第3話 自由と、平和と、パンケーキ

エカテリーナ・バラシオンという女性……いや少女と、この少女が暮らす世界についてを、前世異世界人たる草壁千早の目線で順を追って理解することにした。


なにせこの世界、エカテリーナことカーチャはともかくとして、やはり千早としては異世界ということもあり非常に興味深いものがある。


まず初めに私は非常に恵まれた境遇の生まれだ。というのは千早目線から。


カーチャは世界主要大陸の一つ、帝国主義による覇権争いの絶えない国家群が乱立するサバーニャ大陸において、大陸のほぼ半分を領土として掌握する大国ドルネシア帝国の生まれ。


それも、ただ大国に生まれたのではなく、第17代皇帝ドミニク・バラシオンの第二子としてこの世に生を受けた。


皇帝の娘、それも大陸での覇権国家の国家元首の娘だ。これを恵まれていないとは言えないだろう。


前世の私の生まれときたら、東京都北区などという「名前は聞いたことあるけどよく知らないところ」程度の認識しかないであろう地区の、これまた殆ど誰も知らないであろう赤羽台という町。


特段貧乏していた訳でもないけど、飛び切り贅沢な暮らしが出来るほど豊かではない一般家庭で育った私は、子供の時から超金持ちに憧れては、額面上の世帯年収だけを見る分には悪くない両親に少し失望したりしていた。


しかして今は超を超えて超絶金持ちの子供だ。だって親は皇帝だもの。国家予算がそのままお家のお金ではないものの、そこは帝国主義時代であり、植民地主義時代の国家。


繰り返された領土拡張、植民地獲得競争で得た莫大な富は国も、皇帝の一族をも豊かにする。


国は豊かでも指導者が貧しいという道理はない。貧民や労働者の理想国家である共産国家だって目標としては「みんな平等に豊か」である。


清貧を気取って「俺は貧しいけどみんなは豊かになあれ」なんて指導者は理想論の段階ではともかく実際にはおらず、本当のところでは「指導者以外はみんな平等に貧しい」というのが実情だろうか。そもそも論だけど、まともに機能していた共産国家はあったのだろうか。


もちろん名前の示す通りドルネシア帝国は共産国家ではなく、絶対君主制から緩やかに立憲君主制に移行した近代国家。


昔に比べ議会の権限は大幅に拡大されているし、憲法によって皇帝の権限は徐々に縮小されているにせよ、過去に獲得した莫大な財産を取り上げて国民に分配する法はなし。


あたかも前世世界の19世紀から20世紀の欧州貴族のような暮らしぶりは、かつて前世で観て憧れた英国貴族の暮らしぶりを描いた海外ドラマのようで悪くはない。


少なくとも千早にとってみれば、転生最高と喜ばずにはいられない。


豪華な建物に華やかなドレス、それに貴族の栄華の最たる象徴としての贅を尽くした晩餐会。どれも庶民の千早とはほぼ無縁の世界だった。


繰り返すようではあるが、それは千早としての視点。


千早が憧れ夢みた華やかな暮らしも、カーチャからしてみればごく当たり前の日常。帝国の第二皇女としての生まれは、生まれながらに全てが整っていた。


カーチャが比較しえる対象は平民の暮らし。


自分と比べたら贅沢な暮らしではないものの、分刻みで用意されている帝国皇族としての公務や稽古、そして社交界における国内貴族や諸外国の外交官との付き合いに比べたら、平民の住む世界はなんと自由なことか。


それでも生まれた時から皇族として育てられたカーチャは、平民の暮らしは精々ラジオか新聞で知る程度でしかなく、ただ単に忙しい毎日を送る自分と比べて羨ましいなぁと思う程度。これが皇族としての私の義務であり、果たすべき責任であるのだから、安易に自由を求めてはいけないと自分を戒める。


ところが不運なことに、カーチャは違う人生の記憶を手にしてしまった。


異世界での自分の記憶。


その記憶では確かに毎日が忙しく、華のない暮らしぶりではあったが、今の世界の暮らしに比べたら自由であることは間違いない。


精神的に恵まれてこそいないものの、物質的にはとても恵まれている。


だからこそ思う。やろうと思えばもっと楽な暮らしが出来たはずなのに! 探せばもっとマシな仕事があったろうに! 


