06 更に底知れぬ悪




 市長と職員の関係性は限りなく微妙だ。職員としては、滞りなく、自分の仕事が淡々とこなすことを望む。そこに四年に一度、自分たちのボスが交代することで取り組む事業がガラリと様変わりし、それに振り回されることになる。


 前市長が体調不良のため任期途中での退任が決まった混乱の時期に、一気に市長として躍り出たのが安田だった。

 安田はワンマン市長として前市長と比べられつつも、市民の人気を確保して行った。そのため再選を繰り返し、現在は三期目である。十年以上もこの椅子に座っていると、職員とも顔馴染みの関係になり指示系統は曖昧になる。


 また安田も歳を重ねたのだ。彼も今年で七十五歳だ。七十を超えると一年と言えない。彼の弱り具合はそばにいる槇の目から見ても歴然だ。そうなると容赦なくつけ入ってくる輩はいるものだ。この世界は弱肉強食。弱いものは食われる——それだけの話だ。


 槇はそのことに強烈な危機感を抱いていた。安田の心配をしているのではない。それは、


 廊下に出て大きくため息を吐く。古ぼけたガタついている窓から覗く鉛色の空からは、今にも雨が降ってきそうだった。

 梅雨入り真っ只中。この梅雨が明けたら、今度は肌を突き刺すようなジリジリとした日差しに襲われると言うのに、この憂鬱な天候は早めに収束して欲しいと思ってしまう。


 結局、澤井の無言の圧力に負けた安田は久留飛くるびを説得した。さすがの久留飛も市長の頼みでは無碍にも出来ないようで、いつもトレードマークの笑い顔が珍しく渋い顔をしていたのは言うまでもない。


 話が済んだ後、澤井と安田で何やら今後の打ち合わせをするというので、槇は辞退しこうして廊下に出たところだった。心のざわつきが止まらない。


 澤井は脅威。「なんとかしないといけない」という思いが心を焦らせた。現在の市役所で幅を利かせているのは、副市長の澤井だ。彼は生え抜きの副市長で、とかく庁内のことだけにとどまらず、多方面に顔がきく男だった。正直、現在の安田では澤井の言いなり状態になるしかない。


 ——叔父の時代は終わったのか? おれはどうなる?


「槇さん」


 ふと自分を呼ぶ声に顔を上げると、先ほどまで一緒に話しをしていた久留飛が立っていた。彼はいつもと同じような笑い顔で槇を見ていた。


「久留飛課長」


「いやあ、参りましたね。無理難題を押し通してくる。市長があんなに強引だとは思いませんでした」


 探るような言葉かけ。


 ——罠?

 

 警戒しろと頭の中で警笛が鳴っていた。


「そうですか? 安田はいつも強引です」


 槇はそう答えた。


「おや。そうでしょうか。ここのところ、めっきり丸くなられて。僕たちには嬉しいことですけどね」


「なにが言いたいのですか」


「いえね。あんまり澤井副市長をのさばらせておくと、お互いにいいことがないのではないかと思うのですヨ」


 少し冗談めいた悪戯な言葉尻。こっそりと槇に耳打ちしてくる久留飛の気配に、鳥肌が立った。


「お互い——ですか?」


「そうでしょう? 槇さん。あなたも、市長も大変やりにくそうですけど」


「……やりにくい? 我々が? なにをおっしゃる。それに、あなたは澤井さんの腹心のおひとりではなかったはずでは?」


 久留飛は澤井派の一人だと認知していたが、ここのところ、澤井の言うことをきかなくなっている様子が見て取れる。あの閻魔みたいな凶悪な澤井ですら手をこまねく男。彼はにこにことしている笑顔を消して、槇をまっすぐに見据えた。


「槇さん。私には、あなた方に協力できる準備があるのです。そのあたり、承知しておいていただけませんかね?」


「久留飛課長」


 底知れぬ悪。そんな気がして、槇は黙り込んだ。久留飛は、にこっといつもの笑顔を取り戻してから手を振る。


「ま、いつでもどうぞ」









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