第56話 別離
旅立ちの朝、イダンセは天高く晴れ渡っていた。
登り始めた日の光が窓から部屋の中に差し込む。その光を受けてリディは目を覚ました。
ベッドの上で大きく伸びをするとベッドがきしりと音をたてる。旅立ちに備えて昨晩早く床についたので、目覚めは良かった。
リディはベッドから降りると窓近づき、鍵を開けて開け放つ。朝の少しひやりとしたさわやかな風が部屋の中へと流れ込み、リディの横髪を揺らした。
「うむ、絶好の旅日和だな!」
朝の光を浴びた後、リディは一度一階に下りて井戸から水を汲み顔を洗った。それからチェックアウトへ向けて荷物のまとめなど旅の準備を始める。
リディがごそごそと準備をしていると、その物音でニケが目を覚ます。
「起きたか、朝食を食べたら出発だからな。ニケも準備しておいてくれ」
ニケは寝ぼけ眼のまま無言で頷くと、顔を洗うため階下へと下りていった。
ニケが戻ってくると準備はすぐに終わる。宿で使っていたあまり多くはない荷物を荷袋に詰め直すだけだ。
「朝食を食べたら出発しよう」
出発の準備が終わるとリディとニケは部屋に荷物を置いたまま食堂へと向かう。この宿での最後の食事だ。
今日のメニューはスライスされた四角いパンに目玉焼き、カリッと焼かれた薄切り肉に根野菜中心のサラダだった。
「「いただきます」」
席についた二人は手を合わせて食前の挨拶をする。
リディは目玉焼きと肉をパンに乗せると挟むように折りたたみ、昨日の魚を挟んだときのようにして食べ始める。パンを食べ進めていくと卵の黄身にあたり、半熟の黄身、カリカリの肉、しっとりとしたパンが口の中で混ざり合う。保存のために肉に付けられた強い塩気がちょうどよかった。
ニケはパンと目玉焼きと肉は別々に三角食べをするように食べすすめた。
食べ終わっていつものように食器を戻しに行くとカウンターにいたステルに話しかけられた。
「あんたら、もうすぐに出るのかい?」
「あぁ、部屋に戻って荷物を持ったらすぐに出るよ」
「そうかい。それじゃ、宿を出る時にテルモから受け取っておくれ」
「えっ」
『何を?』という前にステルは厨房へと引っ込んでしまったので、リディは疑問符を頭に浮かべながら部屋へと戻った。
「忘れ物はないか」
「うん」
部屋に戻り、支度を整え荷物を背負うと改めて部屋の中を確認する。備え付けのテーブルの上、クローゼットの中、そして念の為ベッドの下を覗き込み、置き忘れなどがないかを確認してから部屋出て、扉を閉めた。
「チェックアウトを。世話になったな」
「はーい、ってもお世話したのは宿泊期間の半分ぐらいだったけどね」
イダンセへ到着してすぐにダーロン、ルナークを回ったため、結局この宿に泊まったのは後半の5泊ほどだった。それでも食事の時や昼間リディが暇そうにしている時にテルモは気安く声をかけ、話し相手になってくれたので、泊まった期間の割には仲が深まったのではないかと思う。
「ニケ君もまたイダンセに来る機会があればウチに泊まってね」
「……うん、お金があれば」
「あはは、もし来てくれたらおまけしてあげるよ」
ニケの正直な答えに、テルモは笑ってそう返した。
「そうだ、母さんがこれ持っていけって」
そう言ってテルモが差し出したのは小さいバスケットだった。中にはいろいろな具材をパンで挟んだものがぎっしりと詰められている。
「昼食用だって、道中でたべな」
「いいのか?」
「いいよいいよ、リディさん達留守の間の部屋の手入れとか、ちょー楽だったし。まぁその浮いた手間賃だと思って受け取ってよ」
「すまない。いや、ありがとう」
「うん、うん。あっ!あんまり日持ちはしないから、今日の昼に食べちゃってね」
「わかった」
リディがバスケットを受け取ると、テルモは受付を出て宿の扉を開く。
「じゃあ、行ってくる」
「はーい、いってらっしゃ~い」
テルモはひらひらと手をリディたちを玄関先で見送ってくれた。
宿を出てアキュレティ邸に向けて大通りをひた歩く。ダーロン、ルナークへ出発する時にも見た光景だ。
「少し、日が昇るのが遅くなったか?」
夏の日が一番長くなる日はとうに過ぎている。だからリディの言う通り日の出の時間が日を追うにつれて遅くなっているのは間違いなかった。だが、その変化は1日単位で見ればごく僅かなもので、多くの人は何も感じずに日々を過ごしている。
「……そんなに変わった?」
「気づかないぐらいの変化にも気づけたほうが、なんか楽しいだろ?」
「……わかんない」
「そっか」
そんな何気ないことを話しながらリディ達はアキュレティ邸を目指して進む。リディが適当な話題を振りながら歩いていると、すぐに長い塀が見えてくる。ここ最近で何度も見た、見慣れた塀だ。
アイシスはまた門扉の前で待っていた。侍女のケイファも側に仕えている。アキュレティ邸は広い土地を有し、門扉から邸宅までもそれなりの距離がある。事件後の会議のように邸宅内に用事がある場合はアイシスも邸宅内にて待っているが、今日のように短時間で済む要件のときは、客人であるリディに足労をかけないようにというアイシスなりの配慮だ。
