13

 小高い丘の上、オレンジの屋根が目印のその教会ではこのところ、目新しいお客様の姿が見受けられるようになった。赤みがかかったやわらかなウォームブロンドの髪に深いエメラルドグリーンの瞳の持ち主の隣町に住むその青年は、なにかと評判なあの告解室でみなの話を親身に聞いてくれる牧師見習いの青年の親友なのだというのだから驚きだ。

「ねえ、彼に会ったことがあるんですよね。いったいぜんたい、彼はどんな人なのかを教えてくれませんか?」

 興味津々なようすで向けられる町の人たちからの問いかけを前に、困ったように曖昧に笑いながら彼は答える。

「ごめんなさい、僕のこの瞳はもうずいぶん前から光を捉えなくなってしまっているんです。ですので、あなたたちとおなじようにこの耳と心でしか彼の姿を捉えることはできないんです」

 すっかり恐縮してみせる人々を前に、憂いを払い去るようににっこりと笑いながら、優しい言葉は続く。

「あなたたちの思っているとおりですよ、きっと。僕の中にもあなたたちの中にもそれぞれに彼の姿はあり、彼から受け止めさせてもらえる宝物がある。それでいいじゃないですか」

 あまくすんだまなざしの奥で、幾重にも滲んだ光が乱反射する。そのやわらかなまぶしさは、言葉ではうまく伝えるすべが見つかりそうにないのだと人々は言う。

 日曜の昼下がり、閉ざされた告解室の扉の向こうからはとびっきりの弾んだ声での親しげなおしゃべりが聞こえてくる。

 扉の向こうに招き入れられているのはどうやら、隣町に住む『彼』の親友なのだそうだ。

「ねえ、彼はどんな人なんですか?」

「君の足下にいる犬のダレンが彼の正体だなんてみんながうわさしているんです。ほんとうのところはどうなんですか?」

 口々に投げかけられる問いかけを前に、にっこりと得意げに笑いながら彼は答える。

「おもしろいことを言う人がいるんですね、その才能を生かして作家を目指してみるのはいかがでしょうか」

 ベンチに腰をおろした彼の足下では、ご機嫌なようすでしっぽをまるめたダレンが時折ぴくぴくと鼻を鳴らしながら、興味深げに客人のようすを伺っているのだとか。



 人前に姿を現すことはなくとも、町の皆からの信頼と愛情を一身に背負う彼にはどうやら隣町から通う親友がいるのだという――。あらたに現れた登場人物――生まれつき光の閉ざされた世界に生きる青年の語る言葉をうけ、物語は静かに幕をおろす。

――彼らの人生はこれからもきっと続いていく、これから起こりうるあまたの困難にも打ち勝ち、いくつものおだやかで幸福な時間を積み重ねていくようにしながら。それでも、その軌跡をこうして物語という枠組みを借りて辿るのはここでいったんはおしまいだ。はればれと明るい寂しさが胸のうちを満たしていくのを感じながら、ふかぶかと息を吐き出す。

 こんな感情に襲われるのだなんて、いったいいつ以来だろうか。いつの間にか忘れかけていた色鮮やかな思いに、胸を掬われるような感慨を僕はおぼえる。

 ひとりではきっとたどり着くことの出来ない場所で、目にすることなど出来ない景色のそのはずだった。いくつもの出会いがきっと、いまこうして目の前に広がる景色を、胸のうちに広がるあまたの色彩を導いてくれたのだと、改めて深くそう感じていた。

 その中のひとつ――きっと欠くことなど出来るはずもない、おおきなピースが彼の存在だった。

 つくりもののおとぎ話が塗り替えることの出来ない過去を、いまなお目の前に立ちはだかるいくつもの困難をやすやすと塗りつぶして覆ってくれるなどとはかけらも思っていない。

 つくりものの世界はいつだってただのまやかしで、現実に立ちはだかる鬱屈から一時的に心を逸らすための逃避の場に過ぎない。

 それでも、そこに込めた願いや祈りは、現実を生きる中で向き合わざるを得ないあまたの困難を――迷いや不安に立ち向かう勇気を、閉ざされた視界を明るく照らし出すかのような希望を手渡してくれる。

 身近に出会う、親しく言葉を交わしあう人たちとはたやすく分かちあうことの出来ないいくつもの思いを運んでくれるのはいつだって、虚構の枠組みを借りて書き記された言葉だった。

 その力を何よりも信じていること、そこから手渡された大切な宝物をこれから出会えるかもしれない『誰か』へと繋いでいくことを何よりもの願いとして胸に抱いてここまで歩んできたこと。

 自らが見失いかけていたそんな思いをいまいちど取り戻させてくれたのが、彼だった。


 ねえ、この物語は君の親友になることが出来る?

