キリル・ドラゴヴィッチ・チェルノフ
前編
私立野々山学園大学。学校法人野々山学園が運営する、羅宮凪市唯一の大学である。
犯罪の坩堝と評判高い羅宮凪島の施設ではあるが、その偏差値は羅宮凪女学園からエスカレーター式に進学出来るシステムであるためか全国的に
学部は教育・経済・看護があり、外国語学部も来年度から設立される予定となっている。
つまり、この不景気の中では儲かっている方という訳だ。
綺麗なバラには裏がある。そう言いたいところだが、ここを運営する野々山家はこの島に珍しい、本当に裏のない集団だ。齢百を超えるであろう老人が全てを所有している事以外、何もかもが正常。表に出せないような顔は持っていない。
故に、この島では被害者になるしかない。羅宮凪島に存在するのは、被害者と加害者だけなのだから。
◇ ◇ ◇
二〇一八年二月二八日
愛知県羅宮凪市 負川町
住宅街は静まり返っていた。
家々の灯は消え、人々は床に就いて明日への活力を養っている。
そんな中、彼はモニターと向かい合ってキーボードを叩く。
田亀先輩@unchi,8101919
@NEETNOKUMASAN ←こいつサイコーにアホゾ
このキモヲタ君相変わらず口だけで草生えるwww
就職ぐらいして、どうぞ
←1 〆8 ☆8
穀潰之熊@NEETNOKUMASAN
@unchi,8101919 いい加減サブ垢で粘着するのやめてくれませんか?
←1 〆 ☆
田亀先輩@unchi,8101919
@NEETNOKUMASAN いやンゴwww面白いから垢消すまでしてやるンゴwww
← 〆8 ☆8
ツリッター。所謂SNSと呼ばれるインターネット上のコミュニケーションツールだ。
そして、今モニター上で繰り広げられているのはくだらないSNS上での嫌がらせ。実に不毛な戦いだ。
ブロック機能で接触を遮断されても、捨てメールアカウントで作成した別のアカウントを起動し、不快な言葉を投げかける。
彼、
呟きの先には人がいて、不快な思いをしている。こんな事を言う善人ぶった奴がいる。
しかしそんな事は百も承知。むしろ、向こう側に人がいないと言っても過言ではないbotに嫌がらせをしたところで、誰も苦しまないではないか。
田中にとっては苦しむ人間がいて反応するからこそ、嫌がらせは楽しいのだから。
向こうの反応が沈黙した。やったか?
ブラウザの更新を行うと、
@NEETNOKUMASAN が見つかりません
つまり、アカウントが削除されたという事。
「ふーん」
田中は鼻を鳴らすと、念のため事前に調べておいた相手側のメールアドレスとログインパスワードを利用し、ツリッターにログイン。そして、
穀潰之熊@NEETNOKUMASAN
@Sagisawa_Vengo 佐木沢弁護士覚悟しろ
事務所爆破したあとナイフで滅多刺しにして殺しますナリ。
ポアナリ。
← 〆15 ☆15
ツリッターはアカウントを削除しても、一ヶ月以内ならデータの復元が可能だ。
つまり、ログインに必要な情報を持ってさえいれば、削除されたアカウントの占拠が可能なのだ。
ログインパスワードを変更しておけば、あとは頃合いをみて覗けば面白い事になっているだろう。
さてこいつはしばらく置いて次へ行こう。
とはいえ、大半の標的の反応はといえばつまらないものばかり。少し突けばアカウントに鍵を掛け、外部からの接触を完全に絶ってしまう。
相手の苦しむさまが楽しいというのに、それではつまらないではないか。
なら確実に反応が望めて、冗談の通じなさそうな相手がいい。
一時間ほど考えて思い付いた。宗教だ。
神なんてものを信仰している連中だから、アホで単純な思考に違いない。少し煽れば、すぐ顔を真っ赤にしてアクションを起こすだろう。
しかし、普通の宗教の信者では面白くない。凄そうなのにしよう。
適当にそれらしいワードを使い、検索を進めていく。すると……
吉村伊助@J.ISURMU__
日本人はイスラームに対して実に不寛容だ。
学校の給食にハラールを導入しないのは嘆かわしいです。
←2 〆127 ☆212
こいつだ。田中は久々に脳髄の奥が痺れるような感触を覚えた。いじめたら、面白い反応が得られる事は間違いない。
どうやら日本人のイスラム教徒らしい。しかもプロフィール欄には何やら組織の名前を出している。こんな時間にツリッターをやっている人間なぞたかが知れるが、それに関しては田中の興味の範囲外だ。全ては、面白いかそうでないか。それだけだ。
彼の想像力で、相手が何かの組織の偉い人間であると読み解いた。
なら、こいつから騒動が波及していく可能性があるわけだ。騒ぎが大きければ大きいほど祭りは派手になり、面白くなる。やる気が湧き上がってきた。
思い立ったら早速煽り文句を考える。
イスラム教徒と言えば? 答えはシンプル、教義だ。連中はあんな紙切れと無価値な決まりに価値を見出している。
田中は心中でほくそ笑みながら叩く。
田亀先輩@unchi,8101919
@J.ISURMU__ FF外から失礼するゾ
イスラム教って虐殺奴隷なんでもありの宗教でしょ?
