後編

二〇一八年六月七日

愛知県羅宮凪市 三河町


 現場に到着したチェルノフは、大学の正門前で立ち往生するパトカーの群れに遭遇した。

 渋滞している場所からは即座に降車し、最寄りの警察官に状況を尋ねる。

「この渋滞はなんだ」

「容疑者が大学構内から正門に向けて発砲しているんです! 四名重体です!」

 その警官が指差す正門では、警察官と特警隊員が倒れていた。多分、ほとんど死んでいるのだろうが、一人だけは胸が上下していた。

 それを助けようとしているのだろう。鉄柵の基部である塀の死角に隠れつつ、特警隊員が生存者を救出しようとしていた。

 あれは生存者を救出しに来た間抜けを撃ち抜いて犠牲者を増やす、典型的なスナイパーの罠だ。

 塀の死角に隠れたところで、助けるためには身をさらけ出さなければならないこともある。スナイパーはそれを狙っているのだ。

 無用な犠牲者を出すのはチェルノフの意に反する事だ。彼は即座に駆けだすと、塀の陰に隠れつつ特警隊員の背を追った。

「もう少しだ、手を伸ばせ!」

 本当に手を伸ばせば、スナイパーに位置を教えることと同義だ。相手が使用する銃器の正体がわからない以上、不用意な行為は危険だ。

 チェルノフは不用意な男のベストを掴んで自分の方へ無理やり引きずり込んだ。

 直後鉄柵の合間を銃弾が通り、彼の頭部が浮いていた場所の空気に穴が穿たれた。

「走れ、狙われているぞ!」

 まるでセミオートのライフルの如く銃弾が二人に降り注ぐ。そのおかげで、チェルノフはスナイパーの位置が特定できた。

「スナイパー、屋上だ!」

「制圧射撃!」

 彼ら二人を守るために特警隊員が屋上に向けて発砲を始める。把握できたといっても情報はその程度のため、こんな銃撃はまず当たらない。

 だが、撃たれる方としては気が気ではないのは当たり前で、狙撃はストップした。その間に、チェルノフと隊員はパトカーの陰に飛び込んだ。

「撃たれたか?」

「俺は問題ない」チェルノフは両手を挙げて無傷をアピールした。「だけど、こいつは撃たれた」

 残念ながら特警隊員の方は無傷では済まなかった。脛に銃弾をもらいながらも、叫ばないように息を殺しつつ唸っていた。

「あとは救急班に頼む。ありがとう」

 片手を挙げて応えると、チェルノフは無線機に向けて囁いた。

「こちらミョートチェルノフ、現場に到着。容疑者は最低二名以上、一名は七・六二ミリ以上のライフルを携行。死傷者多数、至急増援を求む。オーバー」

「了解したミョート。現時点より君に現場の監視を命じる。君が思う最高の監視地点を探せ、後処理はこちらで行う。オーパルルールベカエール、オーバー」

「了解した。ミョート、オーバー」

 スナイパーからの狙撃が止み、警察と特警が共同で死傷者の救出を行なっていた。その間に、チェルノフは来た道を戻った。

 ここに来るために使用した車両は、共に狙撃現場の調査を行った婦警のミニパトカーだ。

 まだチェルノフの車両の仲間は交通整理の仕事が残っていたため、装備の回収しかできなかった。

 そこで地理に精通していて、なにより彼女もこの現場に向かうよう命令されたため、せっかくだから同乗したのだ。

 当の彼女は心底後悔しているご様子だったが、今は彼女を利用するのが最善だとチェルノフは考えた。

「少しよろしいですか?」

 容疑者が立て籠もる建物からさらに建物を挟んでいるのに、彼女は用心深くパトカーの陰で屈んでいた。

「は、はい。なんでしょう?」

「上司から監視地点を探す命じられました。私は日本語がとてもうまくないです。通訳はお願いします」

 恐らく、現場から離れられると考えたのだろうか、彼女の表情がパッと明るくなり、

「了解です!」

 と、元気よく頷いた。


◇ ◇ ◇


 彼女がどこへ行くと思っていたのか定かではないが、少なくともチェルノフの選択が想像を凌駕していたのは確かだ。

「ほ、本当にここに入るんですか?」

 そうだ。そんな一言さえ発する手間を惜しんだチェルノフはずかずかと扉を押し開いた。

 人の視線を避けるための塀に、プライバシーに配慮された薄暗い地下駐車場。

 入ってすぐのロビーに人の気配はなく、発券機が一つ置かれているだけ。

「人を呼んでください。早く」

「は、はあ」

 この手のホテルの経験がない婦警だったが、幸いにも券売機には係員を呼び出すボタンが設置されていた。

 それを押すと、どこかで電子音が鳴った。さらに少し待つと、STAFF ONLYのプレートが貼られた扉からヨレヨレのビジネススーツ姿の男が現れた。

「なにか……」

 言い掛けて、男は硬直した。

