中川くんのお姉ちゃんは三浦くんのお姉さん


 帰りの会が終わると,風のような速さで三浦くんがぼくの席へとやってきた。きっと,あのスピードで五十メートル走を走っていたなら陸上記録会で表彰台に上がることが出来たのは疑う余地がない。しかし,教室の中では俊敏な動きができても,トラックの上ではスロービデオで撮影した映像を再生しているようにしか動けないのが三浦くんだ。そこに三浦くんがみんなから愛される理由の一つだ。


「コウシくん,今日は一緒に丸堂書店に行く約束だったね。覚えてる?」

「何をそんなに慌てているんだい。忘れるわけ無いじゃないか」


 周りをキョロキョロして不安そうな三浦くんを不思議に思っていると,来た,と呟いてそのまま固まった。その視線の先を見ると,中川くんが帰りの支度を済ませてやってきたところだった。同級生よりも一回り大きなその身体は,みんなと同じサイズのランドセルを背負っているせいでおもちゃも身に付けているようだった。


「コウシ,行こうぜ。そうだ,今日は三浦も来るんだったな。なんか,おれたちが一緒にいるって何だか変な気分だな」


 「そうかな,別に変とは思わないけど」とロボットのようなカタコトな言葉で三浦くんが返事をした。気温はそんなに高くはないのに,鼻の頭には汗をかいて唇は嫌に青い。ほんの数秒前までは桃のようにきれいな表情をしていたのに。


「三浦、お前具合悪そうだぞ。まっすぐ帰った方が良いんじゃないか?」

「ぼくは大丈夫だ! 絶対に一緒に行く!」


 自分の声の大きさにびっくりしたかのように,三浦くんは肩をすくめてまわりを伺う。近くにいた人は初めて聞く三浦くんの大きな声に少し戸惑ったようだが,すぐに教室を出て行った。


「そんなに大きな声を出すなよ。ちょっと心配しただけだって。大丈夫ならさっそく行こうぜ。ついでに三浦も本を紹介してもらえよ」


 心配してくれたの,ときょとんとした顔で三浦くんは呟いた。そして,ずんずんと進んでいく中川くんの後をまるでひよこのように付いていった。



「あら,また珍しいメンバーね」


 丸堂書店の自動ドアをくぐると,いらっしゃいませ,という言葉とともに振り向いた三浦くんのお姉さんがいた。なつみさんは丸堂書店で働いていたのだ。三浦くんの「何かあっても安心」という言葉にはそういう意味があったのか,と合点がいった。


「少年、この前買った本はどうだった?」

「それがさ,めちゃめちゃおもしろいんだ。昨日なんて,履を磨いたんだぜ」

「そういえば,そんな課題から始まっていたわね。で,どう? 何か変化はあった?」

「何かが変わったっていうのは分からないけど,でも友達は出来た」


 それはよかったじゃない,となつみさんは微笑んだ。中川くんは誇らしそうに胸を張っている。


「で,次の本を探しに来たの?」

「今の本を読み終わったらまた聞きに来るよ。今日はおれのダチが本を紹介して欲しいって言うんだ。だから姉ちゃんを紹介しようと思ってな。姉ちゃんなら間違いないから」


 な,と言って中川くんはぼくを見た。微妙に違う気もしたが,おおむね話の筋はずれていないためうなずいた。なつみさんは片方の手で腕を組み,もう片方の手で顎を支えながら「うーん」と考えた。そして,「よし」と何か思いついたようにしてしゃがみ込み,ぼくと視線を合わせた。少し視線を下げると,お姉さんの魔法にかかりそうだった。その魔法は,書店員の制服のエプロンの形を変形させるほどの魔力を備えていた。お姉さんの魔法はどんなものにも邪魔されない。

 含み笑いを見せたなつみさんは,「コウシくん,こっちにおいで」と呟いてすとすとと歩いて行った。中川くんと三浦くんは嬉しそうに手を振った。


「おれたちはこの辺をぶらぶらするよ。どんな本を紹介されるかいきなり知るとおもしろくないからな。決まったら声をかけてくれよな」


 そう言うと二人で行ってしまった。学校を出る前には血の気を失っていた三浦くんの表情が,今はイチゴのように生き生きとしていた。



 なつみさんは迷うことなくずんずん進んでいく。さすが書店員。どこにどんな本があるかは当然のように頭に入っているらしい。それよりもぼくを驚かせたのが,どんな本を探しているのかなどを一切尋ねることなく本を紹介しようと言うことだ。顔を合わせたのは三浦くんの家に行った一度きりのことで,それ以来は話をするどころか会ってもいない。そのことが逆にどんな本を紹介してくれるのだろうという好奇心を一層書き立てた。

 これなんてどう,と指さされたのは,雑誌が並べられたコーナーだった。その指先を見ると,思わず目をむいてしまった。なつみさんが指さしていたのは,大人の女性が肌のほとんどが隠されていない水着を着てポーズを取っている表紙の雑誌だったからだ。


「こういう本を紹介されるとは思っていなかったです」


 胸がドキドキしているのが聞こえているのではないか,と不安になりながらなつみさんに言った。「ぼくは立派な大人になるために本を読みたい」と付け加えると,なつみさんは不敵な笑みを浮かべた。


「これも大人になる人が読んでいる者だと思うけど」

「いや,ぼくはまだ興味がそういうことには向いていないんです」

「そう? うちに来たときはそういうことに興味津々って感じだったけど」


 舌をぺろりと出して笑った。


「からかってごめんね。でも,女の人はそういうことにすごく敏感だから気をつけるのよ」


 ぼくの顔がゆでだこのように真っ赤になった。鏡を見なくても分かるぐらいに体温が熱くなる。

それから,と少し意地悪な顔をしてなつみさんは続けた。


「佐藤さんにも謝った方が良いかもね。言葉は十分に選ぶのよ」


 ふふっと笑ってなつみさんはくるりと振り返り、来た道を戻っていった。ぼくはなつみさんの言ったことをしばらく頭の中で考えた。


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