日本から出て行ってください(NTUY)
←1 〆2 ☆1
吉村伊助@J.ISURMU__
@unchi,8101919 それは一部の過激派が行なっている事であり、我々のような一般のイスラーム教徒は関知しない話だ。
今すぐ撤回してもらいたい。
←1 〆23 ☆41
田亀先輩@unchi,8101919
@J.ISURMU__ いやンゴwww害悪宗教が消えるまでやめる気はないンゴwww
絶滅して、どうぞ
←1 〆3 ☆
吉村伊助@J.ISURMU__
@unchi,8101919 あなたに罰が下るでしょう。
←2 〆21 ☆38
田亀先輩@unchi,8101919
@J.ISURMU__ お、ジハードしちゃう?聖戦やっちゃう?
助けて!集団ストーカーに脅迫されてます!www
←1 〆10 ☆8
しかし、このままでは無言ブロックされてしまうだろう。相手は想像以上に理知的だ、なかなか挑発に乗らない。
そこで、パソコンに最初から入っている絵描きソフトを起動した。無い絵心をフル活用し、どうにか褐色の人らしき物体を描く。
そして、呟きに添付した。
田亀先輩@unchi,8101919
@J.ISURMU__ お絵描きしてみたンゴ。見て欲しいンゴ
← 〆29 ☆46
添付された画像には、一人の人物と名が描かれている。
そう、彼はイスラム世界における最大のタブーに触れていた。
偉大な人物の名がそこにあった。
イスラム教ではあらゆる偶像の崇拝を禁じている。つまり、崇拝の対象を絵として表現する行為の禁止だ。例えば、唯一神であるアッラーはもちろん、開祖であるムハンマドの絵を描いたりするのは絶対にやってはいけない。
田中善良はイスラム教の教義に対して唾を吐いたのだ。
吉村伊助@J.ISURMU__
@unchi,8101919 あなたは最低な人ですね。
日常生活に不自由がありませんか?
←1 〆58 ☆51
田亀先輩@unchi,8101919
@J.ISURMU__ イスラム教って世界中で迫害されてるけど生きてて恥ずかしくない?まあ当然だけどwww
←1 〆22 ☆10
吉村伊助@J.ISURMU__
@unchi,8101919 何がしたいんですか? 私が何かしました?
←1 〆69 ☆68
田亀先輩@unchi,8101919
@J.ISURMU__ ただお前が目についただけナリ
← 〆 ☆
しかしこれはダメだ。まるで面白い発狂を見せる気配がない。無言ブロックよりも遥かにマシではあるが、こんな事に時間を使うのなら、他の炎上案件に茶々を入れる方が有意義というもの。
はみゅ@d824kol0jk8
@Unchi,8101919 こいつキモい
堅物陸士長@Dia_JSDF_MAN
@Unchi,8101919 そっちの方の人でも宗教を貶したりはしなかったのに
なにやってんの?
