第29話 呪縛からの解放

 自分たちを殺そうとする者。絶対的な力、聖獣を操る者。魔物にとってアレスたちは邪魔者以外の何でもなかった。


「我らの邪魔をする者は、ひとり残らず殺す。生きてここから出られると思うな!」

「魔物の分際でよく吠える」

「何だと!」


 エレインを乗っ取った魔物を前に、アレスは微塵の動揺もなく手綱を引いた。それを合図と受け取った飛竜が大きく羽ばたいたかと思うと、エレインめがけて空を一直線に駆けていく。


「失せろ!」


 アレスが叫び、飛竜が唸る。体に伝わる振動から飛竜が炎を吐くのだと悟ったレティシアは、思わず無我夢中でアレスの掴む手綱を力任せに引っ張ってしまった。


「やめて!」


 くんっと手綱をあらぬ方向へ引っ張られ、攻撃を中断された飛竜がエレインを避けて上昇した。僅かに非難めいた声を上げて飛竜に呼ばれたが、アレス本人も何が起こったのか理解していない。戸惑う視線を落とせば、手綱を握る自分の手にレティシアの白い手が重なっている。


「レティシア、どういうつもりだっ?」

「今のまま彼らを消し去っても、魂は救われないわ。永遠に暗黒を彷徨い、転生することもできない」


 この期に及んでまだ魔物の心配をしているレティシアに、さすがのアレスも呆れ顔を隠しもしないまま盛大に溜息をついた。


「お前はいつもそうだ。少しは自分の心配をしろ」

「でも……」

「あいつらに、まだ声が届くと思うのか? 生き延びることしか考えない魔物に」


 そう言って、アレスが素早く飛竜を右へ旋回させた。急な移動に何事かと目をみはったレティシアの真横を、エレインの腕が掠めていく。間一髪で避けた飛竜を睨み付けるエレインを指差して、アレスがわざとらしく肩を竦める。


「あれでもまだ心を取り戻せると思うか?」

「でもエレインは!」


 がくん、と飛竜が揺れた。苦しげな声に目を向けた先、飛竜の口がエレインの触手によって塞がれていた。残りの触手も首や足に絡みつき、飛竜の自由を完全に奪い去っている。


「何を思ったか知らんが、さっきの一撃で炎を吐いていれば良かったものを」


 巻き付いた触手によって、飛竜の体がじりじりとエレインの方へ引き寄せられていく。炎を吐こうにも口は完全に塞がれ、魔物に有効とされる飛竜の炎は攻撃の手段を奪われてしまった。

 ならば触手を切り裂こうと思い至ったところで、アレスは自身の剣を地上へ置いたままだったことに気付いて舌打ちした。

 飛竜は炎を吐けず、アレスには剣がない。ほんの一瞬の間に形勢が逆転していた。


 エレインの触手とアレスの手綱が左右に引かれ、その中心で拮抗する力に首をもがれそうになった飛竜が苦しげに呻く。


「……っ!」


 くぐもった苦痛の声に動揺したのはアレスの方だ。相棒の身を案じて力を弱めたその一瞬の隙を突かれ、飛竜の巨体がぐんっとエレインの方へ引っ張られた。


「レティシア、お前は先に逃げろ」

「え……」


 振り返ったアレスの表情に、レティシアの血がさぁっと凍る。焦り、苦悶するその顔に滲む、ほんのわずかな諦めの色。アレスが何を諦めようとしているのか、恐ろしくてその先を想像することができない。


「……いやです」

「レティシアっ」

「いやです!」

「いいから行けっ!」


 あまりの怒号にレティシアの体がびくんと震えた。アレスの服を掴む指先にまで震えが伝わり、レティシアは耐えるようにぎゅっと拳を握りしめる。

 自分が彼の攻撃を止めなければ、この窮地に陥ることはなかった。どこまでも甘い、甘すぎる考えが引き起こした事態だというのに、アレス一人を残してレティシアだけが逃げるわけにはいかない。この責任はレティシアにあるのだから。


