第45話 甘味の鬼1

 明け方に降った雪が、午の陽にとかされて枝からどさりと落ちた。紅い一輪が姿を現す。

「おお、庭の梅も雪に負くることなく咲いておったか。これは重畳」

 なによりなにより、と丸い頬を緩ませて頷く男がいる。

「親分! 梅などどうでもよいから、とにかくおれの話を聞いてくれ」

「う、うむ。何度聞いても、不可解ではあるな」

 本所深川一帯を取り仕切っているやくざ・衣笠組の親分は、ひどく困惑した顔で腕組みをしていた。手炙りを引き寄せ、赤切れの出来た手を擦り合わせる。

「しかし、英次郎。かような風貌のものは『異国の人』であると、相場が決まっておるゆえ……」

「斯様なことはおれも百も承知。しかしあれは、異国の人ではない。鬼だ。絶対に、鬼なのだ」

「ううむ……」

「親分、こう見えておれはカピタンたちと親しく交わっておるゆえ、阿蘭陀人のことは多少は覚えた。ゆえに、異国の人であるならそうだとわかる」

 困ったなぁ、と、親分は声に出さずに呟いた。

 目の前にいる若者――御家人・佐々木家の次男坊英次郎が、昼日中から鬼を見たと言って譲らないのだ。


 事は半刻ほど前にさかのぼる。

 自室の縁側に置かれた盆栽の紅梅が花開き、このまま居眠りができそうなほど心地よい昼下がり、縦にも横にも大きい男――衣笠組の親分・太一郎は、大きな口をあけて好物の饅頭を勢いよく口へ放り込んだ。

 むぐむぐ、と咀嚼しながら、ここ数日はこれといった大きな諍いも騒動もないことを振り返る。のんびりと甘味を食せることを、甘味の神仏に感謝していた。

「太平の世、こうでなくてはならぬ。こうでなくては、饅頭も団子も、お絹かすていらも、あまり食べられぬからな……」

 うむうむ、と満足気に頷いた太一郎の手は、休むことなく皿と口とを往復する。

 その食べっぷりときたら見事の一言である。

 大人の握りこぶし二つ並べたほどもある大きな饅頭が、あっという間に飲み下されていく。まことに幸せそうで、その様は好物の菓子が出てきた童子そのものである。

「ああ、美味い……甘すぎぬ餡。喉越しの良さ。素材の甘みを引き立たせるのはよもぎであろうな……」

 目を閉じ、風味のみならず舌ざわり、歯ごたえ、のど越しを味わう。間違っても今日初めて食べるものではなく、ほぼ毎日のように食べている馴染みのものである。

「ああ、たまらぬ。至福のときじゃな」

「親分、もう少しゆっくり食べてくだせぇ……」

 のどに餅を詰めたら一大事です、と、いつの間にか親分のそばに来ていた若い男が大真面目に言う。見るからにやくざ者の風体だが、その手には、湯呑みと山盛りの饅頭がある。

 こちらはよもぎではなく焼き饅頭と細長い餅である。

「なんじゃ、この細長い餅は……」

「へぇ、糸切り餅のひとつ、尾張餅とか申すそうで……あっしも今日初めて見やした」

 喜一の仕事か、と、親分がにたりと笑う。手を伸ばしてあっという間に口に入れる。

「ああっ、だからゆっくり……喉に詰めたらポックリと……」

「餅がのどに詰まるとは、それはきちんと食えておらぬ証であるぞ。胃之腑まできちんと運んではじめて食したと言える。そんな悔いの残る死に方は出来ぬ」

 ずらり並んだ菓子を見詰めて、しみじみという。そんな親分を見て、別の男がどすの利いた声を出した。

「親分、本日の甘味はこれが最後となりやす」

「なっ、なんじゃと!? 喜一、それはどういうことじゃ!」

 材料が足らぬなら買いに行け、と、手文庫を手繰り寄せる親分の腕を、喜一と呼ばれた「菓子職人」がはっしと捕えた。

「蘭方医の良蘭先生と、佐々木の英次郎兄ぃに、親分に甘味をたらふく食わせてはならぬと、きつく申し渡されておりやす」

 喜一が、近頃より一層貫録を増した親分の腹回りに視線を投げた。帯が今にもちぎれそうである。

「くうっ……わしから甘味を取り上げるとは鬼じゃ、あ奴らは鬼じゃ! 退治してくれ……」

 甘味の大皿を大事そうに抱えた親分が半べそになったところへ、今度は困惑顔の中年男性がやってきた。こちらもまた顔の右半分に大きな刀傷が走っているという、悪人面である。

 手に壺を持っているところを見ると、賭場でさいころを振る稽古でもしていたのだろう。

「親分、ひどく取り乱した様子の、英次郎さまが玄関先に……」

 喜一と太一郎は、思わず顔を見合わせた。

「英次郎が、ここへ参っておるのか? 一人で?」

「へぇ」

 はて? と、太一郎は瞬きをした。

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