言祝ぎ言語修復事務所インターン記録

shinobu | 偲 凪生

皐月10日

1

 記入者:青葉あおばマーナ


 インターン初日。言祝ことほぎ言語修復事務所には初インターン生として受け入れていただき感謝しています。諸先輩方はとてもで、丁寧な指導が期待できます。これから2週間、言語修復士になる為に必要な技術を積極的に学んでいきたいです。



「着いた……」


 繁華街から1本奥に入ったところにある苔色の古びたビル。歩くこと約10分、あたしはほっと胸を撫でおろす。

 入り口の案内板に彫られているのは【3階 言祝ぎ言語修復事務所】という文字。道路から見上げてみるものの、磨りガラスの窓がきちんと閉まっていて中の雰囲気は少しも分からない。


 言祝ぎ言語修復事務所は、世界有数の言語修復事務所だ。


 成績の良さと品行方正さで特例としてインターンの受け入れをしてもらえたからには、目に見える成果を挙げなければならない。

 急に緊張してきたのか、指先が急に冷えていくのが自分でも分かる。


「大丈夫。あたしには、大きな目標があるんだから」


 己を奮い立たせる為に冷たくなりかけている両手で頬を叩いた。それから深呼吸をひとつ。

 リュックから折りたたみ鏡を取り出して見た目を確認する。

 黒のワンレンボブ、紺色の三白眼。

 頑固だと評されがちな理由のひとつでもある太い眉。

 色素の薄い唇にさくら色のリップを塗り、群青色の制服のブレザーの襟と赤いリボンが曲がっていないことを確認してから鏡をしまう。

 それからしゃがんで、白いリブソックスをぴんと伸ばし、茜色のキャンバス地のスニーカーの靴紐をきちんと結び直す。最後にプリーツスカートの埃を払って、整えた。

 吸った息を吐き出しきってから大きく吸いこむと、ビルの中へ足を踏み入れる。

 1階は駐車場で2階は空き店舗のようだ。1台の朱いスポーツカーの脇にある階段を、おそるおそる登っていく。

 3階に到着すると【言祝ぎ言語修復事務所】と掲げられた分厚い扉があたしを待っていた。外と同じで磨りガラスの窓がはめ込まれていて、やはり中を窺うことはできない。

 意を決して扉を2回ノックする。

 待つこと数秒、だけど永遠のように長く感じられた。


「はーい」


 ハスキーだけど軽妙な声が聞こえて内側から扉が開く。

 出迎えてくれたのは、20代前半くらいの男のひとだった。薄紫色のシャツと濃灰色のチノパンツの上に、言語修復士の制服である丈の長い黒衣をゆるく羽織っている。ロゴの入った白いスニーカーには汚れひとつない。

 襟元には銀色の小さなパンジーのバッジが輝いていた。言語修復士である証だ。

 さらさらの黒いマッシュヘアー。スクエアの黒眼鏡。奥のたれ目がちの瞳は菫色。

 そんな優しそうな雰囲気に安堵して強張っていた肩が下がったのは一瞬だった。


「ここは言語修復事務所だよ? お子さまが何の用だい? もしや迷子?」


 えっ、と思わず声を出してしまった。閉められそうになる扉に慌てて手をつっこむ。


「ち! が! い! ま! す!」


 それから、ありったけの大声で反論。


「今日からインターンでお世話になります! 言語修復大学校3年の! 青葉マーナです!」

「なんだって、インターン? うちでは受け入れをしていないけど……?」

「今回は特例で受け入れてもらえることになったんです!」


 いちいちしゃくに障る言い方をする男だ。第一印象は撤回する。嫌な感じ! 嫌な奴だ!

 嫌な感じの男はあたしの頭のてっぺんから爪先までを値踏みするように見渡した。そしてくるりと振り向いて奥にいる誰かに声をかけた。


「聞いてます?」


 返事はなかったけれど尋ねられた誰かが立ちあがって何かをしている物音は耳に入ってきた。書類の束をめくっているような音がして、無言のままそのひとは嫌な男に1枚の紙を手渡したようだった。