「……」


 唇をきゅっと噛み締め、背中の翼をゆるりと広げる。無言で飛竜から降り、隣で羽ばたくレティシアにアレスがほっとしたのも束の間。レティシアの体が淡い光に包まれた。


 エレインの触手を砕き、空の結界に罅を入れた光の鳥。それと同じ聖なる輝きを目にしたエレインが、レティシアの術を阻もうと左腕を突き出した。


「させぬわっ!」


 叫ぶ声よりも早く、エレインの左腕がぐんっと伸びる。


「レティシアっ!!」


 緊迫したアレスの声と重なって、肉を裂く生々しい音が響き渡った。



 ――お姉ちゃん。



 そよ……と、流れる風に、金色の髪が揺れていた。

 レティシアとエレインの間に割って入った金色の光――そのやわらかな胸を貫いたのは、憎悪にまみれたエレインの左腕だった。


 ――お姉ちゃんが国を守るなら、レイナがお姉ちゃんを守ってあげるね。


 遠く、今はもうその面影すら思い出せない光景に、幼い少女の声だけが木霊している。ころころと、鈴が転がるような愛らしい声音。それは闇に堕ちたエレインの脳裏に唯一の光として、あるいは居心地の悪い異物として確かな跡を残していく。


「……ぅ……ぁ……」


 いま貫いたのは何だ?

 この腕に伝わる熱は、何だ?

 あの女は……誰だった……?


 驚愕に見開かれたエレインの赤い目が、動揺に激しく揺れ動く。カタカタと震え出した腕を伝って流れる血が、ゆっくりと……記憶を呼び覚ますようにエレインの方へと伝う。


「……ぁぁ……ぁああああっ!」


 幼い頃。幼い二人。城のバルコニーから見下ろす街に、あまくて優しい夢を見た。

 いつか女王として民を守り導く姉と、それを傍らで支えていくと誓った妹。厨房からこっそり持ってきたビスケットは仲良く半分に。この先続く少女たちの治世に降りかかる苦難も幸せも、すべてを半分ずつ背負って生きていくと約束した遠い過去。


『レイナもお姉ちゃんと一緒に楽しい国を作るよ!』

『本当? 手伝ってくれるの?』

『もちろんだよ! だってレイナ、お姉ちゃんのこと大好きだもん』


 小さな手に大きな夢を描いて、二人で見下ろしたガルフィアスの街。どんな時もエレインのそばにあって、決して彼女をひとりにはしなかった温かい光がレイナだ。

 その光がいま、静かに消えようとしている。エレインの脳裏によみがえった無邪気な妹の記憶が薄れゆくように、ゆっくりと、けれど確実にレイナのいのちが掠れていく。


『レイナ、お姉ちゃんのこと大好きだもん。ずっと一緒にいるからね』


 見開いたエレインの瞳の中で、レイナが昔と同じように優しい微笑みを浮かべていた。


「……レイナっ!!」


 妹の胸を貫いている恐ろしい現実に、エレインの腕が怯えたように引き戻された。

 一緒に引き寄せられるレイナの体を、エレインは抱きとめる腕がない。右腕は飛竜の炎によって焼かれ、左腕はレイナを貫いたまま。意志を持って動かせるのは触手だけで、けれどそんなおぞましいものでレイナに触れたくはなかった。


 生きるために人であることを捨てたというのに、今になって人ではない姿に激しく後悔する。レイナに触れることもできなければ、彼女が最後に目にする姿も恐ろしい異形のままだ。