万物の理に詳しい弁護士@kihujinnnnn
@Unchi,8101919 まーた田亀君が爆発してしまったのか
汚染された鈴木大吾君@tsunami-1919
@Unchi,8101919 くっさ無能臭芋まだ生きてたのか
さっさと首吊れ
輪廻転生に詳しい弁護士@H_B_ENgo
@Unchi,8101919 これはいけない。
田亀君、宗教の真面目な信者をいじめてはいけませんを
「うるせえんだよクズどもが。やってることは一緒だろうがよ」
田中善良は嫌われ者だった。どんなコミュニティに属しても馴染めず、悪目立ちするタイプだからだ。言ってしまえば、空気が読めないのだ。
最初はカードゲームのコミュニティから始まり流れに流れ、終いには嫌がらせを生きがいとしていると言っても過言ではないコミュニティからも追放された。
現在はこうやって、フリーの
暇で暇で腹が立つ、どうしよう。
そうだ、あの弁護士をチラつかせて他人を脅迫していた絵師はどうなっているだろう。
他人への嫌がらせは彼にとっては日常。
特定してどうにかしようとしても、インターネットの閲覧にはIPアドレスを匿名化するブラウザーを使用している。現状、特定は不可能だ。
つまり、田中は何も恐れていないのだ。
インターネット上では無敵、
イスラム教への侮辱や自身への批判はすっかり忘れて、もはや焦土と化しているような炎上案件へと首を突っ込むのだった。
インターネット。今や人類とは切っても離れない強い関係が結ばれている〇と一の世界。現実ではない。
故に、究極の匿名性を持つ。これは間違いだ。
個人の言動、交友関係、投稿した画像、GPS機能、IPアドレス。適切な知識と設備と膨大な暇があれば、個人の特定は不可能ではない。
世の中にはIPアドレスを偽装できるソフトが存在するが、現代の技術は日進月歩。今年最新の技術が一年後、早ければ半年後には型落ちになることもある。
この匿名化技術を無効化する技術が完成しても、何もおかしくはない。
もしかしたらもう、どこかで実用化されているかもしれない。
◇ ◇ ◇
二〇一八年六月七日
愛知県羅宮凪市
「ここです。この部屋の窓付近から大量の硝煙反応が出ています」
日本人の婦警に案内され、チェルノフはアパートの一室にやって来た。このアパート『エレガンス多洲』は十二階建て、日本ではマンションと分類される建物だ。
この部屋は七階の七〇一号室、南側にはここより大きな建物はなく、リビングはとても日当たりがいい。
内装自体は特別凝ったものではなく、部屋中無造作に荷物が乱立しており、住人のズボラさが伺える。
しかし、この汚い部屋の景観をさらに損ねるものが南側の大窓前に置かれていた。
ダイニングに置かれるべき大きなテーブルの上に寝具である布団。異様な光景だが、少し見上げればさらに異質なものが目に入る。
布団の上に、それは転がっていた。
オーソドックスな木のストックに、長い
言うまでもない。これは遠距離に立つ物体を破壊するために作られた武器、ライフルだ。
しかも、この銃はかつてソビエト連邦が成立する前、ロシアがまだ帝国だった頃に開発されたモシン・ナガンライフルだ。
ボルトアクション式のライフルが活躍しづらくなった現代においても、民生用や資金に乏しい武装組織がこれを使っている。
今回、この銃はラッシュアワーの中で八名の死者と八十名の重傷者を作り出すために利用されていた。
事情を説明するため、少しだけ時間を遡ろう。
六月七日午前六時五十分。羅宮凪電鉄の多洲駅に向かうため、多くの人々がこのエレガンス多洲前の県道を横切る。
今日も一日、激務の始まり。
彼らがそう考えていたのかは不明だが、少なくとも最初の三人は業務から解放された。
同時に、この世からも解放されてしまったわけだが。
最初の一人は名気屋町内にある、数度労基署の注意を受けてもなお業務を改善していない、現代においては標準的な企業の会社員だった。
弾は耳の少し後ろを貫通し、その先にある脳幹を貫いた。頭脳が機能停止した彼は、横断歩道のど真ん中で崩れ落ちた。
次の二人目は女性、多洲駅前の診療所で働く看護師だった。
医療関係の仕事は激務か廃業寸前の暇な環境なのが常だが、彼女の職場は前者のタイプだ。
銃弾は横から前頭部の少し下、つまり顔面を丸ごと吹き飛ばしていた。
被弾して十分間、意識があったのかうめき声を上げていたとの証言があったが、救急隊が辿り着いた頃には死亡が確認されていた。
三人目はトラック運転手だった。
二十四時間ハンドルを握り、アクセルやブレーキを時々踏み、荷物を運ぶ。違反切符を切られたのは一度や二度ではない常習者。
彼の最期は、自身の過失なしで五人を巻き込んでしまった。
心臓を撃ち抜かれた彼は運転席で即死し、目前で倒れた二人を見て、呆然と立ち尽くしていた車列に後ろから激突した。直接トラックに潰された車の運転手は、身元の判別が困難なほど損壊していた。
死者八名のうち五名と負傷者は、この衝突によるものだ。
警察と特警は通報を受けて現場周囲を封鎖し、狙撃地点と思われるこのマンションを徹底的に捜索したが、見つかったのはもぬけの殻だったこの部屋だけ。
容疑者逃亡の原因は道路の渋滞によって封鎖と捜査が遅れた事とされているが、今それをとやかく言っても、呆れた容疑者が自首してくれるわけでもない。
とにかく、こうして八名の死者と八十名の負傷者が発生する大狙撃事件の捜査の幕が上がったのだった。
しかし、狙撃事件の捜査のノウハウが多洲町周辺の警察・特警には不足していた。
優秀な鑑識はもっとリソースを割くべき現場に回されているため、適切な人材だけでなく、捜査のための手さえ足りない。
そこで、本格的に鑑識がこの現場の捜査に移るまでの間を持たせるため、その手の知識がありそうな人間が集められた。
偶然近くでパトロール中、現場の封鎖に当たっていたチェルノフはこの捜査においては最高の人材と判断された。
確かに彼はスナイパーだが、スナイパーだからと言って狙撃犯の捜査に役立つかどうか。しかしそれはこの決定を下した警察には関係のない話だった。
彼らが最も大切にしているのは、真面目に仕事をしているというポーズだけなのだから。
まず真っ先に部屋の住民が容疑者の候補として挙げられ、警察署で事情聴取を受けているが、彼らにはアリバイがある。
二人の住民は結婚していないのに同棲している男女、いわゆる内縁関係だ。
しかし二人とも同じ職場の多忙な職であり、揃って会社で夜を明かしたと言う。
ある意味、お似合いのカップルだ。
このアリバイの証人は会社の社長除くほぼ全員。推理小説じゃあるまい、アリバイが工作や共謀である可能性は早々に切り捨てられた。
なにより、チェルノフはこの事件が単純ではあるが、少し違うベクトルのものだと踏んでいた。
根拠として、空気銃に触れたことすらないような素人が、約百メートル先を横に移動する標的に当てられるわけがないからだ。
もちろんまぐれ当たりはある。だが、現場に残された弾痕からして、容疑者は放った弾を三発全て人間の急所に命中させている。偶然にしては出来過ぎだ。
こんな偶然があるのなら、現代戦の死傷者は三倍以上に膨れ上がっているに違いない。
凶器が連射性に欠けるボルトアクション式のライフルである事も、容疑者が素人ではないと示していた。
二分間のうちに三発、それも全弾命中。このタイプのライフルの速射性は射手の技量に直結する。容疑者は自分の手の延長が如く、ライフルを扱える人間だ。
また、この見事な陣地作りは市街地を主戦場とするスナイパーと推測できた。
スナイパーに標的を正確に仕留める技術が求められるのは、一般的なイメージと同様だ。
しかし、現実にはもう二つほど必要になる。それは『発見されることなく狙撃地点を作り出す技術』と『標的が現れるまで射撃態勢のまま、数日間待ち続けられる忍耐力』だ。
特に後者は必須と言っても過言ではない。しかし、人間の集中力は平均は五十分。長くて九十分だ。半日保たせるだけでも人間業ではない。
それでもスナイパーは仕事だ。やり遂げなければならない。そこで少しでも射撃姿勢を楽にして集中力を保ちやすくするため、若干のリフォームを施すことがある。
現場に残されていた机と布団の組み合わせはその最たるものだ。ベランダの柵の上から下の道を見下ろしつつ、柔らかい布団で痛みを感じる事なく銃を構えられる。
容疑者はこの上でじっと射撃する瞬間を待ち続けていたのだ。
もちろん聞き齧った知識を模倣しているだけである可能性も捨てきれないが、これは重要なファクトである事に違いはない。
ここで一つの疑問が浮かぶ。
無差別に殺傷するにしては用意周到過ぎる。故にこの狙撃は、特定の対象を狙った計画的犯行ではないのか?
