20


 あたしは結局、ディクショナリウムが見ていた記憶をアオイさんに話してしまった。アオイさんは、最初は驚いて、だんだんと俯いていった。


「言わない方がいいって言われてたんですけど、この前の歌姫ルリハの引退発表を聞いて、あたしはどうしてもアオイさんに伝えなきゃって思ったんです……」


 アオイさんの瞳から涙が零れる。それを拭って、アオイさんは笑った。


「そっか。だから、わたしはどうしてもチョコレートのメニューをつくりたかったんですね」


 あたしはチケットを1枚取り出してテーブルに置いた。元々はアオイさんのものだった、コンサートのチケット。


「歌姫に会いに行ってください。お願いします」


 頭を下げる。

 その為にあたしはここへ来たのだ。ふたりがすれ違ったのはあたしの所為でもあるから。

 ……少しの沈黙の後、アオイさんはすっとチケットを差し戻してきた。


「せっかくここまで来てくれたけど、それはできません」

「でも」

「わたしが行っても迷惑になるだけだから。わたしはここで、彼女のこれからの幸せを願うだけです」


 迷いのない瞳でアオイさんは言う。


「たくさん夢を見させてもらったからそれで充分。ありがとう、マーナさん」



 連れて行きたいところがあるとアオイさんに言われたのは、緑の溢れる広場だった。

 中央できらきらと輝いているのはガラス張りで流線型の花瓶のような建物。屋根の部分が薔薇のようなデザインになっていて、まるで薔薇が花瓶に差してあるみたいだ。火山灰の影響なんて受けていないみたいに、光を浴びて完璧に反射している。 


「ここは『言祝ぎ姫記念館』です」


 アオイさんの説明に、え? と声を返してしまった。


「実は、言祝ぎ姫はこの街の出身なんです。偉業を記念して建てられたのだそうです」


 そんなものがあるなんて知らなかった。というか、そもそも言祝ぎ姫が南の出身だとは。

 学校の遠足の目的地にも使われる、とアオイさんが説明してくれる。入り口付近は混雑していて入場規制がかかっていた。あらかじめ入場券を買ってくれていたおかげで、当日入場券を求める行列を横目にすんなりと進んでいく。


「普段はここまで混んでいないのですが。言祝ぎ姫がテロに遭ったことを知って、皆、回復を願う為に訪れているんです」


 服の裾をぎゅっと掴む。

 それはあたしの所為だ。呑気に小包を受け取らなければこんな事態にはならなかった。


「黙っていましたけれどニュースを見たとき、皆さんのことを真っ先に心配しました。だからこうやって無事な姿を見られてほっとしています」

「あのっ、……あたしの所為なんです」

「え?」

「言祝ぎ姫も、歌姫も、あたしにさえ関わらなければ!」


 立ち止まり、視線を地面に落とす。

 愛を奪う世の中には屈さないと、歌姫は断言した。

 もしかしたらそれはあたしのことかもしれない。だって、あたしの所為でいろんなひとが苦しんでいる。

 特別な力があるとすれば、関わった人間を不幸にする力に違いない。

 ……だから、あたしは独りだったんだ。そうに違いない。


「マーナさんを見ていると、何にでもなれると思っていた、早く大人になりたかった子どもの頃の自分を思い出します」


 言葉の意味が分からず、恐る恐る顔を上げる。

 アオイさんがやわらかな微笑みを浮かべていた。ネックレスのチャームを空に翳してから、そっと握りしめる。


「わたしはマーナさんに出会えてよかったですよ」


 近づいてきて、ぽん、と背中を優しく叩いてくれるものの、素直に受け取ることはできなかった。



 記念館に入ると、外から見るより広く感じられた。筒状の吹き抜け回廊になっていてとても明るい。

 最初の通路には幼少期の画像や説明が空中ディスプレイに表示されていた。


「第一章、言祝ぎ姫の歩み……」


 見上げて声に出す。きちんと読んでみたいけれど、人の波でごった返しているし、そもそも文章が頭に入ってこない。頭のなかは、言祝ぎ姫にも来館者にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「あれ? アオイさん?」