「ほんとだ。青葉マーナ、17歳。特待生につき特別にインターンを認める。へー、君ってすごいんだね」


 眉をひそめて書類を読み上げると、ぽんぽん、と嫌な感じの男はあたしの頭を軽く撫でてきた。とてつもなく不愉快だ。


「まぁ、とりあえず入ってもらおっかな。どうぞどうぞ」

「言われなくても入らせていただきます」


 あたしはずっと睨みつけていたと思うのに、嫌な感じの男は楽しそうにくすくす笑っている。


 中に入ると、薄茶色のローテーブルを挟んで左右に草色のふたり掛けソファーが2台置かれていた。きっと依頼人との面会用だろう。

 ついたて代わりなのか部屋のほぼ中央には低めの棚が設置されている。そこには小さな観葉植物とか木のカレンダー、ふしぎな置物が飾られていた。

 仕切られた奥側は事務所スペースだろうか。

 視線を遣ると、最奥の窓際のデスクで金色のツインテールをした少女が顔をデスクに乗せて眠っていた。傍らには可憐な蒼い小花が華奢な花瓶に活けてある。


「あちらが所長の『言祝ぎ姫』です」

「伝説の……!」


 資料で文字面だけは見たことがある。誰もが知っている言語修復士であり、この事務所の所長。

 分かっていたけれど実在するんだ! 興奮に胸が高鳴る。

 それから、言祝ぎ姫の左側のデスクでは、肩まで長さのあるウェービーヘアーの男のひとがあたしを見ていた。小さく会釈してくれて、金に近い茶色が揺れる。

 さっきの無言の誰かは、確実にこのひとだろう。


「所長代理で上級言語修復士の瀬谷せやホクトさんです」


 そして瀬谷さんの向かいのデスクは空席だった。

 最後に嫌な感じの男は言祝ぎ姫と対面する位置にあるデスクに右手を置き、左手は胸に当てて、わざとらしく丁寧に頭を下げてきた。


「そして僕が中級言語修復士の、みなとイノル。以上が当事務所の所員でゴザイマス」

「青葉マーナです。今日からお世話になります、えっと」


 挨拶をさせていただこうと言祝ぎ姫を見ると、湊イノルは首を横に振った。


「所長……言祝ぎ姫は基本的に寝てるから起こして挨拶をする必要はないよ。しかしどうしたものか。インターン生が来てもやることなんて特にないしなぁ。ホクトさんはインターンで何やったか覚えてます?」


 今度は瀬谷さんが首を横に振る。極端に無口のようだ。

 このふたり、バランスが悪すぎやしないか?


「ですよねー。僕もですよ」


 するとぼそぼそと瀬谷さんが呟いた。それを受けて一瞬湊は驚いた表情になったが、すぐに軽薄さを取り戻した。


「え、いいんですか? じゃあしょうがないな。ホクトさんの向かいの席を使っていいよ。特別だからね。ところでマーナちゃんはコーヒー飲める?」


「お砂糖とミルクがあれば」


 反射的に答えてしまったけれど、名前にちゃん付けで呼ばれてしまった。

 すると、湊ではなくて瀬谷さんがすっと立ちあがってあたしに近づいてくる。

 意外と背が高い。長めの前髪の下からは翡翠色をした一重の瞳が覗いていた。ボタンをきちんと留めた黒衣の下には、てろんとした生地のエメラルドグリーンのシャツと、黒いスキニーパンツが見えた。先の尖った茶色い革靴はぴかぴかに磨かれている。

 湊が敬語を使っているということは彼より歳上なんだろうけれど、それでも20代後半くらいに見える。襟元には上級言語修復士の証である金色のパンジーが光っていた。

 瀬谷さんの唇がわずかに動く。部屋の左側を指差すので視線を向けると、入ってすぐの左角に簡易キッチンがあった。

 どうやら質問主ではなく瀬谷さんがコーヒーを淹れてくれるらしい。このひとはいいひとだ。

 空いているデスクに鞄を置くと後ろの壁には扉があった。これは恐らく言語修復に関わる工房への扉だろう。事務所はだいたい工房とセットになっている。反対に向かいにある瀬谷さんの席の後ろは書類棚だった。乱雑に書類が積まれている。