これは状況証拠から組み立てられた仮説に過ぎない。違う可能性は十二分にある。あくまで仮説だ。
無能の代名詞羅宮凪警察でも、被害者の身辺調査は済ませている。
誰からも恨まれるような経歴がない者は相当な聖人か、人付き合いが皆無な社会不適格者だ。被害者に殺されるような覚えが皆無な人間はいなかったが、その恨みを持つ者のいずれにも射撃の経験はなかった。
ざっと狙撃現場を見て判断できるのはこの程度。詳細を知るには、もっと細かい点を調べなければならないだろう。
「ライフルを調べても?」
チェルノフは婦警に尋ねた。
「多分大丈夫だと思います。どうぞ」
白い手袋を借り、古臭いライフルを手に取った。
モシン・ナガン。激動の帝政時代とソビエト時代を同志達と共に歩み続けた、ロシアを代表する小銃だ。
ソ連がアフガニスタンに侵攻した頃にはもうAK-74を制式小銃としていたが、対する
銃口は巡り巡って、かつての祖国に向けられた。これは歴史が生んだ興味深い皮肉だ。
この事件に使われた
元はロシアかポーランド辺りで民生用に使われていた中古品だろうか。手入れは行き届ている。
五発入る固定型弾倉には、まだ二発の弾が入っていた。
容疑者の気が向けば、最低でもあと二人犠牲者が増えていたというわけだ。
続いて
しかしその部分は削り取られ、全く読むことが出来なかった。劣化具合からして、最近削ったとも思えない。
そして密造品なら、そもそも削るまでもなく製造年とシリアルナンバーは刻まれていない。
つまりこれは密造銃ではなく、密輸銃というわけだ。日本警察のデータベースでこの銃の旋条痕を調べても、容疑者に繋がる証拠は出てこないに違いない。
正直なところ、チェルノフが調べられるのはここまでだ。彼の出身は警察系の部隊ではなく軍系の部隊。狙撃事件の捜査など、畑違いも甚だしい。
「チェルノフさん、これなんでしょう?」
婦警が指差した先は窓から見て左側、住民の趣味なのか、ブロックのおもちゃが並んでいた。その中でも彼女が指差したのは、並べられただけの四角いブロックだった。
他の作品はなかなかの力作だ。恐竜や飛行機を象ったもの、精巧なスターリン戦車まである。中には製作中なのか、赤い円柱が二つ横たわり、円柱に使われている同じ色のブロックが散らばっていた。
なかなかいい趣味をしているじゃないか。チェルノフは感心したが、ここで引っかかりを覚えた。婦警も同じところに気を引かれたのだろう。
この力作達の中で、唯一シンプル過ぎて面白みを感じられないオブジェクト。それがまるで主役かのように、オブジェクト群の中心に置かれていた。
その時、ピンときた。
これが趣味だ、悪いか。と住民に怒鳴られればそれまでだが、仮にも謎の人物に占拠された部屋だ。念には念を入れる必要がある。
SIU隊員に支給されているパッドを取り出すと、このブロックを撮影し、詰所に送信した。メールには『狙撃に利用された部屋の住民にこれを見せて、気になるところを聞け』と添えて。
十分ほどして、返信が来た。答えはオブジェクトと同じぐらいシンプルだった。
『中央のオブジェクトに見覚えはなく、鳥居がなくなっている。分解したり、破壊した覚えはない』との事だった。
「じゃあ、この円柱は鳥居の残骸なんですね」
ポンと手を叩きながら婦警が言う。
鳥居、日本の神社の宗教的シンボルだ。婦警曰く「人間が住む世界と神様が住む世界の境界」との事。
なぜ容疑者はわざわざ鳥居を破壊したのか。ここで一つの仮説が生まれる。
容疑者は神社、あるいは神道を嫌っている。それも、模造品でさえ許せないほどの筋金入りだ。
チェルノフは一応キリスト教徒だ。日本の八百万信仰を理解出来ない上におかしいと思ってはいるが、信仰の象徴を真似ただけのおもちゃを破壊するほどではない。
