女の万華鏡
大谷羊太郎
第一話 浮気の証拠
残業があったとかで、文夫の帰宅は遅かった。文夫は、居間に入ってくると、通勤カバンをソファの上に投げた。妻の涼子は、文夫が上着を脱ぐのを手伝う。結婚以来七年、今夜も同じような光景になった。
「あなた、とうとう浮気がバレたわよ」
涼子は勝ち誇ったような笑いを見せて、夫に告げた。
「相手の名前もはっきりしてる。美津代さんね」
文夫がおどろいたように聞き返す。
「えっ、いきなり何を言うんだ」
「怪しいとは思ってたけど、やっと証拠がつかめたの。種明かししてあげるわね。香水よ。あなたの服やからだについているこの香水の匂いが、絶対的な証拠なの」
「なぜ、それが証拠になるんだ」
顔色を変えた夫に、涼子は笑みを送りながら説明してやった。
「先日、私、パリ旅行したでしょう。おみやげに香水をたくさん買ってきて、お友達に配ったわ。そのとき美津代さんには、特別に調合してもらった珍しい香水をあげたのよ。それが、この香水。美津代さん以外には、日本じゃだれも使ってないんじゃないのかな」
「えっ、ほんとなのかい」
「そうよ。その匂いをつけて、あなたは帰ってきた。美津代さんとの浮気が、これではっきりしたわけ」
反論できないのか、文夫は黙っていた。しかしやがて
「じゃ、今度はおれの話を聞いてくれ」と妻のほうに向き直った。
「おとといの夜、おれは早野と会って居酒屋で飲んだ。そのときのことを話そう」
早野というのは、文夫の親しい友人である。文夫が涼子に伝えたのは、つぎのような内容であった。
「実はな、早野、おれは六本木の街頭で、熱帯系の売春婦を買ってみたんだ」
「へえ、それで、どうだったんだ」
「これは妻にも内緒だがね、大変な病気をもらってしまったよ。少し日が経ってから医者に見せたら、熱帯性クラミジア感染症という珍しい病気でね、感染力が強い上、そのままにしておいたら命取りになるというんだ」
「おい、本当か、それは一大事じゃないか」
ウィスキーグラスを固く握りしめて、早野は強い口調で詰め寄った。
「いや、安心してくれ。珍しい病気なんだが、運よくその病院には、この病気の特効薬があった。これが、それなんだが」
文夫はわきに置いてあった通勤カバンから、小さな薬瓶を取り出して、早野に見せた。
「この薬を、一錠ずつ三回飲めば、まずは症状はおさまって、命は助かるそうだよ」
「ふうん。それが特効薬なのか」と、文夫が手にした薬瓶を、早野はじっと見つめた。
「これが、その夜の居酒屋で、早野とかわした会話なんだが」
涼子の表情は、さっきとは打って変わり、笑いが消えて眉が逆立っている。
「感染力の強い病気だったら、私にもうつってる。私、そんな話は聞いてない。薬ももらってない。あなた、私を殺す気なの」
文夫は、ソファの上のカバンを開け、中から小さな薬瓶を取り出した。
「これがそのとき、早野に見せたものなんだ」
ラベルも貼ってない透明な小瓶の中には、小さな白い錠剤が半分ほど入っていた。
「貸して。すぐに飲むわ」
涼子は手を出した。文夫は小さく笑った。
「その心配はないさ。これは、ただの風邪薬なんだから」
「えっ、風邪薬?」
「そう。おれはね、売春婦も買っていない。だから恐ろしい病気にもかかっていない。みんな、おれのつくり話さ」
「まあ、そうだったの。びっくりさせるわね」
涼子はホッとした表情になった。
「話はこれからだ。おれはカバンをそこに置いたまま、トイレに立った。そしてね、あとで中の錠剤を数えてみた。するとどうだ。三錠足りなかったんだよ」
話の展開の意外さに、涼子は不思議そうに文夫を見た。
「つまり、早野がこっそりこの薬を盗んだんだな。なぜ、そんなことをしなくてはならなかったのか。その理由はわかるだろう。
君は早野と浮気をしていた。だからおれの話から、早野のやつ、君が感染症にかかっていると信じて、あわてて薬を盗んだのさ。おれのわなにかかって、彼は君との浮気を告白したわけだね」
文夫は勝ち誇ったような笑いを、妻に送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます