第29話 ロゼ・シャンパンより甘く

 茉莉香がシャルル・ド・ゴール空港に着いたのは、まだ陽が登らぬ暗い早朝だった。


「寒い……」


 思わず手袋に包まれた手をこすり合わせる。


 茉莉香がロビーまで歩き出ると、背後から呼び止める声が聞こえた。


「茉莉香ちゃん!」


 振り返ると、誰よりも会いたい人がそこにいる。


「夏樹さん!」


 二人は同時に駆け寄ると、互いに抱き合った。


(何から話せばいいかしら?)


 話すべきことはいくらでもある。

 でも……あまりにも多くて選べずにいた。


 そして、


「おめでとう!」


 ようやく言葉が出た。


「ありがとう」


 二人は抱き合う腕を緩めると、互いに見つめ合った。


「まずは朝食を食べよう」


 二人はメトロを乗り継ぎ、サンラザール駅へ出て、カフェで朝食をとった。


「本当はなぁ……」


 夏樹が不本意そうに言う。


「えっ?」


「俺が迎えに行きたかったんだ。けっこう意気込んでたんだよ。俺、男だし!」


「まぁ!」


 茉莉香が笑う。


「でも、夏樹さんのお祝いだから……」


「そんなこと言ったって、俺だってまだ、茉莉香ちゃんのお祝いをしていないんだ」


 不服そうな夏樹を見て、茉莉香がまた笑う。


「でも、嬉しいよ」


「ええ。私も」


 こうして初めて二人きりでパリで会うのだ。

 茉莉香は別れ際の父を思い浮かべる。いつもの強張った表情はではなかったが、どこか寂しそうだった。

 だが、父はずっと以前から自分たちを認めていてくれた。

 そんな気がする。


「折角だからパリ見物をしよう。それからレストランを予約してあるから、夜はそこで食事して……」


「ねぇ。お食事は夏樹さんのお部屋でどうかしら?」


「え!?」


 夏樹がぎょっとする。


「今からでも、節約した方がいいわ。私がお料理を作るわ」


「ああ、そういうことね……」


 気落ちしたように言うが、安堵しているようにも見える。

 そしてレストランにキャンセルの電話を入れた。


「それじゃ、パリ見物を早めに切り上げて、スーパーで食材を買おう。食事は一緒に作ろう。終わったら宿泊先まで送り届けるから」


 カフェを出た後、まずはクルーズ船に乗ることにした。移動の手間を省いて観光ができるし、その間、いろいろな話をすることもできる。


「クルーズ船は二度目だわ」


「足元気を付けて」


 先に乗り込んだ夏樹が、茉莉香の手を取り乗船を助けた。


 座席に着くと、ガラス張りの天井からセーヌ川沿いの街並みが見渡せる。


 オルセー美術館が驚くほど近く、川にかかる橋の下を通り抜ける醍醐味も素晴らしい。


 わっ!……と、歓声が上がる。


「えっ? なに?」


 茉莉香がきょろきょろとしていると、


「アレクサンドル三世橋をくぐり抜けるところだよ」


 最も美しいことで知られるアレクサンドル三世橋だ。乗船客たちが一斉に橋を見上げている。


 二人は窓外の景色を眺めながら話をする。


「二人でパリに暮らす前に、新居を決めないとな」


「私も働くわ」


「俺、茉莉香ちゃんにはいい仕事をして欲しい。無理に数を増やさなくていいよ。俺の借金は俺が返すようにしていきたい。だから、ゆっくり返していくつもりだ……その代わり貧乏させちゃうけど……給料も、はじめはそんな良くないし……」


「ええ。 それに、les quatre saisonsパリ支店で働けるかもしれないの。そうしたら、家事や翻訳の仕事にも負担がかからないわ」


 気軽なお喋りのようだが、自分たちは将来の話を現実的に話せるようになったのだ。もう、夢ではない。

 それが嬉しかった。


「それから……今度の仕事は、ガスパールの事務所の一員としてやるけど、いつか俺もこのパリで独立したい。借金を返したら……。いずれ日本でも仕事をするつもりだけど、当分はパリで暮らしたい」


「……ええ」


 茉莉香には、夏樹が何を言おうと受け止める覚悟が出来ていた。

 それは、彼を日本で待ち続けている間に出来た覚悟かもしれない。


「大丈夫よ! 帰省することもできるし、パパやママが会いに来ることもできるから」

 

