第45話

「ということで、海道さんお待ちかねの洗体の時間だよ」

「誰が待ってるって?」


 泡をたてるやつ(正式名称あるの?)をわしゃわしゃしながら矢来さんを睨み付ける。

 私の非難の目にたじろぐことなく矢来さんはニコニコ……いや、ニヤニヤしていた。


「前にわたしの身体を嬉しそうにまさぐってたのは誰だったかなー?」

「なに、矢来さん痴漢にでもあったの? 可哀想ね」

「とぼけなくてもいいのに」


 うるさいな。


「まあ、わたしは抵抗しないから海道さんの好きにしてね」

「……いや、普通に身体洗うだけだから」


 なんて、普通にと口にしている時点で普通ではない。

 なんてことないと自分に言い聞かせる。所詮、同級生の女の子の身体を洗うだけだ。

 いや、洗うだけって言ったってそれ結構おかしくない? 今更になって状況の異常性に気づく。


「じゃあまあ、とりあえず背中から」


 ネットから泡を掬い矢来さんの白い背中に優しく塗りたくる。ただでさえ絹のように凹凸を感じられない肌がより滑りやすくなる。

 毛穴ある? 発汗に問題ありそう。


「今日はいっぱい汗かいちゃったから、たっぷり時間かけてねー」

「そんな汗かくようなイベントあったっけ……。いやあったわ、滅茶苦茶走ったわ」

「海道さん、足遅かったねえ」

「……」


 言えない、中学時代は陸上部だったなんて。

 それも短距離走者だった。いやでも、今日のチェイスは持久力勝負だったか。なら負けても仕方がない。


「まあ、多分わたしが早すぎるんだろうけどね」

「本当にね。何かスポーツやってたの?」

「全然。わたしって背が高いから、バレーとかバスケは勧誘ならされたことあるんだけど、団体競技はちょっとねえ」

「なら、それこそ陸上とかあるじゃない」

「全速力で走ったらおっぱい痛いから嫌なんだよね」

「ああ、まあ……それはわからなくもない」


 私でも共感できるんだから、矢来さんの嘆きは本気だろう。


「宝の持ち腐れってやつかな?」

「それは運動神経の話? それとも胸?」

「どっちも!」

「自分で自分の乳のこと宝って呼ぶの、中々あれね」

「でも前にグラビアアイドルのスカウト? の人に、君の身体は日本の宝だっていわれたよ?」

「それセクハラだから通報した方がいいと思う」


 ていうか、アイドルのスカウトって本当に存在するのか。

 ましてやそんな犯罪まがいの誘い文句で勧誘をするなんて。今度私の前に現れたら絶対に殺してやる。


「まあそれ言った人、お母さんにマジで殴られたんだけどね」

「どういう状況かわからないけど、お母さんに最大級の賛辞を送りたいわ」

「そうだね。今になって思えば、色んな人に身体を見られる可能性があったって思うと怖いよ。あ、でも海道さんは別だよ? いくらでも見ていいし、触ってもいいからね」

「見ないし触らないから」

「今触ってるよね?」

「これは洗ってるの」

「でも、背中ばっかりだね。いつになったら前洗ってくれるの?」

「……今からよ」


 適当に会話をつないでおけば誤魔化せるかと思っていたのに。目ざとくも矢来さんは私が腹面に手を伸ばさないことに言及してきた。


「というか、本当にいいの?」


 私は意地汚くもまだ抵抗することを選ぶ。


「うん? 何が?」

「えっと、前は確かにただ身体を洗いあっただけで済んだわよ。だけど今回は……今日からはその意味合いがちょっと変わってくるというか」


 私の言葉に、鏡越しの矢来さんは目をパチクリとさせる。

 ああ、これ全く理解してない。矢来さんに婉曲的な表現で理解しろというのが酷だったか。


「だからその……恋人として、こうやって身体に触れるのは、なんかこう」

「エッチだねって?」


 私が言い淀んでいた部分を矢来さんは臆せず口にする。

 

「……まあ、うん」

「それって、何かダメなの? むしろ恋人なら普通なんじゃないかな」

「いやまあ、そうなんだけど。なんというか、もっと段階を踏むべきなのではとか思ったりするわけですよ」

「段階かあ。でも、キスはしたよね。ってなると、次はやっぱり身体だと思うよ」


 ……確かに。いや、納得している場合じゃないのだが。

 そこで、私はあることに気が付いた。


「いいえ、矢来さん。それは違うわ」

「急に英語の教科書みたいな喋り方だね」

「……」


 謎のツッコミで勢いを削がれたが、気にせず続ける。


「私たち、まだキスはしてないわ」


 私が自信満々にそう言うと、矢来さんは途端に眉をひそめ心配そうに私を見てきた。


「どうしたの? 急に頭おかしくなっちゃった?」

「サラッと失礼ね、いつものことながら。覚えてるに決まってるでしょ」

「なんだ、てっきりわたしとのキスを忘れちゃったのかと」


 忘れるわけない。あんな強烈な体験、後にも先にもないだろう。

 きっと死ぬまで記憶にこびりついて離れない。走馬灯でも流れること間違いなしだ。

 だけど、死に際に矢来さんが思い浮かぶのなら、それはそれでいいのかもしれない。


「そうじゃなくて、恋人としてのキスはまだしてないでしょって話」

「なるほど。それは確かにそうだね」


 裏を返せば、恋人としてではない、曖昧なキスなら経験済みということなのだけれど。

 今にして思えば、矢来さんと私の関係の進み方は明らかに歪だ。

 スタートがキスだなんて、不埒にほどがある。それをいい思い出だと感傷に浸りそう私も私だが。

 

「なら今ここで」

「しないから。ロケーション最悪でしょ」


 先走る矢来さんは言葉で制する。矢来さんは見るからにむくれて不満を表明してくるが無視することにした。


「でももうファーストキスじゃないから良くない?」

「人のファーストキス奪った人間の発言とは思えないわね……」

「ごちそうさまでした」


 手を合わせて拝まれる。


「ま、そういうわけだから身体は自分で洗いなさい」


 無理やり締め括り、矢来さんの手に泡立てネットを握らせる。


「わかったよ、わたしは自分で洗う。だけど、海道さんのことはわたしが――」

「私も自分でやるから。あなた、勝手に人の股に手突っ込んでくるし」

「あの時の海道さんの声面白かったよね。にょわって」


 ケラケラと他人事のように矢来さんが笑う。おかしいな、全く反省してないぞ?

 

「でも、そっか。海道さんが嫌だって言うなら駄目だよね」

「わかってくれたならいいのよ」

「それに海道さんの身体をまさぐるチャンスは今後絶対にあるしね」

「何にもわかってなかった……」


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