 心の中でそっとそう問いかけるようにしながら壁時計へと視線をやれば、いつの間にか随分と時計の針が進んでいたことに気づく。

 ああいけない、そろそろ出かけないと。椅子の背にかけたままの上着とマフラーを手に取り、僕はそっと立ち上がる。

「やあ、」

 いつものように遠慮がちに片手をあげながら声をかければ、やわらかな笑みがそれを受け止めてくれる。

「こんにちは、めずらしいね」

「あぁ、」

 気まずさに襲われるような心地で、そっと肩をすくめる。気まぐれに顔を合わせてばかりで、こんなふうにあらたまって約束をするのはきっとはじめてのことだった。

「ごめん、きょうはちょっとだけ事情が違って―案内したいところがあるんだ、君は平気?」

「どこだろう」

 肩をすくめるようにしながら子どものように無邪気な笑顔で告げられる言葉に、心はおだやかに波立つ。

「悪いけれど、ついてきてくれる?」

「……よろこんで」

 やわらかな笑顔は、隠しきることなど出来ない迷いをただ静かに受け止めてくれる。



「わざわざごめんね、ありがとう。あまり気の利いた場所でもないから、来てもらったのも申し訳ないんだけれど」

「……そんなこと」

 ゆっくりと首を振って答えながらまなざしをそよがせるようすをぼうっと眺めるようにしていれば、ぱちぱち、と遠慮がちなまばたきとともに、ゆるやかな問いかけの言葉が投げかけられる。

「ねえ、いつもここで物語を書いているの?」

「時折外に出ることもあるけれど、ほとんどはここで」

「そうなんだ」

 ゆっくりとそよぐように動かされるまなざしは、窓際のすぐそばの特等席で悠々と陽の光を浴びる、まるでこの部屋の主のような顔をして悠々と佇む観葉植物の鉢植えを捉えると、ぴたりとその動きを止める。

 ゆるやかなカーブを描くようにしながらすらりと伸びた細身の幹の先には、美しい光沢のシャープに尖った濃い緑の葉が生い茂る。生まれ育った南国の地を遠く離れてもなお、光と水をたっぷりと全身に浴びながらいきいきと呼吸をするのびやかなその姿は、不思議なおだやかさでこの空間にとけ込んでいるかのように見える。

「知人から譲り受けたんだ。しばらくひとりで暮らすことになるんだから、誰か話し相手がいたほうが寂しくないだろうって。びっくりしたよ、部屋に着いた途端、見知らぬ同居人が出迎えてくれたんだから」

 言葉にしていきながら、ほんの数ヶ月前に過ぎ去った時間をありありと思い起こす。

 きっと思いもしなかったはずだ、彼だって――ここで物言わぬ『同居人』と出会うよりもその前に、あんなにもその後の僕の人生を揺るがしてくれる出会いがあるだなんてことを。

「優しいんだね、その人は」

「――お節介なんだ、昔からなにかと。僕がいらない心配ばかりをかけるはめになるからそうなるんだろうね」

 力なく答えれば、曖昧にくぐもった笑みはただやわらかくそれを受け入れてくれる。

「気持ちはありがたいんだけれど――正直なところ、すこし困っていて」

 眉根を下げるようにしながらじいっとこちらを見つめるまなざしをじっと見つめ返すようにしながら、そこに続く言葉を紡いでいく。

「元に居た場所に連れて帰るにはなにかとやっかいで―なんせ、この大きさだからね。だからと言って、自分で歩いて着いて来てもらうだなんてわけにはいかないでしょう? だから……頼めないかなと思ったんだ、君に。図々しいお願いなのはじゅうぶんすぎるくらいにわかっているんだけれど、それでも」

