第2話 ただ君の笑顔が見ていたかっただけなんだ-1
夏樹は、パリ市内に住居を決めた。
セーヌ川の向こうに彼の通う大学が見える。
手狭で設備が悪い。到着したばかりの頃は備え付けのストーブが壊れていて、凍える思いだった。家主に修理を頼んだが、業者が来ないうちに四月になってしまった。まだ、肌寒い日があるだろう。修理に来るならば、一日でも早く来てもらいたい。
郊外に住めば少しは広く設備のよい部屋に住めるのだろうが、学業に専念するために、利便性を重視した。通学にかかる時間さえ惜しい。
「部屋をシェアするって手もあるけど、やっぱり一人で集中したいんだよなぁ。まぁ、これでいいか。奨学金は出るけど、大切に使いたいし……いろいろ節約しなきゃな」
「さて、面接に行くとするか」
着替えをすると、新聞の切り抜きを手帳に挟んで外出をする。大家にせがんで求人欄を見せてもらっているのだ。夏樹は時折、大家の頼まれ仕事をして、お駄賃程度の礼を得るほか、ちょっとした恩恵にも
日本人留学生がバイトをするとなると、ベビーシッターや飲食店のバイトぐらいにしか就けないのが現状だ。
「今日で五社目か……」
だが、彼は手近な金銭よりも、経験をつめる仕事がしたかった。
石造りの建物の並ぶ道を抜け、シャンゼリゼ通りに出る。パリでも名の知れた建築事務所がこの美しい通りにある。
事務所にたどり着くと受付嬢が夏樹を迎える。
「あの、先日お電話をした……」
夏樹が言い終わる前に、彼女は興味もなさそうに案内し始めた。
オフィス内には、書類や模型が積み上げられたデスクが並ぶ。
樋渡の事務所を思い起こさせるが、ここはずっと規模が大きい。
住居からコンサートホール、行政施設まで幅広く手掛けていると聞く。
受付嬢はパイプ椅子を持ってきてオフィスの片隅に置いた。
「ここで座って待っていろってことか……」
この規模なら応接室や待合室などもありそうだが、今日はそれを使わないということだろう。
夏樹はパイプ椅子に座って待ち続けた。
時計の針が時を刻み続けるが、“面接官”はいっこうに現れる気配がない。
だが、夏樹はそのことが気にならなかった。
目の前で繰り広げられる、オフィスの姿に心を奪われていたからだ。
飛び交うフランス語。業者や職人とやり取りをしているのだろう。
模型造りに専念する者、図面を描く者……。
パリの建築事務所の光景は、彼にとって、あまりにも魅力的なものだった。
ふと見ると、おそらく夏樹と同じ学生のバイトだろう。電話の対応をしながら今にも泣きだしそうな様子だ。
「建築資材の到着が遅れているんだな」
夏樹はそう判断した。
職人がいきり立つ姿が目に浮かぶ。
資材の到着が遅れることはあるだろう。だが、その後どう対応するかが大切なのだ。目の前のバイトは、ただ慌てふためいて、自分の身の上に起こった災難を嘆いてばかりいる。
「大丈夫?」
見るに見かねた夏樹が声をかけるが、バイトは放心状態で救いの声さえ耳に入らないようだ。
「俺、変わるよ」
バイトは自分がこの面倒から逃れられるならと、喜んで夏樹に受話器を渡した。
「建築資材が遅れているんですね?」
問題を相手が把握したことに、ひとまず満足したのか、受話器の向こうの怒声が一瞬止まる。が、再び激しくまくしたてた。
「それは大変ですよね。で、最悪、いつまでに到着すれば先に進めますか?」
解決案を提示され、職人の憤りが収まっていくのが分かる。
「じゃあ、業者に連絡して、その日までには到着するようにします。もちろん、なるべく早く届けるように言いますから」
そう言って、職人との電話を終わらせた。
夏樹はいつの間にか周囲に人が集まって、自分を見ていることに気づいた。
称賛を込めた眼差しだ。
さっきまで無関心そうに振舞っていた受付嬢も、ほれぼれとしたようにこちらを見ている。
「君はすごいね」
いつの間にか、長身で眼光の鋭い男が立っていた。彼は、シャンゼリゼ通りのウィンドウに並んでいるような服で身を固めている。靴はフェラガモだろう。
「いえ。勝手にすみませんでした」
男は手近にあった模型を手に取ると、
「これの図面を描いてくれないか?」
と、
模型は二階建て住宅で、建物左手の一階がピロティ、二階がテラス、奥が吹き抜けの庭になっていて、同じ模型が二つある。
「はい! 製図台お借りします!」
(彼は何者か?)
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