 それも当然。制服と防弾ベストを羽織った婦警に、特別警備隊の腕章を身に付けた明らかに外国人の男。

 何かのガサ入れか。自分は逮捕要員にされたのではないか、などと驚いたのだろう。

「落ち着き。特別警備隊です、協力お願いしたい」

「そうです。近くの大学で事件が起きているのはわかりますよね? 客室の鍵を貸してください」

 それを聞いて安心したのか、困ったのか。複雑な表情をして男は頷いた。

「わかりました。どの部屋でしょうか?」

「四階ほど、西側」

「ええっと、四〇六号室は現在使用中でして……」

 そう言い掛けると、チェルノフは男の胸倉を掴んだ。

「あなたの判断は人を殺す。選んでください、素早く」

 今にも拳銃を抜きかねない殺気にあてられ、男は硬直した。

「落ち着いて下さい! とにかく、我々には協力が必要なんです。マスターキーを貸して下さいませんでしょうか?」

 すっかり怯えた男はチェルノフが手を放すと、そそくさと部屋に走り、マスターキーを手に舞い戻った。

「ご協力、感謝します」

 そう言ってエレベーターに消えるチェルノフを見送りながら、男はつぶやいた。

「まるで、ロボ・コップだな……」


◇ ◇ ◇


 ラブホテルの防音設備に関してはまさに『ピンからキリまで』という言葉が相応しい。

 完璧な防音で隣に人がいるのかさえわからないホテルもあれば、隣から情事の気配を感じたと思えば囁き声が聞こえて、実は男三人で盛り合っていたという事もある。

 このホテルの場合は前者だ。今日の講義を終えた羅宮凪大学の学生二人は、たっぷり半日は情事に勤しもうと若さに身を任せて絡み合っていた。

 防音設備によって、先ほどまで自分たちがいた大学で銃撃戦が繰り広げられてるとも知らずに。

 三度交わった末の休憩中、不意に部屋の鍵が開く気配を男は感じた。

「どうしたの?」

「今、鍵開かなかった?」

「えー、うそだー」

 そう言った直後、ライフルを提げた男が侵入してくるとは思いもしなかっただろう。

 呆然とする二人に、チェルノフはマスターキーを投げつけた。

「特別警備隊です。お続きはお好きなお部屋でお願いします」

 日常の中に突入してきた非日常。あまりに突拍子のない出来事に二人は呆然としてしまい、荷物を抱えると服も着ずに廊下へ出てしまった。

 赤い絨毯の敷かれた廊下で、二人は顔を見合わせる。

「続き、しよっか」

「そうだね」

 この二人。長続きするかはともかく、大物かもしれない。


 事件に戻ろう。

 チェルノフは客を追い払うと、まず大学を見下ろすことができる三十センチ程度の小さな窓に注目した。

 プライバシーの保護が求められるラブホテルだ、大きな窓がある部屋はそうそうない。

 しかし、大学を監視するには十分な大きさだ。

 まずベッドのカーペットを除去すると、その上に小さな机と一人掛けのソファを置き、机にSVUの十発弾倉を三つ転がす。

 窓は開けない。せっかくのマジックミラー、向こうから察知できないというアドバンテージをわざわざ捨てる必要はない。僅かながら外の景色が暗くはなるが、この程度のデメリットは許容範囲である。

「私はどうすればいいですか?」

「パッドは私のスコープと……いっしょ、同期? しています。警察に私が見る光景をお知らせください」

「了解しました」

 すっかりチェルノフに懐いた婦警は素直に従い、受け取ったパッドの電源を入れた。

 その間に、チェルノフは司令部に報告する。

「オーパルルール、こちらミョート。監視地点に到着。場所は大学東のホテル、メイクラブエバー四〇六号室。オーバー」

「こちらオーパルルール、了解した。現時点をもって、その部屋をシエラポイント狙撃地点とする。現在、容疑者グループと交渉中だ、指示があるまで待機せよ。オーバー」

「ミョート了解。オーバー」

 屋上から容疑者の姿は消えていた。代わりに、あのスナイパーが屋上に登る際用いたと思われる開きっぱなしのハッチを確認できた。

 標的も指示もない以上は息を殺してじっと、チェルノフは待つ事にした。スナイパーとは待つ職業なのだから。


◇ ◇ ◇


 事件発生から三時間後、ジョン・ユキムラをはじめとするSIUのチームが大学包囲網に到着した。

 既にネゴシエーターが人質救出のための交渉に入っていたが、容疑者グループの要求は奇妙なものだった。

「現金三十億円に、リビア行きの飛行機。そしてこの大学の学生、田中善良の身柄を引き渡せ。そうすれば、人質の半分を解放する」

 現金と飛行機の要求は十分に想定されていた。しかし、最後の要求によって現場は一時混乱した。

 田中善良とは何者だ? 容疑者と一体何の関連があるというのか?