 それでも、名を呼ぶことを止められなかった。


「レイナっ! ……レイナっ!!」


 胸を貫いた左腕にレイナの震える指先がそっと触れる。


「レイナ!」

「ね……さ、ん……。やっ、と……もど……て、くれた?」

「ダメだっ、目を開けろ! 私を見ろ!」


 エレインの腕を両手で包み込んだレイナが、濁りはじめた瞳を向けて儚げに笑った。その唇の端から赤い血が細く糸を引いて流れていく。


「いまなら、わかる? 私たちがどう、なったのか……この国がどうなったのか……受け止められる?」


 答えは言葉ではなく、エレインの瞳から溢れこぼれる涙にあった。魔物と化した体は、もう二度と人には戻らない。涙を流す瞳の色も、汚れた血に染まったままだ。

 けれどレイナにはその瞳から流れる涙で充分だった。


「……私が生き長らえたことも……無駄ではなかったのね」


 力なく瞼を閉じたレイナの体が、薄い闇に包まれてほどけていく。


「レイナ? レイナっ、死んではダメだ!」

「怖いことなんて、ないわ。……ずっと一緒にいる、って……約束、したじゃない」


 レイナはもう瞼を上げる力がない。それでもエレインの腕を包んだ手にできる限りの力を込めて、最期の願いを口にする。思いが届くように、掠れる声に祈りを込めて。


「だから姉さん。……一緒に、いきましょう」

「……わ、たしが……一緒に……?」


 微笑んで頷くレイナから、エレインがゆるりと顔を上げた。その瞳は無意識に、そばで様子を窺っていたアレスたちに向けられる。

 魔物の赤い瞳のまま、止まることのない涙を流しながら見つめてくるエレインに戦意はもう残ってはいない。幼子のように縋る視線は痛々しく、見ているだけで心が軋むようだった。

 けれどレティシアは目を背けない。結晶石がもたらした悲劇だというのなら、その結末を見届けるのもまたレティシアが背負うべき宿命なのだと心に刻む。


「エレイン。今ならあなたに、道を作ることができます」


 レティシアの言葉を、エレインはもう遮ることはしなかった。


「罪を犯したあなたにとって、それは決して楽な道ではないのかもしれません。けれどもう……ここに留まることはできないでしょう?」


 再度レイナへ目を向けると、もう体の輪郭はぼやけ始めていた。青空に開いた穴から差し込む細い月光に照らされて、ほろほろと端から崩れ落ちていく。レイナだけが淡い光に連れられて、エレインはたったひとりで取り残されようとしていた。


「……レイナと……一緒に、逝かせてくれるのか。……お前が……」

「あなたが望むなら」


 レイナの体を貫く腕に、もう彼女の重みは感じない。それでもわずかに残ったレイナの姿がゆっくりと頷けば、エレインも同意するように瞼を閉じて項垂れた。


「聖獣の炎で焼き尽くすがいい。この醜い体が一片も残らぬように……。偽りの国を、この私を……すべてを、無に帰してくれ」


 アレスの意図を感じた飛竜が、いつでも炎を吐ける準備をする。

 結晶石によって人生を奪われ、死んでからも心を蝕まれ続けたエレイン。彼女の最期を見届けなくてはと、レティシアはかすかに震える指先で飛竜の手綱に触れた。その手を、上から手綱ごと握りしめられる。


「願いを叶えてやれ」


 レティシアに、合図を待つ飛竜にアレスの声が届いた。

 吐き出された紅蓮の炎は瞬く間に二人の体を包み、噴き上がる火柱にエレインの長い黒髪が巻き上がった。腹から飛び出したままの触手も、レイナを貫いたままの腕も、何もかもを飲み込んで塵に変えていく。頭さえぼろりと崩れ落ち、エレインの体の破片は聖火を纏ったまま、ガルフィアスの城下町に雨のように降り注いだ。


 エレインの歪んだ願いが生んだ虚像の国が、聖獣の炎によって浄化されていく。青い空は夕焼けのように赤く染まっていた。


「……レイナ。みんなは許してくれるだろうか。一万年もの間、魂を縛り続けていた私を……」


 聖火が闇を払い、エレインが生前の姿を取り戻したのは、ほんの一瞬。額に巻かれた細い金色の王冠がちかりと光っただけで、あとはもう炎の渦に飲み込まれて消えてしまった。

 エレインから解放された住民たちの魂は黒い影に炎を纏い、歓喜の声を上げながら青い空へと上っていく。その炎のひとつひとつが空に点を穿ち、効力を失い脆くなっていた空の結界が音を立てて崩れ落ちた。


 ぱらぱらと降り注ぐ青空の破片。いにしえのガルフィアスは消滅し、そこには深い森に沈む静謐の夜が戻ってくる。

 煌々と輝く白い満月に隠された星明かりの代わりに、赤い炎を纏った光が幾つも幾つも夜空を上って……そしてひとつ残らず消えていった。


「……――死は、優しいな」


 それが、エレインの最期の言葉だった。



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