 だがそれは、そう容易いことではないだろう。

 ふと、父の寂し気な表情が目に浮かんだ。


 クルーズ船の一時間半の旅を終え、二人はスーパーへ向かった。


「メインは肉料理にしよう。仔羊のいいのがある。茉莉香ちゃん仔羊は大丈夫?」


 と、言って、骨付きの仔羊肉を手に取った。


「ええ。好きよ。じゃあ、私はデザートを作るわ。由里さんに教えてもらったの」


 そう言って、林檎をカートに詰め始めた。


「仔羊は臭みがあるからな……」


 そう言って、夏樹が玉ねぎ、赤ピーマン、パセリ、にんにく、ロリーズマリー、バジル、シブレット、アンチョビーをカートに入れる。


「よく作るお料理なの?」


「いいや。友だちのおばさんに教わっただけ。作るのは初めてなんだ」


「まぁ!」


「なんとかなるさ!」


 二人が弾けるように笑う。


「パンはパリジャンにしよう」


 バケットに似た、バケットよりも太さのあるパンで、表面の香ばしさと共に、中の柔らかい部分も楽しめる。


「サラダも作りましょう。ニース風がいいわ」


 そう言って、サラダ菜、トレヴィス、アンティーヴ、トマト、オリーブ……

 色とりどりの野菜に、たまごも入れる。


「ねぇ! シャンパンも買いましょう! これが安いわ」


 茉莉香が手に取った瓶を見せると、夏樹がちょっと困ったような顔をした。


「ロゼ・シャンパンよ?」


 夏樹の表情を茉莉香が不思議そうに見る。


「その値段だとなぁ……ま、いっか。飾りみたいなもんだな」


 カートに安物のシャンパンも詰め込まれた。


 買い物を済ませた二人は、夏樹の住むアパートへ向かう。

 路地裏にある、古いアパートだ。


「驚いた? パリは家賃が高いからね。でも、二人で住むアパートは、もっといいところにしよう」


 夏樹が恥ずかしそうに言った。

 初めて入る夏樹の部屋。

 書物や模型。製図版。狭い部屋がいっそう狭く見えたが、室内は外観よりも明るく清潔だった。


 カタカタ……


 時折、窓枠が風に吹かれて音を立てる。





「さてと……豪華ディナーを作ろうか!」


 夏樹が、仔羊にかけるカフェ・ド・パリ・バター(あわせバター)を作るために、香味野菜とアンチョビーを切り、フードプロセッサーにかける。


「あら。フードプロセッサーがあるのね」


「ああ。教えてもらったときに、“新しいのを買ったから”って、くれたんだ。便利だよね」


 室温で柔らかくしたバターに香味野菜を混ぜ、再びフードプロセッサーにかけ、卵黄を混ぜ塩コショウで味を調えた。


 一方茉莉香は林檎を半分に切り、芯をくり抜き、一つを除いてそれらをさらに半分にしている。


「何を作るの?」


「タルト・タタンよ」


 そして、バターとグラニュー糖とレモン、シナモンでシロップを作り、カットした林檎をその上に並べた。


「それから、これ……」


 その上にパイシートを乗せ、オーブンに入れた。


「焼けるのに一時間ぐらいかかるわ」


「じゃあ、その間に、サラダを作るか」


 そう言って、ニース風サラダを作る。


「あと、もう一品できそうだな」


 白いんげん豆とベーコンを煮込み始めた。


「まぁ! 夏樹さんって、手際がいいのね」

 

「そりゃそうさ! 自炊してかなきゃここではやっていけない。さて、そろそろ仔羊を焼くか」


 熱した油に仔羊を乗せると、香ばしい匂いが部屋に漂う。


 一方茉莉香は、

 