「……来ちゃったわね」
開口一番アイシスの口から出たのはそんな言葉だった。ひとり呟くように、リディの耳に届くか届かないかという小さい声だった。
「待たせたか?」
「待っていたのはこっちの勝手よ。気にしなくていいわ」
アイシスはいつものように気品ある態度で振る舞う。
「アイシス様は早朝から屋敷の中をウロウロとされて邪魔……もとい、使用人たちも落ち着かなかったので、『外でお待ちになっては?』と私が進言させていただいたのです」
「ちょっと!」
アイシスの侍女であるケイファが主に代わって、そう説明し、リディは穏やかに微笑んだ。
「そ、そんなことよりニケ君。はい、昨日買ったナイフよ」
アイシスは腕を伸ばして革のベルトに収められたナイフをニケに差し出す。
「ありがとう……」
ニケはアイシスから受け取ると腰にベルトを付けようと、腰回りにあてがい、体の周りを一周させる。その時に服を巻き込んでいたが気にせずベルトを締めようとした。
「少々お待ち下さい」
その様子を見てケイファはニケの前に歩み寄る。そして、ニケが巻いたベルトを一度外すとベルトに巻き込まれたニケの服を正し、改めてベルトを巻き直す。正面でバックルにベルトを通し直すと、少し抵抗があるところまでベルトを締める。
「キツくはないですか?」
「うん」
ニケの返事を聞くとケイファはツク棒を一番近いベルト穴に通してベルトを止め、ベルト周りの服の皺を直すと立ち上がってニケから離れた。
「いかがでしょうか?」
「いいんじゃないか」「かっこいいわよ」
リディとアイシスの言葉を受けながらニケは自分の腰回りを見直す。
そして、ホルダーからナイフを取り出しては仕舞うということを何度か繰り返すと、納得したように頷いた。
「えっと、ありがとう」
「えぇ、どういたしまして」
ニケのお礼をケイファは微笑みをもって返す。
「アイシスも、ありがとう」
「ピッタリあってるようでよかったわ。これで気兼ねなく旅立てるわね」
ナイフの引き渡しが終わったところで、邸宅の方から馬車がやってきた。昨日乗ったのと同じ馬車だ。アキュレティ卿が邸宅を出るのかと思い、リディとニケは道を空けるように端へと下がった。しかし、馬車は通り過ぎては行かず、アイシスの前で馬が脚を止めた。
御者が降りてきて客室の扉を開ける。
「さぁ、乗って頂戴。門のところまで送るわ」
「いや、わざわざ馬車を用意してもらわなくても……」
街の門までは少し歩くが大した距離ではない。前と同じように歩いて行くつもりだったので、馬車が用意されたことにリディは面食らった。
「リディ様、こちらの馬車はお嬢様が少しでも長くリディ様と一緒に過ごすために用意したものです。どうかアイシス様のお気持ちを汲んでいただきますよう、私からもお願い申し上げます」
ケイファはリディに向き直り、そう言って恭しく一礼した。
「ちょっと! そんなこと言ってないでしょ!」
「違うんですか?」
「ぐっ……、違わ、ないけど……」
実際にそう考えて馬車を用意したアイシスは、ケイファの言葉を否定することもできず、肯定することしかできなかった。ケイファにはアイシスの思惑など一言も伝えていなかったのに、自分の思考がバレバレなことにアイシスは苦々しさを覚える。気心の知れた侍女というものはこういう時に厄介だ。
「まぁ、そういうことなら使わせてもらうか」
せっかく用意してもらったものを無下にするのも可哀想なので、リディは馬車を使わせてもらうことにして、アイシスの頭をポンポンと撫でて馬車に乗り込んだ。
続いてニケ、アイシス、ケイファと乗り込み、4人乗りの馬車がいっぱいになると御者は扉を締め、馬車が走り出した。
馬車の中でアイシスは別れを惜しむように話題を振りまいた。リディはそれに応えるように、にこにこと笑みを浮かべて相槌を打つ。そんな二人の様子をケイファは穏やかな顔で見守っていた。
「それでね――」
しかし、楽しい時間はすぐに終わってしまう。アイシスが話を続けようとしたとき、二人の会話を遮るように馬車が止まった。
「止まってしまったな。話の続きは今度王都で聞こう」
「……王都で?」
「通うんだろう? イーリスに。待ってるからな」
アイシスにそう伝えると、リディは腰を上げて馬車を降りる。そしてニケもその後に続いて地に足を付けた。
北への門にはリディ達同様にこれから旅立つ商隊や、出発待ちをしている乗合馬車、街の外の畑に出る者など、大きい街ならではの賑わいがあった。
「じゃあ、ここで一旦お別れだな」
「必ず無事に帰るのよ」
「わかってるさ。ニケ、行こう」
「……」
別れはあっさりとしたものだった。
リディとニケががアイシスから遠ざかっていく。
「あっ、ちょっと待って。ニケ君こっち!」
