中川くんの謝罪と成長
生活するうえで,相手を大切にすることはもちろんだが自分を大切にするという考えを忘れがちらしい。
人間というのは私利私欲の塊で,自分のことばかりを考えているものだと思っていたけれど案外そうでもないのかもしれない。ぼくはてっきりみんな自分のことばかりを優先していて,本当にみんなのためになるのはどんなことかを考えて行動しているのは少数派だと思っていた。だけど,実際には自分のことはないがしろにして誰かのために自分を犠牲にしたり,逆に自分が辛い思いをして頑張っているからと言って人にも辛い思いを強要したりするものらしい。
そんななかで大切なのが,”自分にとっても相手にとっても得なことは何か”という考え方に立つことだ。そう本に書いてあった。
自分の利益のことばかり考えていて相手の立場に立たないのは相手にとって良くないし,相手のために自分の幸せを犠牲にするというのは生きている意味がない。だから,お互いが幸せになれる方法を見つけていかなければならなのだ。
今日はこのことを念頭において学校で生活した。すると,面白いことが起こった。
「悪かったよ。これからは無茶言わないから,仲よくしよう」
どういう風の吹き回しか,中川くんは神妙な顔をして歩み寄ってきた。
ここでぼくは少し意地悪なことを言ってやろうという気持ちになった。さんざんわがままをわめき散らして横暴なことを言って好き勝手振る舞っているのだ。少々手厳しい目に合わせてやっても悪いことにはならないだろう。それに,その方が中川君にとっては教訓となるかも知れない。
そんなことを考えているうちに,昨日読んだ本のことが頭に浮かんできた。そこには,自分にとっても相手にとっても得になるようなことをしなさい,と書いてあった。
確かに,今ここで中川君に皮肉を言ったらぼくはすっきりとするかも知れない。でも,それで中川君はどうなるだろうか。安易に相手のためになると決めつけたが,実際の所それは自分の欲を満たすためのこじつけでしかなかった。それに,都合のいい言い訳をして自分の思うとおりに事を運ぶのはぼくが最も嫌うことの一つだった。
ここは感情的にならず,自分と中川君のためになる選択をしよう。そう考えた。
「中川君、まさか君がそんなことを言ってくれるなんて,ぼくは嬉しいよ」
「じゃあ,お前・・・・・・許してくれるのか?」
中川君に真剣な顔で見つめられた。こんな顔も出来るのだなと感心した。
「もちろんさ。中川君が許して欲しいというのに,ぼくが拒否する理由はない。それより,普段からきっとぼくは無意識のうちに中川君をいらいらさせていたんじゃないかな。そのことをぼくからも謝りたい」
ううっ,と中川君はべそをかきはじめた。これには面食らった。
「どうして,どうしてそんなことを言うんだよ。お前はどうしてそんなに大人なんだ?」
少し考えた。そして,ぼくなりにその質問について答えてみた。
「それはきっと,ぼくが本を読んでいるからだ。本を読んでいると,自分では気付かなかった視点や生き方が身につくからね」
「本を読んだら,お前みたいに大人になれるのか?」
「中川君はぼくよりもよっぽど立派な人になれるんじゃないかな」
中川君の口から,本日二度目の「ごめん」と一度目のの「ありがとう」という言葉が出てきた。もちろん,今日以前にこの言葉を中川君から聞いたのは初めてだ。
この日の出来事は僕たちの関係を,いや,教室の雰囲気を一変させた。
まず何より,中川君はぼくにちょっかいを出さなくなった。それに加えて熱心に本を読むようにもなった。
こんなことは今までの様子からは考えられなかったが,昨日のやりとりが中川君に影響を与えていることは間違いなかった。
ぼくは気になり,中川君の元へと歩み寄った。集中して本でいるところ申し訳ない気持ちもしたが,ぼくとしてはどうしても中川君の心境の変化を捉えたかったのだ。それがこれからのぼくの人生を有意義な物してくれるかも知れないとなんとなく感じたからだ。できるだけ驚かせることのないように,机を回り込んで彼の正面に立ち,視界に入るように努めた。それでも集中した中川君は,本から顔を上げることはなかった。本の表紙には丸々と太った像が大きく描かれている。
「何を読んでいるの?」
ピクッとほんの少しだけ驚いたような反射を見せて,初めてそこにぼくがいたことを認識したような顔をした。
どうやらそうとう熱中していたようだ。何を読んでいるの? ともう一度尋ねた。
「あ,これか? 昨日さ,家に帰ってから母ちゃんに聞いてみたんだ。何かおもしろい本ないかって。そしたらさ,うちの母ちゃんが『本なんかうちにあるわけ無いだろ』って言ってさ。確かにうちで文字ばっかりの本を見たことはないんだけど。それで,本を買いに行きたいって言ったら『どうせ読みもしないし金の無駄だ』って最初は言ってたんだけど,昔もらった図書カードがあるっていってくれたんだ。それを持って本屋に行ったら,何を買ったら良いか分からなくて」
読んでいた本の表紙を見つめて中川君は話した。そこで一旦話は一段落して,どう話そうか考える様子を見せた。中川君が物事を順序立てて話をしようとするのを見るのは初めてかも知れない。
「それで,表紙を見ておもしろそうって思ったの?」
まるで自分が何を伝えたかったのかを今思い出したかのように中川君は答えた。
「本屋にいた店員さんに紹介してもらったんだ。そもそも本を知らないし,どんな本を読みたいのかも分からなかったからな。でも,本を読んだら賢くて立派になれるって言ってただろ? おれは賢くて立派になりたかったんだ。だからお店の人に『賢くて立派になれる本を教えてください』って言ったんだ。なぜかその女の人は笑っていたけど,『問題集のようなものかな?』って言うから『ドリルならやってないのがたくさん溜まっているからいい』て言ったんだ。そしたらお姉さんはまた笑って『読書がしたいのね』って言うからそうだって言ったら二冊紹介してくれたんだ。なんかへんてこなキャラクターが描いてあったこっちを読むことにしたんだ」
なるほど。書店員におすすめされた本を読んでいるということだ。中川君がこんなに熱中する本を見事に差し出したその店員に是非会いたいと思った。
それでな,と中川君は本の中身について話し始めた。その話は,ぼくの中川君を見る目を変えさせるのには十分な内容だった。
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