 その結論が出たのは、SIUのチームが到着するのとほぼ同時であった。

「田中善良。羅宮凪大学三河キャンパスの経営学部に通う二年生だ」

 画面の向こうで資料に目を通しているベカエールが言う。彼が浮かべる表情からして、手元にある資料には非常に微妙な事が書かれているようだ。

「司令、なにかありましたか?」

「いや。特筆すべき情報がこれだけしかない。過激派組織が身柄を欲しがるような理由が見つからんのだ」

 そう、表向き田中善良は単なるひきこもりがちの大学生でしかない。警察が握っている程度の情報では、容疑者が要求する価値のある人間とは考えないからだ。

 この独特な名前だ。同じ大学どころか、この島に同姓同名の人間がいるとも思えない。

「俺はこういう場合、情報が抹消されているか、本当になんにもないの二種類だと思ってるんだが、あんたの見解はどうなんだ、コマンダンテ司令官?」

「いや、経歴に消去された痕跡はない。間違いなく、正真正銘普通の大学生だ。しかし、当人と連絡を取ったところこちらへの協力は拒んでいる」

 テロリストに身柄を要求されていると知って、いい気分になるものはいないだろう。だが相手は間違いなく彼の身柄を欲しがっているのだから、無作為に選ばれた無辜の民とも思えない。

「容疑者は田中善良についてなんと?」

「冒涜者、だそうだ。それ以上の情報の開示は拒まれた」

 これは、表に出せないようなところで何かやらかしたな。この場にいた全員が確信した。

 一介の大学生を爆破テロに巻き込むならともかく、名指しで冒涜者呼ばわりはさすがに異常だ。

「とにかく、田中善良についてはこちらで調査を進める。そちらは命令あるまで待機せよ」

「了解」


◇ ◇ ◇


 六時間が経過した。

 田中善良は相変わらず協力を拒否し、一体なぜ身柄を要求しているのかも把握できていなかった。

 その間にも現場の緊張は高まり、それに伴って野次馬の量も増えてきた。

「すみません。いいですか?」

 婦警が無線機と話し合った末、チェルノフに尋ねた。

「なんでしょう」

「今さっき、この周辺でのドローンの飛行が確認されたため、こちら警察のヘリコプターが撤退するそうです」

 恐らく、自己顕示欲の塊のようなインターネット放送者が飛ばしているのだろう。

 自らこのような事態に首を突っ込むとは、馬鹿野郎め。チェルノフは心中で毒づいた。

 それにしてもヘリコプターが使えないのは痛い。ヘリはチェルノフの死角をカバーできるだけでなく、容疑者に対して強い威圧感を与えることもできるのだ。

 しかし特警ならヘリを撤収させることなく、即座にドローンの無力化が可能だ。

 特別警備隊はあくまで民間の組織だ。ゆえに警察よりも圧倒的に軽いフットワークで活動し、装備の採用・使用が可能なのだ。

「ちょっと待つように指示してください。こちらがドローンガンでどうにかします」

 チェルノフの言うドローンガンとは、電波で誘導されるドローンに対して強力な指向性妨害電波を照射し、誘導性能を奪うというものだ。

 現状、日本警察では網を装備したドローンを確保する、対ドローンドローンなるものを使用している。しかし着地に失敗して相手側のドローンが損傷し、損害賠償を請求されるという事件が発生している。

 ちなみに、ドローンガン採用の目途は立っていない。

「オーパルルール、こちらミョート。警察がドローン接近を理由にヘリを下げさせようとしている。ドローンの無力化を頼む、オーバー」

「オーパルルール了解、発見次第無力化する。オーバー」

 これでよし。

 所属不明のドローンは容疑者が利用している可能性がある。

 これは操作している可能性だけではなく、配信されている生放送を視聴して、外部の様子を伺っているかもしれない。そしてヘリの安全上の理由。

 現場上空をドローンが飛んでいて、いい事なんて何一つない。


◇ ◇ ◇


 梶谷康夫。彼の人生は波乱に満ちたを体現していることだろう。

 十五歳に柔道で初段、黒帯を締めるほどの達人であった。

 大学を卒業して警察官となり、巡査から巡査長、巡査部長へと順調に警察官として昇進を重ねた。

 彼が三十二歳、警部補となった夏の事だ。梶谷は刑事部捜査四課に配属され、愛知県に潜む数々の暴力団と水面下での戦いを続けていたある時、彼は人を殺めてしまった。

 大した理由はない。つい力が入りすぎて拘束した容疑者を絞殺してしまっただけの事。彼はそう考え、悪事を働いていないので、反省する気にもなれなかったが、警察としては重大すぎる問題となった。

