朱の紅葉の百鬼譚

第1話

 何の変哲も無い街の一角で轟音が響いた。そして、地響き。何か巨大で重いものが路面に激突したようだった。

 夏に入った6月の夜。日中の雨が上がったあとの街の空気は蒸していた。

 地方都市とはいえ、県有数の経済規模を持つ渚市は、夜でもそこそこの車通りがある。その通りのひとつに車がたむろしている。いや、進路を絶たれて渋滞が起きている。

 場所は国道沿い高架下。街の中心の外れの、郊外との境ぐらいの場所。川を渡る橋のたもとだ。川沿いを橋の下を通るように走る道路で渋滞が起きてるのだ。道幅は狭く二車線。ここは街から住宅街へ抜ける主要道のひとつなのでたくさんの車が立ち往生し、運転手たちはなにが起きているのかと先に目を向けていた。

 長蛇の渋滞だ。通行止めによるものではなく突発的な事故によるものだ。

 交通事故か。確かに、高架下には二台のパトカーの姿があった。しかし、渋滞に巻き込まれた大方の人々は、これがその類ではないことを理解していた。彼ら彼女らにとっては度々巻き込まれることだ。受け入れることは出来なくても、慣れてしまった恒例行事のようなものだ。それも、子供のころからずっとの。しかも、この街だけの話で無く、世の中全員が共有していることなのだ。

 なので、文句たらたらの表情はしているが、鳴らされるクラクションも控えめだった。

 そして、また轟音が響く。なにかが現在進行形で起きているのだ。

 ずらりと並ぶヘッドライトの列の先。小さな野次馬の塊が出来ていた。深夜にさしかかった午後九時だというのに、彼らはわざわざ家から出てきた近所の住人たちだろう。彼らはいつも通りの休日に突如降って湧いたこのイベントに興味津々なのである。いわば、イベントかなにかのようにこれを見物しているのだ。そんな彼らを警官が安全圏から出ないように制止していた。なにせ、ここから先は本当に危険なのだから。一般人がのんきな見物気分のままに踏み入って良い場所では無いのだ。普通の人が立ち入ったら下手をすれば命を落とす。この平凡な高架下はそういう場所になっていた。

 長蛇の渋滞、押し寄せる野次馬、それを制止する警官たち。休日の街の一角は完全な非日常へと化していた。いわば事件といって差し支えない状況である。明日のローカル放送のニュースくらいにはなるだろう。そして、この事件中心に居るものはやはり尋常のものでは無いのである。

 野次馬が歓声を上げる。繰り返される轟音と衝撃、そしてその合間に振りかざされる白刃を見て。

紅葉もみじさん。もうそろそろ、渋滞も野次馬も手が付けられなくなってきてます。手早く始末してください」

 高架下に居たのは二人の人物だった。カジュアルな作業着を来た男と、

「そんなこと分かってます! ちょっと黙ってて貰えます?」

 こちらは女性だった。半ギレだ。男とは違い、スキニーパンツにシャツに目を引く朱のジャケット。ラフな服装だった。ショートポニーを風になびかせ、そしてその両手で握っているのは日本刀だった。レプリカでは無い。本当の刃の付いた本物の日本刀だった。

 彼女はそれを構えていた。

 目の前のモノに向けて。

 大きなうなり声が高架下に響いた。

「もうそろそろ、倒せるんじゃないですか?」

「そのはずなんですけどね。この状態で早5分。最後の最後が長いですね。ってその台詞さっきも言いましたしさっきも同じように返しましたよね。ちょっと黙っててください」

「ああ、すいません」

 二人の前に居たのは異常なものだった。

 生物では無かった。しかし、無機物でも無かった。

 その全身は明らかにアスファルトだった。その体はアスファルトから盛り上がるように発生していたのだから。

 一言で表すなら、アスファルトから人間の上半身だけが生えている、といったような見た目だった。しかし、頭はあるが顔は無い。手はあるが指が無い。そして、その皮膚がアスファルトそのものなのだ。

 人型というだけで、まったくもって人では無かった。

 これは怪物だった。

 彼女たちはこの怪物と戦っていた。

 先ほどからの轟音はこれが正体で、通行止めも野次馬もこれが原因だったわけである。

―ウ゛アァア゛アア゛

 怪物は鳴き声ともうなり声ともとれない鳴き声を上げ、その両手を伸縮させて女性にムチのように振るった。すさまじい速度、そしてそれはどう見てもアスファルト製。長いアスファルトの塊が振りまわされたのだ。直撃すればどうなるかなどというのは判りきった話だった。良くて病院送り。悪ければ、いや普通は命は無い。

 しかし、女性はそれを難なくかわした。無駄の無い体捌き、足捌き。その身のこなしで女性がただものでないということは素人目でも分かった。

 外れた怪物の腕が路面を粉砕し、破片が飛び散った。周りはそういった破片の飛散を防止する、格子状の簡易バリケードが敷かれている。それがバラバラと音を立てた。その向こうでまた警官が中をのぞき見る野次馬を制止する声が聞こえた。

「あああ、もう! なんですか。どう考えてもDレートの怪異じゃないですよ。全然滅せない。Cか下手すればC+。本格的な人払いが必要な怪異です」

「発生条件と場所を複合しての予測ですからねぇ。他の要素が絡むと外れることはある話です」

「それを出してるのはあなたの所属する組合でしょうが!」

「ああはい、すいません」

 男はあまり申し訳なさそうではない声で言う。女性はさっきからずっと半ギレだ。顔は笑顔だが青筋が浮かび上がっている。なかなか倒せないこの怪物と、この理不尽な男への怒りがごちゃまぜになっているのだろう。そんなことも知らずに群がる野次馬に対するものもあるのかもしれない。

 女性は刀を構えて怪物と対峙する。

 怪物の攻撃は先ほどからまるで当たってはいない。そして、怪物の体にはすでにいくつもの傷が刻まれていた。全てこの女性によるものだろう。怪物はいままさに女性に追い詰められているのだ。今この女性は、いわば怪物退治を行っている最中なのである。

「ええい、もうたたみかけます! 下がっててください!」

「ああ、はい」

 男は言われるがままにすごすごと後ろに下がっていった。安全圏まで、バリケードギリギリまで下がった。どうも覇気の無い男なのだった。

 対する女性はハツラツだ。懐から紙を2枚取り出した。墨で文字が書かれ、赤い五芒星の書き込まれたメモ用紙くらいの大きさの紙。

「肆の陣『懸巣かけす』」

 そう言うと女性は札を放り、それを刀で断ち切った。

―ウ゛ォオォォオォア゛ォ

 それと同時、怪物の動きが途端にゆるやかになった。抵抗するように腕を振るうが明らかに速度が足りていない。よたよたとした長い腕はまったく大したことの無い速度で女性へと迫る。

 そして、女性は軽々とその二本の腕の間を舞うように縫い、そのまま怪物を刀で胴薙ぎに切り払った。人間ならば真っ二つになってもおかしくないような鮮やかな斬撃だった。

「まだ倒せないんですか!」

 しかし、怪物の体は二つに分かれはしなかった。表面に深い傷が出来たものの、その体はまだ確かに力を持っていた。

―グォオオ゛!

 そして、吠え猛りながら女性へ腕を振るう。己の消滅を感じてか、鈍い動きながら先ほどよりもずっと力がこもっているようだった。女性はかわしたが、その後ろの廃材が爆発したかのように吹っ飛んだ。高架の柱に激突し、鉄骨が何本か突き刺さった。

「逃げる!」

 女性が叫んだと同時に怪物の体がグルグルと音を立てて溶け始めた。いや、これは地面に、アスファルトに同化していっているのか。これがこの怪物の能力のようだ。女性はすかさず踏み込んで潜っていく怪物の頭を切りつけた。およそ人間には不可能な超速の踏み込みだった。