 ぼんやりとしていたらあっという間にはぐれてしまった。きょろきょろと辺りを見渡すけど個性的な筈のアオイさんの姿は見当たらない。 

 知らないひとにぶつかって慌てて頭を下げる。

 流されるまま歩いて行く。人々の話し声がノイズのように反響している。自分がどこにいるのか、もはや曖昧になっていた。

 こんなに人間が集まっている場所なのにあたしはどうしようもなく孤独だった。

 そして。


「どうして……」


 見つけたのは、視界に入ったのは、アオイさんではなかった。


 人混みに頭ひとつ抜けた背の高い男性。

 見間違えることなんてない、長い銀髪。


 心臓が大きく跳ね上がる。全身が震える。


「どうしてこんなところに月の王が」


 人混みを無理やりかき分けて進む。途中で迷惑そうな表情をされたけど気にしていられない。今ここで月の王を見失うわけにはいかない。

 いつしか順路を逸れて、真っ白で明るい通路に出ていた。あんなに混んでいたのに、今あたしたちの周りには誰もいない。

 関係者以外立ち入り禁止の表示が目線の高さに浮いていたので立ち止まる。


「待ってくださいっ、……!」


 先を歩いていた月の王が立ち止まり、振り向いてくれた。美しい銀色がふわりと宙に舞う。

 事務所の外で再会したときと同じ、筒のような服を着ている。

 あたしの記憶のなかの月の王と完璧に一致していた。

 息を呑む。ただ、呼び止めてみたものの言葉は出てこない。話したいことも訊きたいこともたくさんあるというのに。ずっと、ずっと会いたかったひとだというのに。

 心臓の鼓動がやけに大きく、内に響いている。

 頬が熱い。頬だけじゃなくて指先もじんと熱を帯びている。だけど、恋愛の『好き』とは、違うと思う。もっと複雑。あたしだけの感情。言葉にしたいのに、適切な表現は何も思いつかない。


「大きくなりましたね」

 

 耳を澄まさないと聴き取れないような、静かな風のような声だった。


「あなたのことを、待っていました」


 口元に笑みが浮かんでいた。

 覚えてくれていたということ? 苦しさで胸がいっぱいになる。

 だからこそ、否定してほしくて問いかける。


「……あなたは、この世界の敵、なんですか?」


 言祝ぎ姫を、ニムロドを。

 破壊して、世界を混沌に陥れようとしているのは、本当なんですか?

 すると、月の王はガラス張りの通路の外へ顔を向けた。


「贋物。小箱。毒薬。それから、爆弾。これらはすべてディクショナリウムの内部破壊を治療する為の研究途中の副産物でした」


 それから、ゆっくりとあたしの方へ歩いてくる。——一秒一秒が永遠のような長い時間に思えた。

 目の前に立った月の王は、まるで初めて会ったときのように腰をかがめて目線を合わせてくれる。長い前髪の奥に、宝石のように美しい双眸が隠れていた。

 射貫かれたように動けなくなる。


「インターンを中止させてしまい、すみません。お詫びに私から、2つめの贈り物です」


 月の王は懐から1冊の書物を取り出した。


「今からインターンの続きをしましょう。これを受け取って、あなたは何を成しますか?」


 恐る恐る受け取る。分厚くて荘厳な闇色は見た目通り重たくて、あたしのバレッタの縁取りと同じようなデザインの円が表紙に刻まれていた。

 ニムロドの、大剣の柄の装飾にも、どことなく似ている。


「これはディクショナリウムの『試作品』です」

「『試作品』……?」

「使い方は、これ自身に尋ねるといいでしょう。しかし、まさか爆弾をあんな風に使われてしまったのは、私の不手際です。罰は相応に与えなければならないでしょう」


 満足したように、まるでこれが目的だったかのように、月の王はあたしから離れる。ゆっくりと通路の奥へ去って行く。

 追いかけようと思えば追いかけられる筈なのに、両足がまったく動かない。

 背を向けたまま、最後にはっきりと月の王は言った。


「あなたは、彼女を助けてください」


 そして姿が、見えなくなる。


「マーナさんっ、こんなところにいたんですね。探しましたよ」


 声をかけられてはっと我に返る。

 いつの間にかアオイさんが丸眼鏡の奥から心配そうにあたしを覗きこんでいた。


「その本、どうしたんですか?」


 気づくとあたしは両腕でしっかりと書物を抱きしめていた。


「か、借りました」


 アオイさんはきょとんとした表情であたしを見る。


「げ、言語修復士のひとがいて。勉強がんばれって」


 嘘はついていない筈。慌ててリュックにしまうと、ずっしりと肩に重みが加わった。


「流石、言祝ぎ姫記念館。そんなこともあるんですね」


 アオイさんは信じてくれたようで、しきりに感心している。

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