 もちろん本人がどう考えていようと関係なく、業務上過失致死罪に問われた梶谷には三年の懲役が決定し、警察は彼を懲戒免職とした。


 三年後。梶谷は同僚たちからのしごきに耐えて出所した。

 既に当時から彼の心の中にあるのは、自分を不当な罪で陥れた警察という組織への怒りしかなかった。

 どう考えても逆恨みなのだが、本人は大して気にしなかった。


 日雇い労働で糊口をしのぐ日々の中、吉報を携える男が梶谷を訪れた。

 男は教授と名乗った。少なくとも梶谷に面識はなかったが、教授は事細かに梶谷の事を知り尽くしており、何より彼の依頼は魅力的だった。

「中東で戦う者達に、格闘の技術を教えてほしい」

 そう言って提示された額は、たった三日間で日雇い労働四ヶ月分。警察時代の給料さえも凌駕していた。

 そうだ、これこそが正当な対価だ。報酬なのだ。安月給で人を働かせるなんて、もはや人の所業ではない。人のナリをした悪魔の所業だ。

 貧困に苦しんでいた梶谷は、二つ返事で依頼を承諾した。

 なにより、当時刑務所に入っていた梶谷でも中東で活動する組織の嫌われ具合が入ってくるほどだ。つまり、元警察官である自分がテロリストになるという事は、連中への最大の嫌がらせとなる。素晴らしい復讐ではないか。

 こうして、梶谷はパスポートと観光ビザを取得して教授と共にトルコ共和国へ飛び、彼の消息は途絶えたのだった。


「……その後、奴の存在が確認されたのは、中東の武装組織が運営する訓練キャンプだ。様々な教育ビデオや工作員から、日本から来た柔道の達人の存在が確認されている」

 交渉の際に出てきたリーダーの画像を警察のデータベースと照合した結果、元警察官の梶谷康夫と出た。

「奴はテロリストやってたんだろ? そんな奴がこの国で何やってんだ」

 アルトゥールの発言には二重の意味がある。

 一つは、日本でどんな活動をしているのか。ビジネスライクな人物であれば、休暇の為にと祖国へ戻るのは不思議な話ではない。

 だが、テロリストと目される人間の大半は、国内の重要施設の破壊やテロ要員を招き入れたり……ろくなことを考えていないことが多い。

 二つ目の意味は『どうしてそんな奴を国境の内側で自由にさせているんだ』この一言に尽きる。

 梶谷はトルコで消息が途絶えるも、数年後にはトルコの日本大使館に現れ、「強盗に遭って、パスポートを奪われていた」という理由で帰国していた。

 案の定、帰国後すぐに行方をくらましている。そしてこのザマである。

「当時、日本政府は梶谷康夫がテロリストと繋がっているという情報を掴んでいなかった、とのことだ」

「なるほど。でも、大学生の身柄を求める理由にはなーんにも繋がらないな」

「そうでもないぞ」

 長谷川はそう言うと、パソコンの画面を一同が見えるようにくるりと回転させた。そのページは、いわゆるまとめサイトと呼ばれるSNSや掲示板の書き込みをまとめたサイトだ。

 ちなみに、このサイトは阿久間博士が運営するものである。

「一時期、日本のごく一部でテロリストが持つSNSのアカウントに対して嫌がらせをする悪戯が流行っていた」

「私も知っている。一部のメディアは『暴力を用いないテロリズムへの反抗』、などと言っていたな」

 そう言うジョンにとって、この悪戯は『国を巻き込んだ自殺志願』以外のなにものでもない。

「ブームになっていた頃は幸いにも何も起きなかった。最近はブームも下火になってほとんどなくなったが、これは四ヶ月前の話だ」

 最初は日本人のイスラム教徒が作った会のリーダー吉村伊助が、日本の学校給食にハラール認証を導入するべきという旨の発言だった。

「どうだっていいだろ。発言自体は自由なんだから」

 ポーターの言う事は至極真っ当だ。

「そう、今回の問題としては本当にどうだっていい話だ。肝心なのは、ここからだ」

 画面をスクロールさせると、田亀先輩と名乗る男の呟きとなる。それは、見るに堪えない幼稚な暴言の数々だった。

「バカだな」普段あまり口を開かないジョンが鼻で笑うほどである。「労働階級品のない奴の幼児でもこんな悪口は言わん」

 しかし、次にスクロールして現れた画像を前にして、さすがに一同はドン引きした。

「これは……ヤバいな」

「なるほど。お前さんはこれを田中善良がやらかしたって言いたいわけだな」

 この流れで現れた褐色の人物画と、アラビア文字。誰だって何となく察することは出来る。

 確かに梶谷の言う通りだ。この行為は紛れもなく、冒涜者と呼ぶに相応しいものだった。

「これは状況証拠でしかないし、物的証拠もない」長谷川は浮かない表情で言う。「だが、何らかの理由で―――無関係の別件かもしれないがともかく、田中善良を田亀先輩と同一人物と判断したのなら、十分にあり得ると思う」