 深く澄んだ琥珀の瞳は、音も立てずにひそやかにやわらかく揺らいでみせる。

「――ごめんね、いきなり。色々考えてはみたんだけれど、それがいちばんいい気がして。迷惑なのはわかってるんだ、でも」

 射るようにまっすぐなまなざしを向けながら、きっぱりと強い意志を込めるかのような響きをたずさえた言葉が投げかけられる。

「……ねえ、名前はなんていうの?」

「フィカス・ベンジャミン」

 鉢植えの土に刺さっていた案内札に記されていたその名を告げれば、やわらかにかぶりを振るようにして、問いかけが覆い被される。

「君がつけた名前はあるのかなって」

「……考えたことがなかった」

「――そう、」

 瞳を伏せるようにしながら、しなやかな指先はやわらかな手つきで細く尖った葉の先を辿るようにする。

 ところどころに傷痕を残した、なめらかに削りあげられた彫刻のようなそれが生い茂る緑の葉を慈しむその仕草は、こわごわとした手つきでようすを見ていた自らよりもずうっと、違和感などかけらも感じさせずにしっくりと馴染んで見える。

「僕がつけてもいい? 気に入ってもらえるかはわからないけれど」

「……そんなこと」

 渦を巻くかのような迷いをかき消すようにやわらかに微笑みかけながら、彼は答える。

「ありがとう。そんな大切なことを託してくれて。すごくうれしいよ。大切に育てるね、約束するよ」

「面倒だと思わないの」

「君に嘘をつく理由なんてどこにあるの?」

 得意げに笑いかけるようにしながらきっぱりと告げられる言葉に、心は音も立てないまま、静かに打ち震える。

「手紙を書くね、彼がどんな風に過ごしているのか。それなら安心でしょう? すこしばかり景色が変わるから、きっと最初は戸惑うだろうけれど―でも大丈夫だよ、きっと。得意なんだ、心を開いてもらうことは」

 やわらかな笑顔の奥に、出会うことなど叶うはずもない無邪気な子どもの影が微かに滲んで消える。

「ありがとう――、」

 決意を込めるように、きっぱりと静かに僕は答える。

「君にずっと言わなきゃいけないと思っていたことがあって――すごく大切なことで。ほんとうに、伝えてもいいのかをずっと迷っていて、それでも」

 幾度も話伝えてきた、どこにもない思い出――ほんとうにそうならばよかったのにと何度もそう願った、はじめからどこにもいない『彼』のことを。そこに映し出していたのは、紛れもなく目の前にいる彼だったことを――すべては叶わない願いを映し出したおとぎ話で、それでもそこから、もう一度歩き出すためのすべを見つけられたことを。

「――あのね、」

 かすかに震えた指先をぐっと深く握りしめるようにして言葉を探していれば、やわらかに満ちたまなざしはじっとこちらを見つめながら、包み込むようにおだやかな言葉が手渡される。

「それがすごく苦しくて、ほんとうならずっと君の胸の中にしまっておきたいことなら無理に言わないでほしい―お願いだから」

 振り絞るように告げられる声はわずかに掠れて滲みながら、何よりもの確かな思いを届けてくれる。

「ディディ、」

 震える声でそっと名前を呼べば、答える代わりのように、まっすぐなまなざしが注がれる。息苦しいほどのそのあたたかさに飲み込まれるような心地を感じながら、ほんのわずか一瞬だけ、そっと瞼を閉じる。どうして彼はいつだってこんな風に、何よりもほしかった言葉や想いを差し出してくれるのだろうか。

 深く息を呑み、ゆっくりと静かに僕は答える。

「……ありがとう、ほんとうに」

「そう言わなきゃいけないのは僕のほうだよ」

 迷いのない言葉の奥でかすかに揺らぐ色に、胸を締め付けられるような心地を味わう。

「ねえディディ、約束をしてもいい?」

「……うん、」

 迷いを振り切るように、きっぱりと僕は答える。

「ここに帰ってくるよ、必ず。そう遠くないうちにね。もし君がここ以外の場所を選ぶのなら、その場所を訪ねさせてほしい」

 ここに止まり続けることも、君を連れ出すことも出来ない。それでも。

「君の幸福を願っている――そのことを、僕に赦してほしい」

「……そんなこと」

 困り果てたように力なく答えてくれる姿を前に、精一杯の強気な笑顔で僕は答える。

「あのねディディ――すこしだけ、君に触れても構わない?」

「――うん、」

 促されるかのように、震える指先をそっと差し伸ばす。すこしうねりのあるやわらかくなめらかな黒い髪をそっと指先で掬うようにすれば、いくつもの言葉になりようもない想いがふつふつと目覚めていくかのような心地を味わう。

 この胸のうちで、彼はどれだけの抱えきれない傷を隠し持っているのだろう―僕にはむやみにそれに触れることなど赦されるはずもなければ、それらすべてを取り除くことだってきっと出来ることもないはずだ。

 それでもきっと――彼がいつだってそうしてくれたように、僕にしか形に出来ない言葉で、伝えることの出来ない思いでそれらに寄り添うことは出来るはずだ。彼が手渡してくれる無防備なはだかの心は、いつだってそれを僕に教えてくれた。

「……懐かしいな」

 瞼を細めるようにしながら、ぽつりとおだやかに彼はささやく。

「赦されないと思ってたんだ、ずっと。こんな風に誰かとふれあうことなんて望んじゃいけない、忘れなくちゃってずっとそう思っていたんだ。どうしよう、」

 怯えながらおそるおそると触れた掌はおなじだけ、いびつに震えている。その臆病さを、ただどうしようもなくいとおしいと思う。

「―大丈夫だよ」

 いつかきっと、心から君を愛し、たがいに慈しみあうことの出来る誰かと君は出会うのだろう。だって君には、こんなにもまっすぐに目の前にいる相手をありのままに愛することが出来るなによりもの強さとやさしさ、それにありったけの勇気があるのだから。

「……ありがとう」

 ほつれた言葉とともに、おぼつかない指先がひどく遠慮がちな手つきで厚手のセーターの裾をぎゅっとつかむ。置き去りにされるのをおそれる子どものようなあやういその仕草につられるような心地で、震える掌をそっと背中へと回す。

「ありがとう、ディディ。――すごく愛してる」

 君が心から望んでいるものとおなじなのかはわからないけれど、それでも―混じりけなんてひとつもないこの気持ちは、たったひとつのかけがえのない宝物だ。

 熱くなった瞼をゆっくりと閉じるようにしながらほんのすこしだけいびつな掌に力を込めれば、言葉になりようもないいくつもの思いがぶざまにほどけては、音も立てずに静かに溶けていく。

 きっとここからは行く先もなければ果てもない、静かな波のような感情だった。手渡してしまえばそこで終わり―でもそれは、決して虚しいだけのものではない。

「どこでどんな風に生きていてもいいよ、ただ無事でいることを約束して。それだけで構わない」

 ぶざまに絡まった言葉を手渡せば、子どものように無邪気でやわらかな言葉がそこにかぶさる。

「……家族みたいだね、なんだか」

「家族にならなくたってつながりあうことは出来るよ、きっと」

 君が望む絆がそれだというのなら、誇りをもってそれを選べばいいだけだから。

「ねえアレン、じゃあ僕からもお願いをしていい?」

 いびつに震えた指先をそっと背中へと回しながら、無防備なぬくもりにくるまれた言葉が届けられる。

「……書き続けてほしい、君が出来る範囲で構わないから。すごいことだよね、たとえ離ればなれでも、僕たちがどこで生きていても、僕は君の言葉に耳を傾けることが出来る。僕に伝えるつもりがなかったこともそこにはきっと含まれているのかもしれない。それって卑怯じゃないかなっていうのもすこしだけ思うよ。でもそれがきっと君が選んだ生き方で、僕はそれを受け取ることが出来る。魔法みたいじゃない? まるで」

「……そうなのかな」

「きっとそうだよ」

 核心をこめるようにそっとそう告げながら、しなやかな指先はふわりと髪をなぞりあげる。

「不思議だよ、君がくれる言葉ならなんだって信じられる」

「こっちの台詞だよ、そんなの」

 かすかに熱く火照った瞼を細めるようにしながらじっと見つめあう。どうしてだろう、いままで出会った誰とも違うそのはずなのに―こんなにも懐かしくて、こんなにもいとおしい。

「―ありがとうディディ、ありがとう」

「うん、」

 答えながら、震えた指先はわずかに力を強める。ところどころに切り傷の浮かんだ掌が伝えてくれるあたたかなぬくもりは、せり上がるようないとおしさのかけらたちを僕に届けてくれる。

 これから先どんなことがあったって、お互いがどこにいたってきっと大丈夫、僕たちはきっと、それぞれに生きていける――静かな確信にくるまれるのを感じながら深く息を呑めば、あたたかな思いだけが胸を埋め尽くしていく。