「別に嫌うほどじゃないと思うんだけどなあ」
「人の価値観は生まれた環境で大きく変わります。あなたの価値観、私の価値観、違います」
そう、相手はチェルノフや婦警と違った価値観を持つ人間だ。この価値観を解き明かせば、容疑者の全貌に近付けるかもしれない。
そうなると視線は自然とシンプルなオブジェクトに向かう。
チェルノフは改めて観察を始めた。
形状はシンプル……ではなく、壁のように見える。ブロックをただ並べ、組み立てただけ。
幼稚園児でもこんな真似はしないだろう。いや、だからこそだ。人間が完璧な形を求めるようになるのは、大抵大人になってからだ。
とはいえ、完璧な平面ではない。壁の中心には窪みが作られていたからだ。
「門……じゃありませんよね?」
「違います。壁のへこみです」
へこみ。窪み。
何かがチェルノフの脳内に引っかかっていたが、後一歩のところで歯車がかみ合わない。しかし、確実に答えの一歩手前にいるはずなのだ。
「わかりました?」
「ちょっと、あとちょっと……あー、ヒント、なにか思い付いて、簡単に答えて」
あと少し、あと少しなのだ。あと少しが繋がりさえすれば、全てのピースが繋がるのだ。
「簡単に……そうですね、色は統一されてない、とか?」
「その調子」
「じゃあ、えっと……誰も触ってないはずなのに斜めです。他のものはデスクと平行なのに」
斜め、確かに触れないようにしていたはずなのに、他のオブジェクトと比べると斜めなような気がした。
ふと気になるものがあり、パッドの方位磁石アプリを起動。オブジェクトは限りなく真東に近い東微北を向いていた。その方角にはアメリカがあるだけだ。
いや、逆ではないか。このオブジェクトの向いている方角ではなく、その向こうが肝心なのではないか。
逆方向は西微南、その方角の直線上には……
「メッカ」
「え?」
「これはミフラーブです」
「ミフラーブ?」
聞き慣れない言葉に、婦警が問いかけた。
ミフラーブとは、イスラム教における礼拝所、モスクの壁に設置される窪みだ。
イスラム教徒は聖地メッカの聖堂カアバが存在する方向『キブラ』に向け、一日五回、サラートという礼拝を行う。
ミフラーブはキブラを示す目印という事だ。
しかし彼らにとって、これはあくまでカアバの方向を示すためだけの目印であり、イスラム教的にそこまで大きな存在ではない。
偶像化を嫌うイスラム教徒が、絨毯のデザインに採用するほどなのだから。
とはいえ、これがなければモスクではないようなものだから、重要といえば重要だ。
裏を返せば、この窪みさえあるなら、そこはモスクなのだと解釈出来なくもない。
もしこの仮説が正しいのなら、容疑者はどうやってか住民の生活パターンを把握し、いないタイミングを見計らってこの部屋に潜入。
暇を持て余したのか部屋を確認し、一神教の否定そのものである神社の鳥居を発見、破壊。
さらにブロックという点に注目して礼拝のために簡易的なミフラーブを作り出した。(イスラム的には特別聖なるものではないため、比較的気軽に作ることができる。恐らく容疑者の気分か)
そして、指示を受けたのか独断かは不明だが、あのラッシュアワーの通勤者の列に対して銃撃した。
狙撃事件はこんな流れになるだろう。
「あの、つまり狙撃犯はイスラム教徒の人間ということですか?」
「可能性は高いです」
イスラム教徒と犯罪、近年の情勢であれば自然とイスラム原理主義者のテロリストに結びつく。まさに国際的犯罪組織ではないか。
「ど、どうして日本に? こんな事、今までなかったのに」
そう婦警が言い出し、発言の意味を理解したチェルノフは馬鹿馬鹿しさに吹き出しそうになった。
「今までないからといって、絶対にあり得ないことはありません」
テロリストとはいえども、所詮は人間。人間の行動を百パーセント制御、あるいは予測出来るのならば、世界の全てが変貌している事だろう。