 気になるのは、所長の言祝ぎ姫。すやすやと安らかな寝息を立てている。


 世界でも10人しかいない特級言語修復士、言祝ぎ姫。

 かつて、同じく特級言語修復士『月の王』と組んでこの国の再興に大きく寄与したという伝説がある。


 それが見た目だけでいえばあたしよりも幼い少女で、眠りっぱなしとは。

 言語修復大学校の資料ですら言祝ぎ姫や月の王の見た目は公表されていないので、予想外すぎて信じられない。

 部屋のなかにコーヒーの香りが充満する。瀬谷さんが無言でコーヒーをデスクにそっと置いてくれる。トレイにはお砂糖とミルクのポーションが載っていた。


「ありがとうございます。いただきます」

「ホクトさん、どうしようか」


 椅子の背もたれにだらしなく体を預けながら湊が言う。どうしようかというのはあたしの扱いについてだろう。

 面倒だという雰囲気を隠しもしないので再び湊を睨んだ。しかし彼は気にしていないようで平然とコーヒーを啜っている。


「うちがインターンを受け入れていないのは所長がこんなだからっていうの以上に、今はそんなに新規案件を受注していないからたいした学びにならないってのが大きいんだよ。仕事が山積みの事務所は腐るほどあるから、勉強したいならそっちの方が遙かにいいだろうね。ただ、普通の事務所っていっても所長は上級言語修復士だから、そういうところだとホクトさんが所長みたいな感じだし」


 だから相談しているんだよ、と説明したいらしい。

 瀬谷さんは簡易キッチンに立ったまま自分のコーヒーを淹れて飲んでいたけれど、自分の席の後ろにある書類棚を指差した。

 ぽん、と湊が両手を叩く。


「そうだね。とりあえずマーナちゃんには、あれを整頓してもらおっかな!」


 金属製のシェルフには無造作に書類が積み重なっている。整理できない人間の集合した結果と言わんばかりの乱雑さだ。


「えええ……」


 思わず変な声を出してしまう。


「大丈夫大丈夫。1日じゃ終わらないからインターンにはうってつけだよ」

「いやです。インターン中ずっと書類の整理だなんてありえません」

「だって案件がないんだもん」


 湊がのんびりとあくびをする。

 愕然とするしかなかった。なんて意識の低い! これが最高峰の言語修復事務所だっていうの?


「それがいやなら今からでも大学校に戻って違うインターン先を探すといいよ。特待生なら受け入れたい事務所はたくさんあるからね。そのまま就職先になるケースだってたくさんあるし」


 かちん。


「やってやりますよ! だけど、あたしがきちんと整理整頓できたら、あなたたちはあたしより無能ってことですね!」


 勢いよく制服の袖をまくる。こんな奴らに馬鹿にされるなんてプライドが許さない!



 数時間経って、ようやく書類の束をカテゴライズできそうな見通しが立ってきた。たとえば学会資料は年代順に。書籍は、作者の名前順にといったところか。

 あたしが格闘している間、湊は居眠りをしたり、軽薄そうに電話をかけたり、とても仕事をしているようには見えなかった。

 瀬谷さんは拡張した投影ディスプレイを見ながら、デスクの上に浮かんだ投影キーボードを叩いていた。かと思ったら、不意に立ちあがり、荷物をまとめ始めた。

 黒衣を丁寧に脱いで椅子の背もたれにかける。てろんとしたエメラルドグリーンのシャツの柄は南国で咲いていそうな大きくて白い花だった。

 金色のバッジは外して、ケースにしまって鞄に入れる。


「あ、今日はセンターでの会議の日か。そのまま直帰ですか?」


 湊の問いかけに瀬谷さんが頷く。

 視線を遣ると、きれいな翡翠色の瞳と視線が合って、ぺこりと頭を下げられた。つられてあたしも頭を下げる。

 ……瀬谷さんが退出して、あたしは眠ったままの言祝ぎ姫と仕事をしない湊のもとに置き去りにされたようになってしまった。何も喋らなくても、いてくれただけで随分雰囲気が違ったのに。


「ふぁあ」


 湊の方を見たくなかったので必死に書類を整理していたら不意にあくびが出てしまう。するとすかさず背後から声をかけてきた。


「疲れちゃった? だよねー」


 思わず振り向くといつの間にか真後ろに湊が立っていた。


「いやだなぁ、そんなに睨まなくたっていいじゃないか。せっかく別のお仕事をお願いしようと思ったのに」


 別のお仕事? すると湊はあたしの両肩を掴むとくるりと回転させて、鼻歌混じりで楽しそうにあたしを先頭にして歩き出した。


「え、ちょっと!」


 向かった先は1枚の扉。もしかして、と尋ねる間もなく湊が後ろから扉を開ける。

 一転して、そこはオフィススペースの半分くらいしかない狭くて薄暗い空間だった。


「じゃじゃーん。こちらがうちの工房でゴザイマス」

「うわぁ」


 思わず感嘆を漏らしてしまい、慌てて振り向くと湊がにやにやしていた。悔しい。

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