは砂に阻害され、思うように走れない。海に取られてしまうと諦めかけたとき、帽子を捕らえてくれた手があった。白い帽子を掴む細い指の爪先が波色で、とても映えた。


お礼を言って帽子を受け取ると、彼女は私の怪我を心配してくれた。まっすぐなハサミカットの髪型と奥二重の猫目が印象的だ。年齢は幾つだろう。私より年下なのは確実だけれど、最近のひとは環境のせいなのかお洒落のせいなのか実年齢より大分若く見えるから、私の予想する年齢は当てにならないかも知れない。彼女にとってはきっと何てことのない、大きめのTシャツに描かれたイラストがさりげなくて素敵だった。

穏やかなふうを装って私と接しているけれど、彼女の勝気そうな性格は仕草や表情から見て取れた。彼女は十代の頃、この海街で暮らしていたのだという。

「観光ですか」

当たり障りなく彼女は尋ねる。

「ええ」

これを観光と呼ぶならば。

「海が見たくって。日常の中に海がある暮らしって、昔から憧れていて」

「県外者の方はよくそうおっしゃいます。海の綺麗なところしか知らないから」

私を責めているというより、何かを思い出して語っている口振りだった。正直で不器用そうな人。誰かと話すのすら久し振りで、つい気が緩んで関係ない彼女に色々話したくなってしまう。

「私ね、ここの波が虹色になるのを待ってるんです」

彼女は怪訝な顔をしてこちらを見た。

「待ってるんです」

──ずっと。

祈りのように待っているんです。





海が見たい──と言ったのだ。誰が。私が。


彼女と別れて浜辺を歩き出した私は再びあなたとの記憶に潜り込んでしまう。

あなたは多分昔々に死んだと思う。不幸な事故や病気なんかじゃない、ただ老人になって、寿命を全うして死んだ。

私の方は随分生きた。あまりに随分生きたから、その時代その時代を吸い込んで、もう自分が昔の人という感覚すらなくなってしまった。

あなたに優しくされたことばかり憶えている。あなたがあまりに私を大事に扱ってくれたので、私は未だに空っぽのままだ。胃は空洞で、脳もきっと萎縮しているのだろう。

迫り来る波のように、大きいものほど引きも強い。あなたの優しさが深いほど私の内面積はえぐれて、やがてそれが枯渇したとき空虚だけが残った。

ほんとうは私はただ、自分を健全に愛する力が欲しかった。すべてに対する価値が揺らがないように。それが出来なかったのは誰のせいでもない、私の責任だ。


あなたが死んだあとの世界ときたら、酷かった。

あなたが死んだって、世界はなんにも変わらなかった。まるで最初からいなかったみたいに変わらなかった。いつものように朝となり、夕となり、よいとなった。世界は非情だ。何か天変地異の一つでも起こってくれたほうがよほど情があるというものだ。

でも、それをいうなら私も非情だ。あなたの死によって片腕がげたわけでも心臓が潰れたわけでもない。何の変化もない、健やかな私のままであったのだから。

だからそう、私は。



ああ、どうしてだろう。今更思い出しかける。記憶の端から曇りが剥がれてゆく。

そう──あなたがいない世界なら、私の世界も終わらせてしまおうと思って。私は外れ者だから、居場所なんか本当はずっと昔からなかったのだ。どこにも馴染めない私を辛うじてあなたが受け止めてくれていたから、人並みでいるような気になっていた。

うんと遠くへ行こうと思った。遠くの、そう、海の見える浜辺がいい。いつでも憧れ焦がれた、美しい海の見える美しい浜辺。

そう思って此処に来たのではなかったか。

海を眺めながら、あのとき私は何をした? 経験のない混乱に襲われて、意識が混濁して──それから。

そうして私は、誰かに助けられた。誰に? 分からない。


あれから随分と経ったのに、私は自分のことをおばさんともおばあさんとも思えない。多分他人から不意に「おばあさん」と呼びかけられたなら、思春期のように傷ついてしまう。





海が見たい、と言ったのだ。そうしたらあなたが連れてきてくれたのが此処だった。思い出したくもなかった。また来ようねと、言ったのだ。

私の記憶は彷徨う。この浜辺をぐるぐると。虹色に見える波があるだなんてあなたが言ったから、それを見届けるまで私はいつまでも通い続けてしまう。

そんな奇跡みたいな、などと思うこともある。でも、奇跡なんて要は頻度の問題なのだ。この世界で起きていることは全部奇跡で、ただそれが定期的に安定して起こると奇跡でなく単に現象と呼ばれる。それだけのことだ。


海の方へ、海の方へ。私はゆっくりと近寄る。

波に舐められる程度、くるぶし辺りまで浸かってみる。スカートは濡れるだけで波色には染まらない。しばらくそうしてふと見下ろすと、足から皮脂が溶け出すように周りがじわじわにじんでいた。自分から染み出すこれが何なのか、私にも分からない。滲みは止まらずやがて海一面に薄く拡がって、光の反射で虹色に輝いて、ああ、これはまるで。


──何年かに一度、海の波がはっきりと虹色に見えるんです。


──いちめん虹色なんです。たいそう綺麗ですよ。


どこかで迷信だとばかり思っていた。

波は鮮やかに優しい帯状のプリズムとなって輝きだす。なんだか不思議で、ちょっと拍子抜けしてほっとして、切なくなる。黙って虹色にたゆたう波をいつまでも眺めている。

潮騒の身侭みままさは手に負えない。






ざざと波が鳴る。


ざざと波が鳴り、私を急き立てるので、私ばかりが淋しい。


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