086 一目ぼれ

「あっ、こんにちは。ゆ、郵便物です」ドアの郵便受けに手紙を入れようとしたところ、たまたま住人がドアから顔を覗かせた。

「……ありがと」外出するつもりだったのだろう、伏し目がちにぶっきらぼうに手紙を受け取るとそのままアパートから出て行った。


 郵便配達のアルバイトをしている俺はどうやらこの女性に一目ぼれしてしまったようだ。この部屋には公共料金の案内を配達する程度で、顔を見知ったのは今日が初めてだった。正直名前すら知らない。年は二十を過ぎたくらいか、目鼻立ちもしっかりしており、厚ぼったく艶やかな唇が甘い香水と共に色気を振りまいていた。ふわっと空気を含んだソフトウルフヘアーに明るい髪色がマッチしていて更に彼女の華やかさを引き立てている。ギャルのようなケバケバしさはなく、シックで上品にまとめられた服装もポイントが高い。まさに俺が思い描いている理想の女性だった。絶対に彼女をものにしたい――俺はそう思い、早速行動に移った。



 翌日俺は彼女の部屋に出向いた。といってもいきなりチャイムを鳴らす程の勇気はない。まずは存在を知ってもらう事が必要だと考えた俺は郵便受けに俺の写真を十枚程突っ込んだ。いきなり手紙をしたためるのは流石に彼女も引いてしまうが写真だけなら問題ないだろう。スマホに保存されている大量の自撮り写真の中からお気に入りを厳選してプリントアウトしたものだ。これで彼女は俺の存在を意識してくれるだろう。


 二日目は洗濯前のTシャツとパンツを突っ込む。俺の香りが感じられる最高のプレゼントだ。写真で俺を意識し始めた彼女は必ずこう思うはずだ。『このシャツとパンツは郵便配達の方のものに違いないわ! しかも、ああ、匂いまで残ってる』と。彼女にはそのままシャツを着ていただきたいが、どう使うかは彼女にあえて任せる。パンツは……想像するだけで興奮してしまうな。


 三日目はあえて試練を与えた。鼻をかんでまるめたティッシュを大量に突っ込んだのだ。流石にこれはゴミ以外の何物でもないので彼女は『なんでゴミを捨てていくの? もしかして私、嫌われちゃった?』と思い肩を落とすだろう。いや、しかし俺に恋をしているはずの彼女が喜ぶ可能性も考えられるか。まあ、落としてから持ち上げる作戦と行きたいがそれはそれで成功と言えよう。


 そして四日目の夜、俺は遂に彼女の部屋のチャイムを鳴らした。少し気が早い気もするが俺にゾッコンな彼女は絶対に喜ぶはずだ。少しクールな雰囲気を漂わせる彼女が見る見るうちに破顔していくのが目に浮かぶ。そんな事を考えている間にドアが開いた。


「こんば、ん……は?」ドアの向こうには見知らぬ男が立っていた。

「……誰? あっ!! お前は写真の!」訝しがっていた男の顔が見る間に赤く染まっていく。

「三日前から郵便受けにいたずらしてたのはてめぇだな!」言い終わると同時に男の拳が飛んでくる。咄嗟の事で避ける事も出来ず左の頬を思いっきり殴られてしまい、その拍子に外通路の手摺に体をぶつけてしまった。突然の痛みに俺は手摺にもたれたまま動けなくなった。唇に手を当てると指先が赤く滲んでいた。

「えっ、あっ……」言葉という言葉が出てこなかったが何とか単語を紡ぎ男に質問をする。「彼女、は? ……いない、んですか?」

「はあ? 彼女だぁ? 俺には彼女なんかいねえよ!」今にも殴ってきそうな雰囲気の男を見て思わず体を丸める。

「もう二度と俺の部屋に来るんじゃねぇ! 次来たら警察呼ぶからな! 早く帰れ!」男はそこまで言うとブツブツ言いながらドアを閉めた。「……ったく、空き巣といい、いたずらといい、ほんと良い事ねえな」


 ……男一人の部屋? 空き巣?


 自分のアパートに戻る最中、二つの言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。恐らく彼女は空き巣犯だったのだろう。身だしなみを整えていたのは部屋から出る際に怪しまれないようにと彼女なりに考えた方法だと思われる。それはそれで部屋に証拠を残してきそうな気がするが、そんな浅はかな考えを持つ彼女もまたかわいいと感じてしまう。ヒリヒリと痛む頬を擦りながら俺はにいと口角を持ち上げた。


 部屋に戻った俺は早速髪を撫でながら独りごちた。

「あそこは君の部屋じゃなかったんだね」

 もちろん返事はない。腐敗し始めた口は大量に突っ込まれた写真やティッシュのせいで口角から裂け始めている。着ているTシャツやパンツからは俺の匂いはせず、ツンとした死臭が染み始めていた。でも、白く澱んだ彼女の目は優しく俺を見つめている気がした。

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