春でよかった
雨は私の気持ち一つすらも洗い流してくれないから、灰にも等しい。傘を差しても心は灰色で濡れる。脳裏には逆光で顔がはっきりしない元カレが映る。
少しずつ気温が下がるのを感じていたのに永遠を信じた。友達でいたい私に手を振って一途を誓った。幸せと悲しみを呪った。自分に絶望した。後悔した。
牛乳の後味、湿った臭い、騒がしい雨音、濡れた爪先、落ちる目。どれだって私の原動力だ。全てが鬱々としているからこその決意なんだよ。
この朝だって、過去の自分が覚悟した未来で、もうすぐ消化し終えるの。いつかの約束は昇華してしまって、今となっては掴めない。燃え滾る愛の炎は涙によって消火された。
狂ったように点滅する青信号、それから愛おしい電車の走り去る音と残響に心が絆される。赤に変わった信号が轢死を誘い、未来を予言している。
同じ制服を着た人たちがどこか重たい足取りで反対方向へ行く。私は学校へ行くつもりなんてない。未練を拗らせたことがいけなかったのだろうけど、全部全部あなたのせい。
閑散とした敷地に入り、目的の場所で足を止める。地べたから這い上がるように目を上げていく。スカートと膝を曲げて腰を深く下ろした。髪と雨水と……。邪魔される。阻まれる。隔たり。どれも違う気がする。
伝えたいことしかないのに。口は開いていたのに。喉に餅が詰まったみたいに苦しくて声が出なかった。
最後の「またね」という一言がどれだけ私の救いになったと思う? 少なくとも明け方を見ずに済んだよ。
その時、あなたが魔法使いじゃないかって思ったの。あの一言が呪文で、別れ際の手を振る動作が魔法の発動。忽ち私はファンタジーに溺れる。
そして、目を覚まそうと自身を殺すと、没個性が出来上がるわけだ。あんなにキラキラしていた私が思い出の塊――卒業アルバム――を抱いて枕を濡らし、ベッドに沈んだ昨日はあなたのせい。
全てを忘れたい。それなのに、いつの日か、この日々を忘れてのうのうと生きている自分を想像するとムカつく。それ以前に忘れられるかどうか……。自信皆無。残滓満載。
網膜も鼓膜も破りたいという鬱憤はあなたで晴らすことができたはず。いや、できる。直接会いたい。会えるのならば。私はまたしても愚かな願いに身を委ねる。
陶酔も心酔も行き場を失って寂しく泣いている。生きる糧も今となってはもうない。私の心身ともに貪り尽くされたから。
笑って目が細くなった表情が一瞬見えた。しかし、すぐに雨粒の乗ったビニールに隠れた。恋心と同じくらい内気である。
闇が深まったのと涙が高画質レンズの代わりになったことにより、星が美しく鮮明に映った日のこと。「ふたりきりになれるところに行きたいね」そんな恋人関係の黎明期に言った願いを心中に三つ準備して。流れ星を期待して。オールして――
そろそろ。もう、これ以上話したらきりがないし、彼の残り香もみつかりそうにない。だから、ゆっくり膝を伸ばす。
「これが最後になるのかな? 会えたら後で」
墓石に向かって手を合わせ、去り際には見よう見まねで魔法を使った。
「またね」
駅に向かって歩く。ひたすら歩き、水溜りを踏んで思い出が弾けて溢れ出す……。雨音が休日の喧騒に変わろうとしていた。
恋の終わりと憂が写真を燃やしていく。彼を追慕することは許されないの? 神様なんて理不尽なことを押し付けているだけ。信じていた私が馬鹿みたい。願えば私でも神様になれるのかな……なんてね。冗談だよ。
神様でなくとも、私は知っている。彼が最後の最後まで私を想っていたこと。彼に余命があったことを。
彼は私を悲しませたくなかったから別れようと切り出してきたのだろうか。そんなの、私の意見が無視されているようで嫌だ。私は最後の最後まで寄り添っていたかった。愛を伝えたかった。愛を……愛をっ……!
落涙して口に力が入る。頬が痒い。結局、何も言えなかった私は春風に溶けるCO2。
遠くからお迎えがやって来る。風と共に騒音を連れて勢いよくやってきた。遮断桿は降り、赤の信号と警音が目まぐるしく回る。
もう傘なんか必要ない。体も心も過去も未来も人生も。
「私たちどこにも行けずに死ぬかもね」
人生の卒業式。生きた証は安い石でいいから、野次馬ではなく彼に包まれて祝ってもらうのだ。
傘は四時の方角へ捨て、体は線路に投げ出す。安堵と希望で胸はいっぱいになっている。風で髪とスカートが激しく揺れる。第三者の奇声と電車の勢いに目を瞑る。彼の元へ。ふたりきりのところへ。
ぐしゃぐしゃの顔は雨のせいだ。傷だらけの体は電車に轢かれたせいだ。出会いと別れはいい口実。何もかもが終わって新しいが始まる春でよかった。
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