08 細やかなよろこび



 昼下がり、微睡の庁内は、午前中の賑やかさはない。

 

 結局、安田と澤井の密談は終わる気配がなく、槇は時間を持て余した。ぽつらぽつら見えている人々を横目に売店の近くまで行ってみることにする。安田管轄の自分は、職員とは違って自由気ままなものなのだ。


 ぶらぶらと歩いていくと、見慣れた最愛の男を発見した。野原せつだ。二人が庁内で顔を合わせることはまれだった。槇は安田につき切りで、外勤が多い。庁内にいたとしても、市長室か、会議室か、議会場か……そんなところだ。だから、こうして、たまに出会えると心が弾むのだ。


 ––––あいつは、どう思っているんだろう? おれと会うの、嬉しいって思うのかな?


 野原の隣には身振り手振りをして声をかけている男がいて、彼は資料を抱え伏目ちにしていた。どうやら、『迷惑そうな雰囲気』だ。


 野原の感情が表情に出ることが少ない。今も話かけている男は、野原が迷惑がっている事に気がついていない。しかしずっと一緒にいる槇にはわかるものだ。彼の仕草、視線、そして雰囲気で……。


 隣にいる男は、野原の従兄弟である野原朔太郎さくたろうであった。朔太郎は、野原の父方の従兄弟にあたる。たまたま偶然にも同じ梅沢市役所に就職した縁もあって、こうしてまとわりついてくる男だ。

 野原は彼が苦手だった。槇が「おい。朔太郎」と声をかけると、彼は嬉しそうにやってきた。


「なんだよ。実篤さねあつ! 久しぶりじゃん」


 野原とは対照的に小麦色に焼けた肌と、がっちりした筋肉質体型の大柄な朔太郎は、愛想のいい出世頭タイプの好青年だ。市役所では上から好まれるタイプ。


「お前さ。仕事中」


「そんな堅いこと言うなよ。同じ屋根の下にいるのにさ、お前たちにはそう会えないだろう?」


「そうだけど。せつが嫌がってんのわかんないのかよ」


「え? 嫌じゃないよね」


 朔太郎は野原を振り返ったが、彼は肩を竦めてじっとしていた。そんな様子を見てなお、朔太郎は「そうかな?」と首を傾げた。これ以上、話をしても仕方がないと思った槇は話題を変えた。


「っていうか、お前、今はどこにいるの?」


「え? おれ? 財務の財政二係長だよ。あのさ。お前は本当に、おれに興味ないよね? この前も聞いたよ」


「忘れた」


 槇の素直な返答に、朔太郎はさすがに抗議の声を挙げた。


「な、なんだよ。ちぇっ、相変わらず素気ないんだから」


「財政二係長ね。すっかり覚えたからな。今度、安田市長によく言っとくわ。『職務中に他部署の課長に絡んで、職務妨害している奴がいる』ってね」


「本当に実篤って性格悪いよな〜……。雪も気をつけろよ。あ〜、ヤダヤダ」


 朔太郎は「じゃあな」と野原に声をかけてから姿を消した。「やっと消えてくれた」と思うと、ほっとした。妙に懐いてくるのが勘弁して欲しい。


 野原が彼を苦手な理由は、馴れ馴れしい態度だけではない。顔も覚えていない父親の話を平気でするからだ。朔太郎は父親との思い出もなにもない野原に、父親の姿を植えつけてくる。悪気がないのはわかるが、あまりにも配慮がないと槇は思っていた。


「大丈夫だったか」


「うん」


「朔太郎なんて相手にするなよ。無視しとけ。それから今日は、一緒に帰るぞ。仕事終わらせておけよ」


「うん」


 野原の瞳がぱっと明るくなる。


 ––––雪は喜んでいる。


 そんな少しのことが槇には嬉しい。「じゃ」と去っていく野原を見送ってから、槇は市長室に戻ることに決めた。これから外勤が控えているのだ。






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