それを可能にする量子コンピューターとやらが完成すれば、その時が来るのだろうか。チェルノフは少し考えて思考を切り替えた。現状で空想に脳内リソースを割り振る暇はない。
テロをしたことがなかったからとはいえ、日本の宗教事情を鑑みれば、いつ標的となってもおかしくなかった。大元が同じキリスト教ですら受け入れられないのだから、仏教ましてや神道なぞ大いに敵視するに違いない。
それにこちらの預かり知らぬところが原因で日本が神の敵と判断された可能性もある。
今の今まで、この国で過激派によるテロが行われなかった方が驚きなのだ。
だから「なぜなのか」ではなく、「よりによってなぜここで」と嘆いた方が正確だろう。
まあ、起きてしまった事を今さら嘆いても仕方がない。建設的な事を考えなければ。
「この仮説が正しければ、イスラム教徒ではあります。しかし、人種を特定出来たわけではありません」
「え? だって……あ、そうか。宗教がわかっただけで、別にアラブ系の人って決まったわけじゃないんだ」
日本人のイスラム教徒だっている。アラブ系のイスラム教徒全員がテロリストと言うわけではなく、むしろテロリストの方が少数派のはずなのだ。
「でも、意外と日本に詳しいですよね。鳥居が何なのか知ってるみたいですし」
そうか、それもそうだ。チェルノフも鳥居を見た事はあったが、神に関するものであると想像した事はなかった。
ただ単にチェルノフの場合であって、容疑者がそうとは限らないが、そんな見方も出来るではないか。
まとめると、容疑者はイスラム教徒の可能性が高い、日本の宗教にそれなりの知識があるかもしれない。
これらの情報は、大いに捜査の手助けになるだろう。
「これ以上調べられそうな事はなさそうですね」
「そもそも、我々鑑識ではないです。では、仕事戻りますのでお伝えておいてください」
「はい。お疲れ様でした」
ここから先はいつ来るかわからない科学捜査班に任せ、自分の仕事に戻ろう。
婦警と別れて部屋を後にした直後、チェルノフが懐のポケットに潜ませている携帯電話が震えた。
SIU隊員には通常の特警としての職務用携帯以外にも、秘匿機能付きの衛星電話が支給されている。
これを使うという事は、自分の管轄のどこかで、ロクでもないことが起こった証左である。
なに、いつもの事だ。
「もしもし」
思考を捜査から殺害に切り替え、チェルノフは問い掛けた。
◇ ◇ ◇
二〇一八年六月七日
愛知県羅宮凪市 野々山学園大学三河町キャンパス
名気屋町の西に位置する三河町。野々山学園大学はこの郊外を絵に描いたような土地に建てられていた。
キャンパスは町の中でも内陸部に位置するため、リゾート街と名高い羅宮凪島南部であっても、周辺は緑の田畑と学生寮ばかり。最寄り駅も名気屋町と遠過ぎる。車を持たない学生達は市営バスが主な移動手段だった。
正直なところ、このような事情があって土地代が安かったから、ここに大学が出来たのだ。
時刻は昼を少し過ぎた頃。
食堂やサークル室で時間を潰し終わった学生は友人達と駄弁りつつ、だらだらと講義室に向かっていた。
社会へと放り出される前の
この平和な世界に、一台のトラックが土足で踏み込んできた。
トレーラーが正門前に停車すると、大きな荷台の扉が開かれた。内部から姿を見せたのは、弾倉をしまう為のタクティカルベストを羽織り、頭部に布を巻いて人相を隠した男十名。手に握るのはAKと、カメラや照明器具。
今日の講義がなく、下校を始めていた生徒が通りすがりにギョッとしてその集団を見ると、慌てて現場を離れた。
流石に、その場に止まって様子をみようと考えた人間はいない。
そんな学生がいなくなった頃、そっと荷台から降りた者がいた。