 しかし妙な話だ。理由は確かにわからなくもないが、大学を占拠する価値はない。

 確実に冒涜者を処刑したいのであれば、直接田中善良の自宅を襲えばいい話だ。実際、こんな回りくどい手段をとったせいで周囲を警察と特警に囲まれる窮地に陥っている。

 まだ情報が足りない。

 ジョンは立ち上がった。

「司令、念のため吉村伊助を事情聴取しましょう」

 万が一、吉村伊助と梶谷康夫に繋がりがあれば、大きな収穫となる。

 幸いにも吉村はツリッターのプロフィールで自身の身分を明かしているため、身柄を押さえるのは難しくない。

 少しして、ベカエールが応答した。

「そうだな。確たる証拠は何もないが、吉村伊助を調べさせよう」ベカエールもまた同じく複雑な表情で言う。「ただし、事情聴取は不可能だ。許可は確実に降りん」

 もし長谷川が出した推論が事実となった場合、この事件は後先を考えない愚か者が導いた世界一バカバカしい事件となるだろう。

 しかし実にバカバカしい事に、これこそがこの事件の真相なのである。


◇ ◇ ◇


 梶谷康夫が一体なぜこのような凶行に及んだかを説明するためにはまず、彼が中東から日本に戻った理由を述べなくてはならない。


 戦闘員に柔術を教える指導員となった梶谷だが、やがて梶谷自身がもっと組織内部でのし上がりたいと考えるようになった。理由はもちろん、自分が大物になり、事実が発覚した際に警察という組織へより大きく、より汚い泥を塗るために他ならない。

 そこで梶谷は考えた。考えに考え抜いて、一つの結論に至った。

 ならば、イスラエルへのテロ攻撃はどうだ。

 イスラエルはイギリスによってイスラム教徒が追い出され、その後にユダヤ人が乗り込んで不法占拠した土地だ。当然、イスラム教徒からはあまり良い目で見られていない。

 なぜそんな真似をしてイスラエルという国が建国されたのか。それはユダヤ教の聖地があるからだ。

 なら、その聖地でユダヤ人を殺せばいい。

 恐ろしい事に、梶谷は組織の中において教典を一度も目に通していなかった。アラビア語を知らないのだから当然だが、なぜイスラム教徒がユダヤ人の聖地から離れたがらない理由を考えることは、計画を実行するあとまで一度もなかった。

 イスラエルへのテロ行為は組織の内部でも常に考えられている基本的なものだった。梶谷の柔道の技術は紛れもない本物であり、『日本から来た先生』と現地語で呼ばれるほど人望は厚く、能力も高く評価されていた。

 これがかえって不幸を生んだ。

 上層部から作戦のアイディアをパクられたり、決断を渋られないように梶谷は独断で計画を進めてしまったのだ。無駄に人望が厚いため、人や道具が次々と集まり、計画が本当に実行直前になるまで、組織は梶谷の恐ろしい計画を知らなかった。

 この計画で最大の幸運は、途中で頓挫したことである。

 爆弾を詰め込んだトラックはイスラエル内部で走行中に国家警察に捕捉され、やむなく町中で大爆発を起こした。犠牲者は百人を超す大惨事となった。

 ここまで見れば重要目標の破壊に失敗しただけで、まあ成功と普段なら見るだろう。だが、梶谷が目標としたものが悪かった。

 メッカ。イスラエル建国の元凶にして、ユダヤ教の聖地。だが同時に、イスラム教の聖地でもある。

 無知な梶谷は、よりにもよってこの聖地を爆破せんとしたのだ。


 さすがにこの事実を知った上層部は怒り狂った。

 我らが聖地を破壊するつもりか!

 しかし、悲願であるイスラエルの大規模破壊活動を成功させたのも事実。組織内部で梶谷の功績を讃える声がないと言えば嘘になる。

 おかげで直接始末するわけにもいかず、排除するためには、彼の国籍を利用するしかなかった。

「異教徒の日本政府に致命的な被害を与えよ」

 これが梶谷に下された命令だった。

 大元が日本という国の法執行機関への復讐心で組織に加わった梶谷は上層部の創造に反して、それはもう大いに喜び、日本に帰国した。


 帰国後、日本の警察を知り尽くしている梶谷はなかなか行動を起こせなかった。

 そこらじゅうに監視カメラの目があり、下手な活動をすると即座に計画を邪魔される。

 また、協力者の少なさも計画の実行を困難にさせた。

 日本に住む組織の人間は少なくないが、即座に公安にマークされるため、出来る活動が限られていた。

 日本人を戦闘員に仕立てようにも、多くが事なかれ主義で、なによりその日を生きるのに精一杯な日本人で適性の高い者を探すのは困難を極めた。

 そんなこんなで数年、組織はすっかり梶谷の事なぞすっかり忘れていた。

 米軍が撤退した後の中東を支配するため、政府に雇われたPMCや敵対する武装勢力としのぎを削っていたからだ。

 一方梶谷はというと、あまりうまくいっているとは言えなかった。

 前述したやりづらさや、資金不足。諸々の問題が噛み合って、とにかく任務を果たさなければと躍起になっていた。

 教授の協力によって十名の人員は確保していたが、肝心の作戦が浮かばない。

 成果を出さなければ、組織に戻れない。

 ここで少し柔軟な発想を効かせて、日本最大勢力のテロリストグループ、労働改善党LIPを味方にでもつければよかったのだろうが、生憎梶谷の頭は固い。仲間ならともかく、無関係な組織から助力を得るなどという発想はなかった。