「愛してるよ」

 力なくつぶやき、ぐっと深く息を呑む。

 この言葉の意味をこんなにも確かなものとして感じられたのは、きっといままで生きてきた中でもはじめてのことだった。



「きれいに使ってくださってありがとうございます。問題ありません」

 備え付けの家具類だけを残したがらんどうになった仮住まいを隅から隅までつぶさに観察したのちに告げられる言葉に、僕は静かにそっと胸をなで下ろす。

 衣類や生活用品のたぐいはすべて元のすみかに送り返し、視界を楽しませるためにと作業机の前に貼った写真やカードはすべて片づけていた。

 僅かばかり残された細々とした身の回りの品すべてを真新しい旅行鞄に押し込んでしまえば、できあがるのは元通りのこれから訪れる誰かを歓迎するために用意された、隙がなく整いながら、住まう人の色彩だけはきれいに欠けた部屋だ。

「ありがとうございます、ほんとうにお世話になりました」

 ぺこりと頭を下げるようにしながら答えれば、初老の紳士はにこやかな笑みでそれを受け止めてくれながら、いかにも、な整った笑顔をこちらへと向けてくれる。

「気に入っていただけましたか、この町は」

「――ええすごく、僕にはもったいないくらいです」

「よろしければまたいつでもいらしてください。移住をお考えの際にはまたご相談いただけましたら幸いです」

「頼もしいですね」

 愛想笑いで答えながら、そっと浅く息を吐く。

 遠からず、こんな日が来ることをあらかじめ知っていたはずだった。寂しいとそう想えるのは、それだけここに居場所を見つけられたあかしなのだから、決して悲しいことではないはずなのだ。

 ――頭ではいくらそうわかっていても、心の奥底に沈ませた迷いはこちらをからめ取り、息を詰まらせる。

 ぶざまに目をそらすようにするこちらを前に、遠慮がちなようすでにこやかに笑いかけながら男は尋ねる。

「ところでひとつご確認させていただきたいのですが―玄関先に鉢植えが置かれていらっしゃいましたよね。あちらのお手配はもうお済みですか?」

「――あぁ、」

 取り繕うようににこやかに笑いながら、僕は答える。

「ごめんなさい、お話していなくって。知人から餞別にと受け取ったものだったんですが、こちらで知り合った友人に引き取ってもらうことになっていて。部屋の場所は知ってくれているので、玄関の前に置いておいてくれれば引き取りに行くから、と」

「そうでしたか、失礼いたしました」

 ぺこり、とちいさく頭を下げ、老紳士は尋ねる。

「その方は、いまから?」

「――わからないです。別れはいらないと、そう言っていたので。出発の時間は告げてあるので、きょうのうちのどこかで来てくれるかとは。すみません、お手間をおかけしてしまって」

「そうでしたか」

 ちらりと、遠慮がちな一瞥を投げかけながら、おだやかな言葉は続く。

「この町を選んでくださってありがとうございました。またのご縁がありましたらご遠慮なくお申し付けください。どうかよい旅を」



「見送りには来ないでほしいんだ」

 数日前、物語の結末を手にいつもと同じように教会へと顔を出した時に告げたぶざまな『お願い』がそれだった。

「なんだか特別になってしまう気がして―そうしたくないんだ。ごめんね、おかしなことを言って」

 目を逸らしながら告げる懇願を前に、優しい言葉が静かに降りてくる。

「――わかるよ」

 ほんのひとときだけ遠慮がちに視線を投げかけながら、やわらかな口ぶりで彼は答える。

「僕が君の立場だったらきっとそうしてる気がする―お別れってきっとそういうものなんだよ。あっけなくて寂しいくらいがちょうどいいんだ」

 いかにも彼らしいとしか言えない言葉に、締め付けられるような息苦しさとあたたかさをおぼえたことを、ありありと僕は思い返す。

 幾度となく昇り降りを繰り返した階段を、一歩一歩踏みしめるようにして歩みを進めていく。肩からは、この町で新調したばかりの真新しい旅行鞄がずっしりと旅の重みを伝えてくれる。

