あなたに会いたい


 ――あなたに会いたい


 薄汚れた部屋で一人、死んだ目でベットに横たわる。意識は北西、未知数離れたあなたのとなり。xはあなたの想いでyは僕の想い。y=10ならば−1<x<1なのだろう。


 挨拶した時の笑顔が忘れられない。メールのやり取りをすることによってあの笑顔が日常の一部になると思っていた。


 きっともう、あなたは振り向いてくれない。今だってそうだ。四十八時間表示されている未読の文字が何よりの証拠である。


 僕は知らぬ間にあなたの心へ土足で入っていたのかもしれない。もしくは彼氏でもできたのだろうか。


 夏休みなんていらない。不安が積もって喉の奥に異様な塊が引っかかる。眠たいが、目を閉じたら自分を保てなくなりそうで怖い。


 天井が霞むから寝返りをうち、唇を噛み締めた。心が潰れそうな苦しさを感じる。布団の中に蹲っているのにもかかわらず、外の肌寒い空気が全身を覆い、雪こそ降っていないが心が凍っていく。


 焦燥感が返信の催促をするべきだと言う。かろうじて生きている冷静は、そんなことしたらくどい人と思われて嫌われるかもしれないよと言う。


 今すぐにでもあなたに会いたい。そうすれば、返信なんて待たなくても答えが返ってくるから。そしてあわよくば、あの笑顔をもう一度見たい。純粋無垢な満面の笑み。汚れてしまった僕には眩しすぎるあの笑顔を、もう見ることはできないのかな……。


 たった二日間でも待ちきれずこんなにも憔悴してしまう僕が、あの笑顔を見ずに何日生き延びることができるだろうか。水すらも喉を通していないので、明日が限度だろうか。


 深くなっていく闇にいっそのこと目を瞑りたくなる。楽になりたい。それは甘えである。一時的に逃げることができるだけで、絶望が再度襲って来た時が寿命となる。


 一秒でも長く生きて可能性を信じることこそが僕の救われる唯一の確率。


 ここまで大袈裟な話をしておいてメールの内容のつまらなさに呆れる。内容について言い訳を並べて自分を肯定しつつ、膨らむ妄想が自らの首を絞めた。


 空想の中でひたすら過去に縋って現状をすり潰し、ご都合解釈を水で溶かして飲む。当たり前だが程良い甘さが口内に広がり幸福感に支配される。


 どう足掻いたって夜を超えることはできないが、明日なんていらない。ずっと今日がいい。そうであれば、無限の可能性を持ち続けることができる。


 心の奥底にある深い青を洗い流せたら闇夜に溶けることもないだろうに。しかし、僕自身が洗い流す方法はない。他力本願であるしかないのだ。


 言葉にできない感情なのに、こんな長々と文字にできるんだ。馬鹿みたい。


 深淵を知る者に問う。いっそのこと落ちてしまえば楽なのではないかと。苦しいなら逃げてしまえばいいのだと。そうして、マイナスになった気持ちをゼロに戻してしまえばいい。言うは易く行うは難しってか。


 なんならやってやろうじゃないか。何万、何十万の自殺志願者が成し得なかったことを。そして、やつらに苦しさの本意と限度というものを知らしめよう。


 さて、ベットから起き上がり部屋を出て玄関で草履を履き、家を出た。月光と街灯と店明かりに染められた街路を重い足取りで進む。漸次、心中が鬱鬱として黒いエネルギーが増幅し、視界も段々と通行人を映さなくなる。そして、たまに吹く風がなんだか痛い。


 ネオンで彩られた看板の数々を横目で一瞥し、鬱積していく。楽しそうな男女の笑い声と洒落た音楽が夜空に舞い上がる。どうしてこうも幸せそうな人がいるのだろうか。僕はこんなにも苦しんでいるのに。


 鬱憤を晴らすように彼らのことを罵倒した。思いつく限りの非を挙げ、少しばかり満足してしまった。自分の気持ちがガラクタ同然の価値しかないのかと呆れる。僕は世界にとってその程度なのだろうか。モブBにすらなれるか怪しいところ。


 階段を踏み締める音が虚空に消えていく。高層マンションの十階まで登り、行き先を見下ろす。何の変哲もない駐車場が広がっている。僅かに息を呑んだ。この一線を飛び越えればゼロは待っている。


 しかし、脳内シミュレーションをする度に自殺願望が薄れていく気がした。恐怖とはまたちょっと違う。まさかここまで来て僅かな可能性を信じているとは思わなかった。なんせ、スマホをしっかりと握っていたのだから。自殺にスマホなんていらないのに、だ。


 何度自分に呆れたらいいのだろうか。三度目の正直という言葉を信じるならばあと一回。


 覚悟を決めたはずなのに。僕は所詮数十万の内の一人に過ぎないのだろうか。きっとそうなのだろう。


 緩んだ心を刺激するようにスマホが鳴る。友達のくだらないメールだと自分に言い聞かせたが興味には勝てなかった。絶望した時のことも考えずにスマホを開き、メールの差出人を確認する。




 思わず出そうになった声を殺す。







 ――彼女であった。







 まだ信用はできない。メールの内容によっては――もう冷静ではなかった。考えに反して指は画面をタッチし、メールの内容が表示される。




『待って!』




 その言葉の意味を何度も咀嚼する。しかし、僕の送ったメールの返事としては不適切すぎる。それとも返事を待ってほしいということなのだろうか。




 勢いよく階段を駆け上がる音。荒い息に名前を呼ぶ声。覚えのある香水の香り。振り返る。――膝に手を当てて肩を上下させる女性がいた。


 前に垂れて体と共に揺れる長い髪と華奢な体つき。まさかと思った。しかし、そのまさかであった。


 女性が顔を上げ、その顔が露わになると、僕の胸は吐きそうなほどに締め付けられる。


 曇った表情ではあるものの、あの笑顔を彷彿させるには十分であった。


 心拍数が上昇し、目を何度も疑い、全身が震える。急に冷静っぽくなった頭はこの場からの逃走を図ったのだが、体と心はそれぞれ別のことを考えていた。


 三位分体。自分が自分でなくなる。三方向に引っ張られ今にも自分という存在が引きちぎれそうだ。でも、落ちるという選択肢は不思議となかった。


 羞恥が芽生えた頃には何時間経過していただろうか。彼女の息は整っていて、僕に何かを語りかけていた。いや、もしかすると尋問を受けたのかもしれない。記憶は曖昧だが、それらしい言い訳で自尊心の防衛を試みた。おおよそ失敗していたに違いない。だから今、こうやって僕は彼女に肯定されているのだろう。こうやって慰められているのだろう。こうやって謝られているのだろう。こうやって、こうやって、こうやって……。


 そうして僕は彼女の温もりを全身に感じ、幸せをすり潰しそうなほど噛んで噛んで噛んで……。


 僕はプライドの高い子供のように声を押し殺して泣いていた。それも彼女の胸の内で。


 ――君に会いたかった

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