 誰かから助言されたとしても、「そんな無様を晒せるか」と一蹴していた事だろう。


 勝手に窮地に陥っていた梶谷は、考えに考え抜いて、まずは簡単な活動をしようと思い至った。

 通勤電車の爆破か、あるいは警察官を血祭りに上げるか。なぜか変なところで決断力に欠ける彼は悩んで好機を失っていった。

 しかしある時、インターネットでこんな記事を見つけた。見つけてしまった。

【悲報】日本、今度こそヤバい!インターネット煽りマン、イスラム教徒を侮辱するwww

 イスラムの文字が目に入った梶谷は思わず記事をクリックし、内容を見て思わず「これだ!」と叫んでしまった。

 SNS上でイスラム教を侮辱した者がいるという記事。どうせネット上で誹謗中傷なぞ、社会の底辺がやっているのであろうと考えている梶谷は、こいつは最高に楽な標的とほくそ笑んだ。

 しかし肝心なのは、その所在だ。

 人間が現実ではなく、主にネット上で誹謗中傷するのは簡単には個人を特定できない匿名の場だからに他ならない。

 だが、調べればヒントは出るはず。梶谷は懸命に調べたが、田亀先輩の正体に繋がる情報は一切出なかった。出るはずもない。仮にも相手は数々の情報開示をすり抜けて他者を無差別に煽り続けた、いわば職歴だけ長い煽りのプロだ。

