25. 院

 いつもは機械の群れでごった返している狭苦しいイーライの部屋に、カーテンの隙間から漏れた光の筋が差し込んでいた。この部屋が、こんなにも安心で満ちているのは初めてだ。最早廃墟の防御壁は完全に陥落して、外界へむき出しの状態になっているだろうし、現在外がどうなっているかを確認する術はもう存在しないが、この部屋が地上で唯一安らげる場所のような気がした。

 イーライはオフィスチェアに腰を下ろし、俺は向かいのソファに身を沈める。これで後は、刑務所送りになるか団地送りとなるか、どちらにせよ待つばかりの身となった。それが数分後なのか、それとも数年先の話なのかは分からないが、今は静かにこうしていようと思う。

「なあイーライ、タバコある?」

 同居人は黙って散らかった机の上を探って、ぐにゃぐにゃに折れたタバコを一本、ライターと共に投げて寄越した。ライターのオイルもほとんど切れかけていたが、やっとの思いで火をつけて、心行くまで煙を楽しんだ。ここでこうして喫むタバコも、これで最後になるかもしれない――そんな言葉が頭をよぎったが、それに対して寂しいだとか、悲しいだとかは思わなかった。強いて言うなら、ここへ来る前に夢見ていたような非日常をもう少し送ってみたかった、という事がちょっと悔やまれる……という事ぐらいかもしれない。

「……ごめんな」

 まるで独り言の様に呟き、誰とも目線を合わせたくないかのように俯く。あまりにも微かな声だったから聞き流してしまいそうになった。

「え?何が」

「今回の事。本当なら、俺とあいつだけの問題だったのに」

 あの路地裏でのジャックとの映話とまるきり同じ事を言っているじゃないか。なのにその言葉に含まれる感情は、明らかにそいつとは真逆だ。

「そういや、ジャックってのは一体何者なんだよ」

 朝はその場の流れに抗えずに聞き出すタイミングが無かったが、今なら存分に話す時間がある筈だ。もう言い逃れはさせない。そんな俺の気迫を感じてか、イーライも観念したように語り始めた。その、"ジャック・ベレスフォード"との因縁を。

 ファミリーネームこそは一緒だが、イーライとジャックに血の繋がりは一滴たりとも無いらしい。では何故同じ名前を名乗っているのか、これにはちょっとした訳がある。

 イーライは一時、「院」と呼ばれる施設で生活していた事があるという。そこでの暮らしは案外不自由のないもので、イーライの他にも男女問わず多くの子供が暮らしていた。そしてその内の一人に、イーライより少し年上の"ジャック"と名付けられた少年もいて、当時世話好きだと言われていた彼はよくイーライの事も気に掛けてくれていたらしい。

 子供たちは院内で自由に遊び、食べ、眠る事が出来たが、守るべきルールが二つ程あった。一つは、「院」では院長から付けられる名前に加えて、自身の姓を「ベレスフォード」とする事。もう一つは、院内で施される教育を決して拒否しない事。そこでは、一般的な五教科は勿論の事、特に熱心に教えられたのは、ありとあらゆるコンピューターの扱い方について。だからこそイーライはこうして機械に滅法強いのだ。

 院内で安全な暮らしを続けたければ、とにかく熱心に勉強に打ち込むより他無かったという。何故なら、知識の吸収が悪い子供は、他の皆が気が付かない内に「消えて」しまうからだ。一体いつ、どのようにして消えてしまうのか、そして消えた子供がどうなるのかは、イーライが院を出て行く最後の時まで分からなかった。

 イーライの成績は院で暮らしていくには問題無かったものの、次第に授業の内容が専門的になっていくにつれて、ジャックの成績が落ち始める。それに伴って持ち前の明るさも失っていき、やがて話す機会も減って、気が付いた時には既に消えていたという。

 なるほど、イーライのある程度の過去とジャックについては、まあ理解できた。しかし、ジャックがいつの間にか消えてしまった事と、彼がイーライに恨みをもって復讐を仕掛けて来た事、一体何の関係があるというのだろう。

 しかし同居人は、それ以上過去について話す気にはなれないらしい。代わりに再び、

「ごめんな、ジョン」

と呟くと、とうとう完全に顔を伏せてしまった。この世の果てのように穏やかな部屋の中を、俺のタバコの煙がのんびりと漂っている。

「イーライ。あれ、覚えてる?」

 完全とは言い難いが、今や俺の脳内で、ある程度のアクセスが自由となった過去の記憶の一つを引っ張り出す。あれは、二人――エドはその日は一緒に遊べなかった――で冒険ごっこをしていた時の事だ。近所の森の中を二人で歩いていると、川が俺達の行く手に現われた。イーライは確か引き返すべきだと提案したが、俺は意地になって「川を泳いで横断する」と、宣言し、本当にそこへ飛び込んだんだ。別にそこまで流れも速くないし、水深も大したものでは無かった筈だが、水を吸い込んだ服の重さに狼狽えて、危うく溺れかける所だった。何故こうして今も生きているのかというと、イーライがその時川へ飛び込んで、俺を捕まえてくれてからだ。命からがら陸地に上がった後、まだ続く恐怖と、何が起こったのかを把握しきれていない中、俺は身勝手にも泣き喚いていた。でも、イーライは辛抱強く、ずっと傍で俺を慰め続けていた。

「……ああ、そんな事もあったな。お前はあの後泣き疲れて、小一時間目を覚まさなかったんだぜ」

 イーライは少し顔を上げて、薄く笑う。

「……それは知らなかったな。まあ、ともかく、俺の言いたい事、分かるだろ」

 黒いサングラス越しに俺を眺めながら、真意を掴み損ねてきょとんとしている。俺よりも遥かに頭がいい癖に、こういう時だけ非常に鈍い。

「だから。その、つまり……」

 イーライがここで察して口を挟んでくれないかと期待したが、変な沈黙が下りて来ただけだった。……柄じゃないから、こういう事はあまり口にしたくなかったのだが。

「あの時と比べりゃ、今回のは大した事ねえよ。……だから、気にしなくて、いい」

 「相手を慰める」なんて高等技術は持ち合わせていないから、我ながら自分らしくない言葉に反吐が出そうだ。いっそ一思いに殺してほしい。

 しかしイーライは俺を殺すどころか、声を立てて笑い始めた――それはまさしく、俺達がこの廃墟で「初めて」会った時の笑顔そのもの。まるで「心の底から嬉しい」と思っている事を、惜しげなく辺りに発散しているかのような、そんな笑顔。

 俺達三人が離ればなれになってから、イーライが一体どんな道を歩んできたのかは分からない。それでも今なら、これだけは確実に分かる――イーライは楽しかったあの頃の全てをずっと覚えていて、それで自分を励ましながら生きて来たんだ。だからエドの事も分かったし、俺の事も「見つけられた」と言ったんだろう。そして、心の奥底では、それは二度と叶わない望みだと知りながら、再び、三人で一緒になれる日をずっと待っていたに違いない。

「ありがとう、ジョン。ありがとう」

 小さな声だったが、俺にはちゃんと聞こえた。イーライは照れ臭そうにはにかんでいる。そして今、俺もこいつと同じような顔をしているに違いない。

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