死んでから後悔しても遅いのだが、死後の人生がよりによって皇族という、生まれながらに自由という権利を喪失している立場になってみれば分かる。あの頃の私は馬鹿だった。


今までは自分の義務責務と思ってやってこれた。でもこれからは無理だろう。だって思い出しちゃったから。生まれながらに自由であったはずなのに、自ら自由を放棄して大変な思いをするはめになった勿体ない人生を。


ダウントン・アビーみたいな暮らしだやったー! ではない、私。


人生の選択肢すら奪われた立場に悪化しているじゃないか。何が「ぐうたらして過ごしたいと願えば願うだけ仕事は過酷となり」だ。


楽したいだなんて思っているだけで、本当に楽をするための努力を怠ってチャンスを逃していただけじゃないか。


確かに今の暮らしはとても恵まれているのだろう。親は皇帝で金持ちだし、教育もこの世界水準で見たらとても高いものを受けている。


だけど、代わりに自由な時間を……いや、人権そのものを奪われている。皇帝に限らず金持ちの子供、それも女の子供というのは、言わば政治の道具であり、親の所有物だ。


今受けている教育も、上流階級たる者に必要な教養や思考力を養うためといえば聞こえがいいが、要するに自分の子供に知性という商品価値を付けているに過ぎない。


商品価値。そう、私は皇帝陛下の所有物であり売り物だ。


人権意識の高まった前世21世紀世界も昔はそうであったように、この世界でも貴族や国の王族同士の政略結婚は当たり前。


私もいずれは帝国と他国の同盟と結束の架け橋となるべく結婚という名前の商取引に出される運命だろう。代金は影響力か。


一応皇族だから皇位継承順位に名を連ねており、理論上だけで言えば私も皇帝の座に着くこともあり得る。


一国の国家元首にさえなれば、望まぬ結婚をせずに済みそうものだが、男系皇族優先と定められた皇室法典のお陰で私の順位はそう高くない。千早ではない私からしても皇帝にはなりたくないからこれは助かる。


前世で私の社内立場を窮地に追いやったフェミニスト団体がこの世界に揃って転生し、皇室批判という恐るべき不敬罪の適用案件に果敢に挑みさえしなければ、私が皇帝になることはまずあり得ない。


しかし皇帝になりたくないけど、政略で望まぬ結婚というのも勘弁願いたい。


30手前で誰でもいいから結婚したいと叫んでいた私が、だ。世界が変われば考え方も変わるのか。不思議なものだ。


さて皇帝も政略結婚もご遠慮願いたい私は、これからの人生目標を設定する必要に迫られた。


これまでは帝国のために人生を捧げるつもりでいたが、前世の記憶を取り戻した今では、帝国のために何もかもを他人の言われるがまま死んでいくのは御免被る。


私は一人の人格ある人間なのだから、自己の幸福を追求する権利がある。人権は神聖不可侵にて犯すべからずだ。


私は前21世紀市民であり、高度に発展した人権意識こそを道徳の基本とせよと教わって育った。


故に私は私の人権を犯す帝国と皇室に Нетいいえ! を突きつけることにする。


要するに皇族の立場を捨て帝国を脱出し、帝国の影響力の及ばぬ遠い異国で自由な暮らしを獲得しよう。


言わば都会の暮らしに疲れ、一念発起し田舎で夫婦揃ってお洒落なカフェを始める脱サラリーマンのようなもの。


今までの生活を捨て新生活に挑むのは勇気がいることだが、上手くいけば田舎での悠々自適なスローライフが待っていることだろう。


スローライフ! ああ、なんて素敵な響き。


しがらみを捨て去って新しくスローライフを送るだなんて、いよいよ異世界転生じみてきた。


これを機に、前々から憧れてたパンケーキ屋でも始めることにしよう。この世界でもパンケーキの歴史は古いが、それはしょうがない。


人類史における人類の発展に穀物は欠かせないものであるし、小麦粉に水を入れて焼くだけのお手軽料理ともなれば「猛毒のフグの卵巣を粕漬けにしたら、なんか知らんけど食べられるようになった」みたいな、偏執的なまでの食へのこだわりを必要とせずとも誰でも作れる。


現にこの世界の各地方でも、それぞれ違いこそあるものの、小麦粉を水で溶いて焼くだけ料理は一般的だ。発酵を必要としない速成パンとして優秀かつ手軽なカロリー補給源なのだ。