 形に残るものがあるのはいいことだとそう思う。思い出は霞んで色褪せていくけれど、手にしたものは、静かなその存在感でこちらに寄り添い続けてくれるから。

 これがきっと最後――もしかすれば、またの機会は訪れるのかもしれないけれど。

 足に馴染んだ革靴で一歩一歩を踏みしめるように歩みを進めていれば、視界の端を見慣れた影がそうっとよぎる。

「―こんにちは。旅の方ですよね、これからお帰りですか?」

「……あぁ、」

 黒い厚手のニットカーディガンに、チャコールグレーのスタンドカラーのシャツ。首もとには深いオリーブグリーンのウールのショール。そこにいるのはおおよそ見間違うことなどあるはずもない、大切な『友だち』の姿だ。

 どこかしらかしこまったようすで静かに頭を下げるようにして、彼は答える。

「この町を離れることになった友人から頼まれごとがあったんです。大切な隣人を置いていくことになったから、よかったらその後の面倒を見てやってほしいって。それで、迎えにきたところなんです」

 まさか出くわすことになるだなんて思わなかったけれど。いたずらを企てた子どものように無邪気に笑う表情に、心はしずかにそっと波打つ。

「――ごめんね、びっくりさせたんなら。怒ってる? もしかして」

「……そんなこと」

 あるはずもないのに。とびっきりのやわらかな笑顔は、さわさわと心をくすぐるようにあたたかく心を掬ってくれる。

「ごめん、重たいよね。僕もいっしょに手伝おうか」

「いいよ、行かなきゃいけないんでしょ。そのくらい平気だよ。こう見えて力はあるんだ。下まで運べば、あとは車を出してもらうことになっているから」

「それなら――、」

 ぶん、と静かにかぶりを振り、彼は答える。

「僕がお願いしたんだ。最後にふたりで話をしたいから、その時間をちょうだいって」

 柔和なその笑顔の奥に、いくつもの言葉にならない思いが静かに溶かされているのをありありと感じる。

「ディディ――、」

 澄んだ琥珀のまなざしでじっとこちらを見つめたまま、かぶせるようにやわらかに彼は答える。

「あのね、アレン。ほんとうに、信じてほしいんだ。僕はもう大丈夫だよ、ほんとうにありがとう。数え切れないくらい感謝してる―きっと君じゃなきゃだめで、そのくらい誰よりもずっと大事で―それでも、君がちゃんと自分の道を選んでくれたことがすごくうれしいんだ。寂しいのなんてあたりまえだよ。でもその気持ちが僕の中にちゃんとあることが、僕はいま、なによりもうれしい。君に出会えてほんとうによかった。君のことがすごく大切だよ」

「……ありがとう」

 これ以上ないほどの見送りの言葉だった。何よりもほしかった大切なもの、彼の手からでないと手渡してもらえない確かなもの――『愛』とただそう呼ぶのに、相応しいだけのなにかのような。

 かすかに潤んだまなざしは、それでもじっと力強くこちらを捕らえるようにしながら、まっすぐに光輝くような確かな言葉を届けてくれる。

「お願いだから元気でいてほしいんだ。それ以上望むことなんてなにもないよ。君の人生が君のためにあればいい。僕は何よりもそれを願っている」

「……ありがとう。君に出会えてよかった、ほんとうに」

 いびつに震えた言葉と共に掌を差し出せば、あの日とおなじように、震えた指先はしっかりとこちらのそれをからめ取る。

 長くしなやかで、ところどころに切り傷を残していて―かすかに汗ばんだそれが、確かなぬくもりを携えた『大人の男』の掌であることに、僕は何よりもの安堵をおぼえる。

 膝を抱えて怯えていた子どもはもういない―いまここにこうしていてくれるのは、いくつもの過ぎ去った時間とともに、抱えきれないほどの痛みを携えたまま生き延びた『彼』だ。

 ――だから出会えた、こんな風に。

 これほど誇らしく思えることは、この世界のどこを探したってきっと見つかるはずもない。

「また来るよ、きっと。ここじゃなくたってきっと。どこだっていいんだ、君が生きていくことを選んだ場所なら」

「だったら言ってもいい? さようならじゃなくって、『行ってらっしゃい』って」

「……ありがとう、」

 声を詰まらせながら答えれば、滲んで熱くなった瞼の上を優しい指先がそっとかすめる。

「行ってらっしゃい、無事を祈ってるよ」

 ひどくありふれたはずのその言葉は、心へと落とされたその途端に、幾重にも広がるかのような色鮮やかな優しい波紋となり、あたらしい色彩を僕へと刻みつける。


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