 相手が元警官とはいえ、パソコンでろくに資料も作れないローテク人間に尻尾を掴めるわけがない。

 終わりか。

 いや、まだ切り札がある。

 そう、まだ梶谷には切り札があった。

 それはツテだ。しかし人の繋がりを甘く見てはいけない。巡り巡った人脈の果てには、時折とんでもない大物が潜んでいることがある。

 少なくとも、梶谷が持つ人脈の見える範囲に大物が隠れていた。


 スナッチャー。

 誰が呼んだかはわかっていないが、そう呼ばれている人間たちがいる。

 彼らスナッチャー同士には基本的に繋がりがない、いわばフリーの傭兵ではあるが、その活動は世界規模だ。

 識字率五十パーセントを切る途上国でケチな薬の売人相手に強盗する事もあれば、アメリカの大物政治家を暗殺する事さえある。

 それら全てはキャッシュを対価に依頼された犯行だ。

 まさにピンからキリの汚れ仕事人ウェットワーカー。謎に包まれた、企業連合を超える最悪の勢力。

 人の縁とは不思議なもので、梶谷はその本物のスナッチャーと交友関係があった。

 ちゃんと日本語が通じる相手だから、教授を介して話す必要もない。

 最後の別れ際に知らされた使い捨ての電話番号に発信すると、キッチリ五コールで相手は通話に出た。

「もしもし。俺だ、梶谷だ」

「久しぶりだな、センセイ。聞くところによると、成果が出てないらしいな」

 やはり、すべてお見通しか。今までの梶谷が見せた恐れるものは何もないと言わんばかりの暴れぶりは、彼のようなスナッチャーを知ってしまっているからに他ならない。

 スナッチャーを敵に回すのと比べれば、国ひとつ、組織ひとつ大したものではない。そう思うが故に、感覚が狂っていたのだ。

「そうだ、助けてくれ」

「本当にいいのか? 頼みは番号ごとに一つだけだぞ」

「どうせ、日本転覆を手伝ってくれと言っても、ダメなんだろう?」

「ダメだ。その依頼を受けてやるほど、お前さんに恩義を感じちゃいない」端正な声は淡々と言う。「出来るならせいぜい、情報ぐらいだな」

「それで構わない。実は……」

 梶谷は正直に自分の計画を告げた。スナッチャーは契約を裏切るものを決して許さない。そして、適当な嘘を言って誤魔化される相手ではないからだ。

「それ、マジで言ってる?」明らかに相手は笑っていた。「いいぜ、喜んで引き受ける」

 断られるのではと内心恐れていた梶谷は意表を突かれた。

「いいのか?」

「もちろん。田亀先輩か、最近目障りだったからな。盛大に始末してくれ」

 どうやら、田亀先輩とやらはスナッチャーさえも知る存在らしい。

 もしや、ネット上の意外な大物なのかもしれない。梶谷は調べもしていないのに期待を強めた。

「どうする? 自宅にするか、職場にするか。情報はひとつ、教えるのは一箇所だけだ」

 ケチな奴め。内心毒づきながらも、慎重に考えた。

 自宅で首を切り落としてもいいが、ややインパクトに欠ける。もし相手が天涯孤独の身の上であれば、発見も遅れる可能性がある。

 なら、職場に素早く乗り込んで、素早く首を切る。これならインパクト抜群、実力を表明出来る。

 職場ならもしいなかったとしても、そこで住所を聞き出せばいい。

「職場を頼む」

「無職なら自宅の場所教えてやるよ。少ししたらこの番号で伝える」

 こうして、世界一バカバカしい襲撃が計画されたのだった。


◇ ◇ ◇


 午後八時。

 日没を迎えた現場では緊張感の欠片さえ感じていない田畑のウシガエルが合唱を始め、撤退を中止したヘリがサーチライトで現場周辺を油断なく照らしていた。

 まだまだ、本格的な籠城戦なら事態が動くまで一週間は要することもある。この程度では姿勢を変えることさえ許されない。

 ただ、一般的な警らの婦警には七時間の監視は重荷だったらしい。婦警はすうすうと寝息を立てていた。

 眠っている人間を置いておけるほど、状況は甘くない。

「オーパルルール、こちらミョート。応答願う」

 司令部に増援を要請。警察との意思疎通は重要であり、容易ではない。

 現状この場にいる組織は警察と特警の二つだ。この二者は法律上同一の存在で、特警は警察の下部組織という事になっている。

 だが、現実は違う。

 警察には警察の指揮系統が、特警には特警の指揮系統が存在する。

 そのため、場合によっては二者間で保持する情報に差が生まれて、誤認による誤射や突入のタイミングにズレが生じることも考えられる。

 歩くのが一歩遅れるだけで最悪の結末が訪れるかもしれない。そんな危険な作戦で万全を期すためには、僅かな差すら許してはいけないのだ。


 三分後、銃器対策部隊と思われる警察官が部屋に現れた。

「ラブホで男女が何をしていたんですかねぇ」

 冗談のつもりだろうが、腹立たしいだけの下らない奴だ。

 チェルノフのタイプどころか最も嫌いな人種であるが、個人の趣味で相手を選ぶことは出来ない。

 婦警の任務を彼に継続させると、再び部屋に静寂が戻ってきた。


◇ ◇ ◇


 十二時間後……


 状況が動いた。

 チェルノフは直接見たわけではないが、空気の変化で確信した。ずっと睨んでいたこの建物の中で、何かが起きたのだ。

 銃口を巡らせて窓をしらみつぶしに調べていくと、二階の窓に赤い染みが広がった。

「こちらミョート。二階で発砲、誰か死んだかもしれない」

「オーパルルールだ、こちらでも確認している。準備しておけ」

 さすがに、これ以上の被害は容認しないだろう。チームは十分もしないうちに突入するに違いない。

 来たる射撃に備え、チェルノフはドラグノフのセーフティーを解除し、引き金に指を掛けた。これでいつでも撃つことができる。

 右目でスコープを覗き、左目は直接全体像を把握する。おかげで、わかりやすく現れた人間を目視できた。

「こちらミョート、四階に敵影補足。件のスナイパーと思われる」

 これは奇妙な偶然か、それとも必然か。現れた容疑者が持つライフルは、多洲町の無差別狙撃事件で使われたモシン・ナガンライフルだった。

 世界的には珍しくないライフルだが、日本という国ではなかなかお目にかかれない銃だ。

 スナイパーはカーテンを開くと、後ろに向けて何事か叫んだ。何を言っているのかは定かではないが、少なくともただ事ではない様子だ。

「スナイパーが射撃体勢に入る、発砲許可を」

 最初の発砲を行ったのは誰かは不明だが、少なくとも正門前の四人を転がしたのはこいつに違いない。走っている標的に当てられる程度にはいい腕をしている。このまま撃たせれば、誰かが死ぬかもしれない。チェルノフは照準をスナイパーの頭部に合わせ、指の圧力を強めた。