彼はスリングで一丁の古臭いライフルを背負い、身軽な動きで集団とは別方向へ駆け出していった。
◇ ◇ ◇
学園正面の一号棟一階には、学校運営の中心部である学生課が存在する。
そこでは所属するあらゆる学生の情報が集約され、パソコンを使えば容易く生徒の情報を調べることができる。
この部屋に、突如として銃声が轟いた。発生源では警備員が仰向けに倒れ、床に赤い染みが広がり始めた。
目撃してしまった事務員が叫んだ。
「黙れ!」
そう言って現れた侵入者はAKの銃口を事務長の
「黙って従えば、危害は加えない」
「わ、わかりました」
相手の見せた理知的な様子に、長谷部は少しだけ落ち着いた。
しかし、相手がどんな人間であろうと、こんな事態は想定外だ。誰が日本の大学に武装して侵入すると考えようか。
ここにいるのは莫大な学費を浪費しに来る学生と、薄給で働く教員・事務員・警備員くらいなもの。金目のものはない。
事務長は落ち着いて状況を把握していたが、一人だけ混乱が治らずに叫ぶ女性がいた。
偶然、学生課を訪れていた生徒だ。
「黙れ! 黙れと言ってんだろうが!」
しかし、黙らない。余計に泣き喚くだけだ。
すると、事務長に宣告した男が歩み寄り、「聞き分けのない人間は社会に不要だ」三発の銃弾を頭部に浴びせ、カーペットに赤い染みと細切れ肉を撒き散らした。
冷酷過ぎる所業に、場の人間が静まり返った。もはや、泣き喚く余力さえなくなっていた。
「いいか、よく聞け。この学校に田中善良という生徒がいるな? そいつがどこにいるか調べるんだ」
事務長は困惑した。彼は数百名いる学生の全員を覚えていられるほど記憶力は良くないが、それ以前に状況の理解に苦しんだ。
なぜ武装し、人を殺してまでこの一人の生徒を探し求めるのか? 説明を得ようにも、この男の様子ではそれも望めそうにない。
パソコンを用いて田中善良の講義予定を検索すると、確かに出た。大学の二年生だ。
しかし成績が芳しくなく、講義の出席率も低い。見ただけで自主退学が予想できる生徒だった。
さて、彼の講義の予定だが。
「今日は、出席していません」
「なに? 今日、講義に出席しているはずだ」
「そうですが、前の講義には出席していないんです」
いわゆるサボりである。大学生活ではよくあることだ。
と言っても、彼らにとっては実に腹立たしい事だろう。自分達が無駄足を踏む羽目になったのだから。
「確かか?」
「そうです」
凄まれたところで、長谷部は事実を答えるより他ない。男は、しばし瞑目した。
「あの、梶谷さん?」
部下らしき男が呼び掛けた。すると、鬼のような形相で詰め寄り、銃口を向けた。
「お前は五分前に言ったことも忘れたのか、あぁ!?」
「すみません、ボス!」
答え合わせのようなものだ。先ほどの問答を聞いた者はこの男、ボスと呼ばれた男の本名は梶谷だと確信した。
舌打ちすると、梶谷は長谷部のもとに戻った。
「なら、そいつの住所は? 調べられるだろう」
「ま、待ってください」彼らがいなくなるのなら、いくらでも答えよう。「負川町五の八です」
「ありがとう」
梶谷が踵を返した。よかった、助かった。
そう思ったのもつかの間、外から銃声が轟いた。
「どうした」
梶谷がトランシーバーに問い掛けた。少しして、肩を落として再び長谷部の方を見た。
「申し訳ないが、しばらくここにいさせてもらう」
「えっ?」
「建物を閉鎖しろ。中にいる人間はホールに集めるんだ。二人一組で取り掛かれ!」
この時、長谷部は確信した。あの銃声は、学校に到着した警察やら特警に対して発砲した際のものだと。
あのまま帰ってくれそうだったのに。
彼はかつてないほど、治安維持組織を恨んだ。
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