歩き出した二人にアイシスが駆け寄る。アイシスはニケの腕を掴むとリディから離れたところへとニケを連れて行った。
「これだけ離れれば聞こえないかしらね」
アイシスは振り返ってリディとの距離を見る。手持ち無沙汰になったリディは、ケイファと話を始めていた。こちらに聞き耳を立てている様子はなさそうだった。
「……何?」
「あ、うん、えっと。ニケ君に伝えたいことがあって」
アイシスはニケに伝えたいことを頭の中で整理する。離れていく二人の背中を見ていたら、考えるより先に体がニケの腕を引っ張ってしまっていた。
自分はニケに何を言えばいいのか、それを考えるため自分の心の中を少し整理する。
二人に対して言いたいことは色々あった。また会いたいとか、二人といた時間が楽しかったとか、オムライスをまた一緒に食べたいとか。
――そして、本当は離れたくないとか。
でも、それは今言うべき言葉ではなかった。アイシスは自由な二人に憧れて、自由な二人を好きになったのだから。アイシスの言葉で二人を縛ることをしたくなかった。
そんな思いを巡らせてアイシスが選んだ言葉は――。
「リディを守ってあげて」
そんな言葉だった。
北の地はここよりも危険な地域だと聞いている。生息する魔獣は大型になり、高山地帯には豪魔を始めとする強大な魔獣が生息する。そして冬は極寒で雪に埋もれ、深い雪は旅人の命をたちまち奪う危険な地だ。
「この前の事件のとき、ニケ君私のことを助けてくれたでしょ」
「……うん」
「あの時の私みたいに、もしリディが危ない状況になったら。ニケ君が助けてあげてね」
アイシスはニケの手をそっと掴み、自身の両手で包んだ。
「お願い……」
「うん、わかった」
アイシスの祈るような願いに、ニケははっきりと答えた。
「ふふっ、ありがと。リディって自分からニケ君に『助けろー』とかって言わなそうだから……。ごめんね、引き止めて。さっ、戻りましょ」
アイシスは掴んでいたニケの手は離さず、今度はリディの下へ戻るためにニケの手を引っ張っていった。
アイシスとニケが戻ったとき、リディとケイファは談笑を続けていた。気づけば馬車の御者も混ざっている。アイシス達の声がリディ達には届かないように、リディ達の会話の内容もアイシスには聞こえていない。しかし、この3人が共通でできる話など、アイシスに関連したものしかない気がした。アイシスのことを小さい頃からよく知るケイファがリディに変なことを伝えていないかが、アイシスは少し気になった。
「お、もういいのか?」
「えぇ、ごめんなさいね」
「いいさ、大事なことだったんだろ?」
「えぇ、まぁ……」
アイシスとニケの会話の内容が気になっていないのか、気になっているが、あえて気にしない素振りをしているのか、リディが会話の内容について詮索することはなかった。
そして、改めて別れのときは訪れる。
「じゃあ改めて、アイシス、元気でな」
口火を切るのはリディが。
「ばいばい」
そして、ニケが小さい声で別れを告げ、小さく手を振ってそれに続く。
アイシスは言葉を発せず、ニケと同じように小さく手を振り返した。
リディとニケはアイシスに背中を向けて歩き出す。
その瞬間にアイシスの目尻から涙がこぼれ落ちた。
アイシスは声を出せないまま、アイシスの涙で歪んだ景色の中の二人はどんどん小さくなっていく。二人の背中を見つめながらアイシスはぐっと唾を飲み込み、腹に力を込めた。
「ばいばーい! 必ず無事で帰るのよ―!!」
両腕を振りながら周囲の人達がぎょっとするような大声で、アイシスは嗚咽をこらえて呼びかけた。
そして、アイシスの声に気づいたリディとニケが振り返る。
「じゃーなー!!」
リディは大声を出しながら大きく手を振り、ニケも背を伸ばすようにアイシスに向けて大きく手を振り返した。
それが、別れになった。リディとニケはまた、北へ向かう街道を歩き始め、二人が背中を向けたのを確認して、アイシスは手を振るのを止めた。下ろした腕の袖で涙をぐっと拭う。
「お嬢様、ハンカチをお使いください」
ケイファが戻ってきたアイシスにハンカチを差し出す。
「いらないわ。悲しいことはもう終わったんだもの。今日から本格的に勉強を始めないとね」
「勉強……ですか?」
「王都で会う約束をしたのに、私がイーリスに入れなかったら話にならないでしょ」
リディとは『話の続きは王都で』と約束した。それはアイシスがイーリスに入学する前提の話だ。イーリスは名門であるがゆえに求められるレベルも高い。
アイシスであれば普通に勉学に勤めていれば問題ないレベルであるが、リディとの約束で万が一にも落ちることは許されなくなった。
「さ、帰るわよケイファ」
アイシスは次の目標に向けて歩き出す。
その目にもう涙はなかった――。
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