「こちらオーパルルール。ミョート、少し待て。チームの準備完了と同時に発砲を許可する。そちらの発砲が突入開始の合図だ」

 なら急げよ。

 意識を集中し、スナイパーの一挙手一投足に注目。少し相手が動くだけで、こちらの照準は大幅に修正しなければならない。

 スナイパーがスコープを覗いた。急げ、このままだと撃つに違いない。

 急げ、急ぐんだ。

「発砲を許可する」

 その声を聞いた途端、チェルノフはいったん息を吐き、そっと引き金を引き絞った。

 窓ガラスが砕けると同時にスナイパーの頭部は砕け散った。さらに崩れ落ちる体に向けてもう一発。

「目標排除」

「全チーム、作戦開始」

 外気がよく通るようになった窓から、戦いの気配が漂ってきた。


◇ ◇ ◇


 狙撃班の射撃と同時に、電力会社が校舎への送電を停止した。

 ジョン・ユキムラ率いるレッドチームはジープに箱乗りして中央棟南口に接近。素早く降車すると自動ドアを破壊して突入した。

「特警だ!」

 長谷川が叫びつつ、盾を前に突き出して内部へ突入する。

 一階に敵影はない。代わりに、襲撃時に射殺されたとされていた警備員の遺体が転がるばかりだった。

「突入班から司令部へ、民間人一名到着時死亡DoA

 報告しつつチームはどんどん前進し、階段を昇る。一階の制圧は後続の銃器対策部隊に任せるのだ。

 二階はほとんどが階段教室に使われている。容疑者と人質が集まるならこの部屋だけだ。

 既にブルーチームは裏口から突入しており、レッドチームと違って三階から突入する手はずとなっていた。

 階段教室は講演などに使われる都合上、防音設備が整っている。運が良ければ、容疑者が包囲されているのに気付く間もなく制圧することができる。

 階段教室のちょうど真横の扉前にたどり着いたレッドチームは、ブルーチームの到着を待つばかりとなった。

「レッド待機中。合図を待つ」

 タララタララ。上階でおもちゃのような銃声が響く中、合図をひたすら待ち続ける。

「ブルー、配置についた」

 無線機から声が流れた。さあ、ここからだ。ジョンは息を飲んで突入開始の合図を待つ。

「全チーム、突入開始」

「突入!」

 ベカエールの合図とともに、ポーターがバッテリングラムを扉に叩き付けて破壊すると、アルトゥールがナイン・バンと呼ばれる特殊な閃光手榴弾を投擲する。

 ババババババババン! 九回の炸裂を確認し、長谷川が部屋に飛び込む。銃を持っている人間は全員射殺対象だ。

 人間とは不思議な生き物で、何らかの影響で三半規管に影響が出ていると、つい立ち上がってしまう。閃光手榴弾を喰らった人間がまさにその例で、AKを持った三人が呆然と立ち尽くしているところを、ジョンが無慈悲に撃ち抜いた。

 誰一人止まることはない。座席の隙間や壇上をくまなく捜索し、武器を捨てないものは容赦なく射殺する。

 今回の作戦では容疑者が生きた状態での逮捕は困難と判断され、現場指揮官の判断で発砲が許可されていた。つまり人質と仲間の命を最優先とするジョンが指揮官なら、問答無用の射殺である。

 最初の三人とAKを抱えたままうずくまっていた二人を制圧すると、今度は人質の確保に移る。

「全員壁の前で一列に並べ! 両手は挙げたままだ!」

 容疑者が人質に混じって外に脱出。そんな事態を招かないためにも重要な儀式だ。

 人質の顔と氏名は隊員の頭に詰まっている。ひとりひとり顔を確認し、身元を照合していく。

「長谷部登志郎だな」

「はい、そうです……」

 最後の一人、四十代から五十代ほどの男だ。ジョンは背格好だけでただならぬ人物だと見抜き、警戒した。

「顔を伏せるな、顔を上げろ」

 従わない男にさらに警戒を強めたジョンは、もう一度告げた。

「顔を上げろ」

 男は僅かに首を横に振って抵抗の兆候を見せた。ジョンにはこれがこちらの呼吸を乱そうとしているように見えた。

 武器を持っていない以上、射殺は出来ない。男はそう思っていたのだろう。しかし、危険を感じていたジョンが出した答えは無慈悲だった。

 五発の銃弾が男の胸部を襲う。子供がマリオネットで遊んでいるかのように狂った踊りを披露すると、ピクリとも動かなくなった。

 この銃撃に文句を言うものは誰もいない。ジョンの判断を信じていたからだ。

 遺体となった男の顔を確認すると、ジョンは言う。

「最重要目標、梶谷康夫を発見。死亡確認キルコンファームド

 梶谷は素顔を確認せんと腕を伸ばしたところで反撃を試みようとしていたのだろうが、相手が自分の思うように法を順守すると考えてはいけないという事だ。

 そして折よく彼の懐からは一丁のマカロフ拳銃が見つかった。晴れて文句なしの正当防衛というわけだ。


◇ ◇ ◇


 現場に静寂が戻った。恐らく、向こうも終わったのだろう。

 チェルノフが引き金に込めた力を緩めるとともに、無線機から声が流れる。

「こちら司令部、作戦終了。繰り返す、作戦終了」

 ベカエールの声だ。彼がそう言うのだから、内部の制圧が終了した。即ち、自分の役割は終了という事だ。

 ドラグノフの弾倉を抜き、薬室の弾丸を排出。セーフティーを掛けると、スリングで背負う。彼は仕事が終わればすぐに帰宅するタイプなのだ。

「あの、いいですか?」

 睡眠からお目覚めの婦警が廊下で待ち伏せていた。既に自分へ向ける視線から彼女が一体何を考えているのか薄々と考えていたが、やはりあまり無下に扱うのも失礼という事で、チェルノフは応えることにした。

「なんでしょう」

「この後どうですか……えーっと」

「朝食でしょうか?」

「そう、それです! ご一緒にどうでしょう」

 時刻は午前九時。朝食にはギリギリの時間帯だろうが、デブリーフィングが早く終われば間に合うだろう。

「時間が間に合えば」

「いいお店を知ってるんです」

 さてさて、この後どうしよう。確かに女性からのお誘いはチェルノフにとって喜ばしい話だ。だが、婦警は間違いなくチェルノフに好意を抱いている。この気持ちに答えることは出来ないのだ。

 さて、自分は女性を愛することができない、というものを彼女を傷つけることなく、どのようにして伝えようかと頭を悩ませるのだった。

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