今更そんなポピュラーな料理を専門店として提供しても、この世界の住民は鼻で笑うだけだろう。誰でも作れるものに金を払うものかと。


だけど私は知っている。前世日本国は原宿で、誰もが予想しなかった空前のパンケーキブームが起こったことを。


日本が長らくホットケーキと呼び、優雅な朝食気分を味わいたい時や、喫茶店での気まぐれで注文する程度だった代物が、生地はふわふわクリーム盛り盛りの新感覚スイーツとして転生し覇権を獲った事実。


まぁ正直千早だった私はああいうキャピキャピした、いかにも甘々な女子スイーツが好きではなかったけれど、SNSで自撮り写真を上げて女子アピールをするのには必須なアイテムと化していたあの頃、私も足繁く通ってはモテようとしていた。


いや、モテるためにパンケーキと2ショットを撮り、食べていたと言ってもいい。


そんな泣きたくなる過去はどうでもいいとして、純粋にビジネスとしてみたらこの世界でも挑んでみる価値はありそうだ。


何せまだこの世界には原宿スタイルのパンケーキは存在しないのだから。


つまりこのパンケーキこそが、私の知る前世知識の中で唯一私TUEEEEEが出来る知識チートと言える。いや、強くはないか。


「異世界転生した枯女は皇族の身分を捨てて田舎でパンケーキ屋さん経営スローライフはじめました!」


ありじゃないか。素晴らしい。私の人生のタイトルさえも決まってしまった。私はこれからパンケーキ屋さんになって、田舎でのんびり暮らそう! ついでに良い男も捕まえて!


こうして私は人生目標を決めることが出来た。


後は目下の障害を排除するだけ。だが、これが一番の障害であり、むしろこれさえ突破出来れば目標を半ば達成したと言っても過言ではない。


それほどに難しく大変な問題。それはどうやって皇室から離脱するかに尽きる。


ただでさえ普通の家庭でも親から独立するには問題が付き物だ。世間では成人するころには自由にさせてくれるかもしれないが、私はまだ16歳。自分で口にして言うのも変な話だけど、びっくりするくらい若い。


なら成人するまで待てばいいとはならないのは、私が皇帝の娘だから。


先にも言った通り、私は皇帝陛下の所有物だ。だから誰といつ結婚してどのように暮らすかを決めるのは皇帝。


成人するまでには恐らく何処かの家に嫁がされているに違いなく、下手をすれば今すぐ結婚しろと命ぜられてもおかしくはない。


16歳といえばドルネシア帝国の法的には……ついでに日本国の法律的にも一応は問題ないらしいのだが、どこからどうみても児童婚じゃないか。本人の意思も全く反映されないのだから、純然たるユニセフ案件ではないのか? この世界にアグネス様はいらっしゃいますか?


結婚するしない以前に、皇帝の所有支配状態から離脱すること自体が割と不可能に近い。


一体何処の誰が鳥籠から私を助けてくれるというのだ。もしそんな親切な人がいても、この国で皇族を匿おうものなら一日経たずに、その人の家の玄関前に憲兵隊がやってくることだろう。


自分の祖国で二度と生きていけなくなるかもしれない危険を犯してまで、私を助けてくれる人はいない。


ならば後は外国に逃げる他ない訳だが、他国に入るのにタンカーのコンテナや輸送トラックの荷物に紛れ込んで密入国する訳にもいかず、正規のルートで外国に逃げるには大使館を通じて亡命申請をしなければならない。


しかし私は皇族。存在そのものが政治的に問題を誘発する。私の亡命を受け入れただけでも、その国と帝国の間には致命的な外交問題が生じることだろう。


帝国によっぽどなことが起きて、私に亡命する正当な理由があり、尚且つ私を受け入れたことによる帝国との関係悪化というリスクを許容出来る場合のみ、私の亡命は成立するだろう。


安全な場所でパンケーキ屋さんを開きたいなんてほざく小娘なんて、まともな外交官なら亡命させずに家に送り帰すだろう。それこそ家出した年頃の娘のように。


なんとまぁ、本格的な計画を練っている訳でないにしろ、起き抜けの朝の思考体操ですら私が目指そうとしている自由という未来を掴むことが極めて困難に近いことを教えてくれる。


自由は与えられるものではなく、勝ち取るものだとはよく言ったもので、生まれながらに自由であった前世と違い、今は自由とは程遠い人の所有物。


権謀術数渦巻く帝都宮中での政治闘争に喜んで協力してあげる道理もない。


これは私の自由を勝ち取るための闘争だ。


前世で学び、後世で実感した自由に対する努力の義務。


なればこそ、私も勝ち取らなければならない。自由と、平和と、パンケーキを。

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