「タルト・タタンが焼きあがったわ」


 そう言って、オーブンから取り出したタルトをひっくり返して皿に盛りつけ、鍋の底の煮詰めたシロップを塗ってつやを出す。


「タイミングがいいな」


 夏樹は、焼きあがった仔羊にカフェ・ド・パリ・バターを塗り、オーブンに入れる。


 仔羊に焼き色がついたら完成だ。


 食事をテーブルに並べる。


「すごいご馳走だわ! レストラにも負けないわね!」


「ちょっと待ってて」


 夏樹が戸棚をごそごそと探った後、


「これも……」


 テーブルに古めかしい枝付き燭台を置いた。


「まぁ! こんなものが?」


「前の住人が置いて行ったんだ。あと、停電用に俺が蝋燭を買っておいたから……」


 と、言いながら蝋燭に火を点けた。


「少しはムードが出るかな?」


 室内の照明を落とすと、蝋燭の灯りが二人を照らした。

 ささやかな灯りのもと、二人は顔を近づけて話す。

 距離が一層縮まるようだ。


 食事はどれも上出来だった。


「この仔羊すごく美味しいわ。ぜんぜん臭みがない。初めて作ったなんて思えないわ」


「デザートも美味しいよ。見た目もきれいだ」


 シャンパンは……


「クリスマスのお子様シャンパンみたいだな。まるでジュースだ」


「甘くて飲みやすいわ」


 シャンパンはロゼ色で、細かい泡が美しかった。


(そんなに弱いかしら?)


 頬が上気しているのがわかる。


(顔が赤くなっていないかしら?)


 手を当てると、微かに熱を帯びていた。


「おなか一杯」


「俺も」


 二人は顔を見合わせて笑った。

 食べ終わると片づけをし、テーブルの上は、燭台だけになった。


「ねぇ。お茶を淹れるわ。夏樹さん紅茶あるわよね」


「うん。今日はこれにしようか」


 そう言って、少女のシルエットの描かれた濃緑色の缶を出した。


「marica!」


「うん」


 maricaマリカ。les quatre saisonsで開発されたフレーバーティーだ。

 柑橘からジャスミンへと入れ替わる香りが人気で、いつの間にか、特別な日の贈り物として使われ、特に、恋人同士で贈り合うようになっていた。


 “maricaを贈り合うと恋が実る”


 誰が言い始めたのか、そんな言葉が囁かれている。


「じゃあ、キッチンで淹れてくるわ」


 そう言って、席を立った。


 湯を沸かし、温めたポットに茶葉と湯を入れる。葉が開くのを待つ間、ポットに覆いをかけ、カップを温める。


「さあ、できたわ。いつもより上手に淹れられた気がするわ。maricaは恋を実らせるって……」


 誰が言い出したのだろう?

 茉莉香がクスリと笑う。


「だって、私たちはもう……」


 と、呟きかけ、


(……えっ? 私たちは……もう……?)


 もう? もう?

 心に問いかける。 


 食堂に戻り、カップに茶を注ぐと、柑橘の香りの後、茉莉香ジャスミンの甘い香りが部屋を満たした。


 二人は沈黙のままカップに口を付ける。


「どうしたのかしら? 今日は、香りがいつもより強いわ……いつもは控えめなのに……」


 まるで部屋に花が咲いているかのように香る。


「シャンパンに酔ったのかしら」


 うつむいて赤くなった頬に手を当てた。


 顔を上げると、夏樹が自分を見つめている。

 テーブルに肘をつき、組んだ指の上に、軽く顎を乗せていた。

 この眼差しを向けられたことは初めてではない。いつもは、目が合うと夏樹は視線を外していたが、今夜は真っすぐに自分を見据えている。



 ゆらっ……

 

 すきま風に蝋燭の炎が揺れて煌めく。


「……」


 茉莉香は目を逸らし、再びうつむいた。

 

「寒いわ……」


 隙間風がのせいだろうか? 思わず体を縮める。

 自分を背後から、そっと抱きしめる手がある。

 その手は温かかった。


 夏樹が名を呼びながら、何かを囁いている。

 躊躇いながらうなずくと、

 

 

 ―― ふわり ――



 抱き上げられる。


「きゃっ!」


 体のバランスを崩し、態勢を整えるために夏樹の首に手を回すと、顔が近くなった。

 

 見つめあう。




    ……そしてキス……



 最初のキスは軽く

 そして、交わしたことのない長い接吻。優しい口づけ。

 離ればなれの長い時を埋め、恐れも不安も消えていく。

 胸を満たす恋の喜び……。

 



 

 夏樹が蝋燭の火を吹き消し、白い煙が細くたなびいてく。

 気の抜けたロゼ・シャンパンの泡が、最後の呼吸をするかのように水面に上がっては消えていき、冷めた紅茶の残り香が微かに漂う。

 

 

 

 ―― 今、恋が実ろうとしている。

 

  茉莉香は目を閉じ、静かにそれを感じていた。

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