 怪物は頭に深手を負いまた吠えたが、そのまま地面へと完全に溶け込んでしまった。

「紅葉さん。バリケードの外へは行きませんから大丈夫ですよ」

「知ってますよそんな基礎中の基礎は! 何年この仕事してるか知ってるでしょう!」

「逃げられない代わりに紅葉さんに襲いかかると思います。気をつけて」

「それも分かってます!」

 ひとしきり男にキレ散らかしながら女性は刀を構えた。自分の周囲にくまなく目を向けながら、呼吸を整えていく。アスファルトに潜った怪物はこの一帯から逃げられないという話だった。バリケードは結界のような役割も果たしているのだろう。逃げられないのなら怪物がまずするのは脅威の駆逐だ。アスファルトの中からこの女性をまず倒そうとするはずだということなのだろう。

「雨あがりの夕方だから夏期型石妖の発生注意報は出してたんですがね。人気の無い、西日の影になったアスファルトの上には気をつける。特に濡れたアスファルトの上は。そして絶対にそこで鼻歌を歌わない。まだ、知らない人が居るんでしょうねぇ。条件さえ揃えなければ『怪異』は発生するものじゃ無いんですけど」

「いえ、恐らく面白半分で条件を全部揃えてみたバカものが居たと見ますね。今頃慌てふためいて逃げ去ってるところでしょうけど」 

 女性の足下のアスファルトはかすかに揺れているようだった。怪物が中をうごめいているのだろう。どこから女性を襲ったものかと、狙いを付けているのだ。

 女性は眉間に皺を寄せながらその路面を睨み付ける。

 どこから怪物が飛び出してきても良いように警戒する。

―ア゛ァアアァ゛ァア゛

 そして、まさしく路面そのものが吠えた。アスファルトが鳴動する。小刻みな振動で砂埃が吹き上がった。

「来る!」

 そして、次の瞬間。

 路面から8本もの怪異の腕が伸び、女性に襲いかかった。それぞれバラバラの方向から、タイミングをずらしながら伸びてくる。しかし、先ほどの術がまだ効いているため速度は遅い。

 女性は短く息を吐き出すと、踊るような体捌きで腕を次々と切り落としていった。この腕そのものは怪異本体よりずっともろいようだ。

 それが意味するところは、

「紅葉さん、囮ですよ」

 男が低いテンションで言うが速いか、女性の足下から沈み込んだ人型の上半身が這い出てきた。その両手が女性の足に伸ばされる。女性が7本目の腕を落としたところ。この重心の方向では回避が間に合わない。

「ふっ!!」

 しかし、女性は力ずくで体をひねって前宙飛びをして、それを無理矢理回避した。いや、むしろこの力ずくの動きさえあらかじめ予定していたのだ。あえて完全に見えるスキを作ることで怪物をアスファルトから引きずり出したのである。

 一連の流れは全て女性の計算通りということだった。

 そして、女性はその伸ばされた怪異の両腕も無理な体勢から強引に切りつけた。

 地面に足がついていない分威力は弱まっていたが、それでも怪物の両腕には大きな傷が刻まれた。怪物は叫びながら後ろに下がる。両腕には力が無い。もはや、使い物にならないのだろう。

 だが、怪物の体が再び地面に溶け始めた。また路面の下に逃げるつもりだ。このままでは延々とこの流れを繰り返されかねない。長引けば不利なのは恐らく人間の方だろう。

「ここで終わらせます!」

 前宙から着地し、女性はすかさず踏み込んだ。今までの舞のような美しい剣ではない。しっかりと構え、全力を込めた渾身の一撃。

疾風はやて

 その切っ先は吹き過ぎる風のように静かに、しかし速く、怪物の胴を通り抜けた。常人には切ったという事実さえ感じさせない鮮やかな剣だった。常人にはとても真似出来ない、その方向性を突き詰めたもののみに成せる動きだった。

 そして、女性も怪物も動きを止めた。野次馬たちも息を飲み、黙って両者を見た。

―ウ゛ァァ

 そして、それから数秒の間を置いて怪物は小さく呻いた。

 怪物の体は今度こそ真っ二つに分かれ、それからその上が路面にゴトリと音を立てて崩れ落ちたのだった。先ほどまでの躍動感は完全に失せ、まるで花瓶が落ちるかのようだった。そして、怪物の体はヒビが入って砕け、そのまま動かなくなった。

 怪物は完全に機能を停止し、その存在を終えていた。

「討滅完了」

 女性が言った。

 それと同時に観客、もとい野次馬たちから歓声が上がった。見世物が見事なかたちで終わり大興奮の様子である。女性はそれをじっとり見て小さく溜息を漏らした。

 警官が興奮する野次馬たちを押さえている。野次馬は口々に女性を褒め称えていた。良くやっただの。綺麗な剣捌きだっただの。女性が行ったのが命がけのやりとりであるという緊張感は全然まったく見られないのだった。

「もう少しこっちの苦労ってものを感じて欲しいんですけどね。サッカーの試合の応援と変わらないじゃないですか」

 女性はぼやいた。しかし、仕方が無い。女性にとっては、彼女のような仕事をするものにとってはいつものことだ。もはや慣れている。怪物と人間の死闘なんて、一般人にはとてつもなく刺激的なエンターテイメントでしか無いのだ。

「お疲れ様です。今回も危なげなく済んで何よりです」

「あなた方がもう少し正確な情報を出してくれればもっとスムーズでしたけどね」

「いや、すみません」

 男はあまり謝意の感じられない、平坦な口調で言った。どこまでも人格に熱というものを感じられない男である。女性はそんな男に不機嫌そうに眉をひそめる。女性はこの男との付き合いも長いが、この性格だけは野次馬のように慣れるということは無いのだった。どれほど努力しても合わないものは合わないのだった。適切な距離を保つしかない。

「じゃあ、とりあえず撤収しますね。報酬はいつものように明日振り込まれます」

「ええ、しっかりお願いしますね。私もとっとと引き上げます。まだ晩ご飯も食べてませんから」

「いや、急な呼びつけに応じてくださって助かりました。このレベルの怪異をさっさと倒せる人は限られてますから」

「それはどうも。最近便利に使われてるだけにも思えますが」

「いえいえ、頼りにしてます」

 男は女性のぼやきの答えになっているのかなっていないのか分からない返答を返した。女性は微笑みながらこめかみをひくつかせた。

 催しものも終わったので辺りの野次馬たちは続々と解散を始めていた。バリケードを撤去しなくては渋滞も改善しない。もうかれこれ30分近くここを封鎖しているので運転手たちの不満も限界が近いはずである。いつまでも談笑しているわけにはいかないのだった。

 と二人の元に警官が一人歩いてきた。ヘルメットを押さえながら会釈する。それに二人も返した。

「お疲れ様です。無事に終わりましたね」

「ええ、そちらもご協力ありがとうございました」

「いえいえ、命がけで『怪異』と戦っているあなた方に比べたらたいしたことは。ええと、一応お二方のお名前を伺ってもよろしいですか? 手続き上で必要になるもので」

「ああ、はい」

 そう言って、警官は書類の挟まれたクリップボードとボールペンを差し出した。二人は言われたとおりに必要な情報を記入した。

「『怪異狩組合渚支所』の四島卯良しじまうらさんと、怪異狩の戸木紅葉ときもみじさんでよろしいですね」

「ええ、間違いありません」

 女性は答えた。

 それから二人は警察と簡単な事後処理を済ませ、今夜の仕事を終えたのだった。バリケードも解除され、渋滞も解消。夜の街の大騒動は無事に幕を閉じたのである。繁華街と郊外の境には、いつもの休日の夜と同じような静けさが戻っていった。

 これが、彼女たちの生業であり、日常だった。

 『怪異』と呼ばれる理から外れた存在を滅ぼす『怪異狩』。

 そして、それらのサポートをする『怪異狩組合』。

 紅葉と四島はこうして、怪物や異常現象と日夜戦っているのだった。

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