第27話 滅びの光景
水の流れる規則正しい音に目を開くと、レティシアは石造りの小さな噴水の前に佇んでいた。心地良い水音に重なって、子供たちの笑い声が聞こえる。振り返るとそこは陽光に照らされた広場の真ん中で、老夫婦や若い男女、先程の声の主である子供たちが思い思いに午後のひとときをのんびりと過ごしていた。
「ここは……」
見覚えのない場所。なのに素朴で温かい色合いの街並みに、なぜか既視感を覚える。若葉の匂いを運んでくる風を辿って視線を向けると、街の向こうに青々とした丘が見えた。
「お姉ちゃん、どこから来たの?」
突然声をかけられ、レティシアの翼がバサリと震えた。栗色の髪をしたひとりの少年が、物珍しそうにレティシアを――その背に広げられた二枚の翼を見つめている。
「この国の人じゃないよね。その翼……」
「えぇ……その」
「ねぇ、それ本物? 僕はじめて見た! ちょっとだけ触ってもいい?」
「えっ? あの、……ちょっと待って。その前に、ここがどこなのか教えて貰ってもいいかしら」
そもそも自分が何をしていたのか、レティシアの記憶は曖昧だ。ただ、緑の波に揺れる丘を見ていると、なぜだか胸が落ち着かない。
「ここ? ここはとっても優しい女王様が治める国、ガル――」
「何だっ!? あれは……っ」
少年の声を遮って、広場にいた誰かの悲鳴じみた声が響き渡った。その声を合図に、途端広場がざわめき出す。
「空を見て! 光の渦が……どんどん大きくなっていくわ!」
「あの方角は魔界ヘルズゲートじゃないか? また何か……」
人々の声の中に聞き覚えのある名前を拾って、レティシアが弾かれたように空を見上げた。
晴れ渡った青い空に、巨大な白い光の渦が出現していた。獣の咆哮の如き地鳴りと共に、さざなみ程度の震動が足裏に伝わってくる。
光の渦が空を歪めて膨張するたびに震動が強まり、立っていられなくなった人々が次々に地面へとしゃがみ込んだ。少年も、縋るようにレティシアの服を掴む。その震える手を握りしめて、レティシアが少年の小さな体をそっと抱きしめた。
「お姉ちゃん……」
「大丈夫よ。怖いなら目を閉じて」
出来るだけ優しい声で囁いて、レティシアは少年の背中をさすりながら空を見上げた。
遠い空の彼方にあるというのに、光の渦から溢れ出した膨大な魔力が肌にびりびりと伝わってくる。鋭い針に刺される痛みを感じたかと思えば、腐った泥中に引きずり込まれるような不快な感触がレティシアの体に纏わり付く。
こんなにも強大で、そして
――あの光は、月の結晶石が起こす力だ。そしてレティシアが今いるこの場所は、一万年前に滅びたはずのガルフィアス。女王エレインが治めていた、平和だった頃のガルフィアスの――虚像だ。
「落ち着きなさい」
静かな声が広場に響き渡った。レティシアのすぐ真後ろで聞こえた声は柔らかく、それでいて不安に駆られた人々の心を落ち着かせるような威厳も感じられる。その声に鋭い憎悪は少しも残っていなかったが、レティシアは声の主が誰であるのか分かってしまった。
「エレイン!?」
振り返った拍子に、生温い風がレティシアの肌を撫でていく。視界が突然闇に包まれ、ねっとりとした空気だけが辺りに重苦しく漂いはじめた。
広場の風景も、そこにいた人々の気配も感じられない。声すら消え、耳に痛いほどの静寂がレティシアを包んでいる。
――私の愛した国、ガルフィアス。お前が壊した。お前が奪った。
闇に紛れて届くエレインの「声」に視線を巡らせた先、先程の少年がひとりぽつんと佇んでいた。
「お姉ちゃん」
ゆっくりと顔を上げた少年の瞳に、あのきらきらとした命の輝きはかけらもない。ただ虚ろにくすんだ瞳が、レティシアを無感情に見つめている。
「どうして、助けてくれなかったの……」
ごろんと、少年の首が転がり落ちた。驚愕し、後ずさったレティシアの足が、ぐにゃりと何か柔らかいものを踏み付ける。反射的に目を向ければ、足元でこちらを見上げる女の首と目が合った。
「ひっ……」
気付けばレティシアは高く積まれた死体の山に立っていた。眼球が飛び出たもの。顔の半分が溶けたもの。人かどうかすら分からない肉片となったもの。それらすべてが一斉に声を上げ、レティシアを責め立てる。お前が殺したのだと恨み、嘆き、呪いの言葉を吐いてくる。
頭に直接響いてくる無数の声に耐えきれず耳を塞げば、それよりもはるかに近い場所からエレインの声音が体に響き渡った。
「何も知らずに散っていった、何の罪もない無数の命。この責任を、お前はどう取るつもりなのだ?」
瘴気に包まれ、ガルフィアスの虚像に捕らわれているレティシアへ向けて、魔物と化した「今の」エレインがゆっくりと顔を近付けた。レティシアは悪夢に堕ちたまま、未だその目を開かない。ただうわごとのように、小さな唇が震えている。
「私、は……」
「お前が死ねば、私たちは救われる。お前の罪も許される。世界を脅かすものは、いなくなるのだ」
エレインの恐ろしい言葉ですら、今のレティシアには甘い誘惑であるかのように感じられた。無意識にエレインの言葉を繰り返し、そうすることが当然であると思い込まされる。
「私が、死ねば……救われ、る」
「そうだ。お前は死ぬことによって許されるのだ」
にやりと笑うエレインの腹から、再び六本の触手がずるりと這い出した。光の鳥によって先端を粉砕されているとは言え、今のレティシアを捉えることなど造作もない。蜘蛛の足のように広がった触手が、音も立てずにレティシアへと忍び寄る。
「私が……わた、し……死んでもいい、の?」
それは漠然とした思いだった。
今ここで死ねば、レティシアは確かに結晶石から解放される。城にいた時の閉塞感も、下界への憧憬も、結晶石の宿主としての重圧も忘れられる。それはレティシアの心の奥に閉じ込めていた、誰にも言えない願望を暴かれてしまったも同じことだ。
レティシアが、本当はずっと隠し通していたもの。それがすぐ目の前にある。
すべてを放棄して楽になりたいと伸ばした手が、けれどエレインに届く前に一度だけ震えて止まった。
『世界はお前ひとりのものじゃない』
それはこぼれ落ちた、たったひとしずく。何気ない一言だったはずなのに、レティシアの中に巣くう闇を涼やかな波紋を広げて追い払っていく。
「……アレス」
震える小さな唇がその名を紡いだ瞬間、高く澄み渡った指笛の音が澱んだ空気を切り裂いて響き渡った。
上空のエレインたちを通り過ぎ、その音色ははるか高く――罅割れた青空の向こうにまで確かに届く。
「誰だっ!」
レティシアしか見ていなかったエレインの視界に、堂々と空を見上げるアレスの姿が見えた。エレインを見ているようで、アレスの視線はそのはるか先へと投げかけられている。
眉を寄せ訝しむエレインの耳に、亀裂の走る鋭い音が届いた。と同時に、世界が揺れる。
「何事……っ、――まさか!!」
弾かれたように上空へを顔を向けたエレイン視界が紅蓮に染まる。激しく渦を巻きながら吐き落とされた炎は大地に群がる魔物の群れを瞬時に焼き尽くし、聖火によって浄化された住民たちが苦痛なのか喜びなのか分からない声を上げながら崩れ落ちていく。
「結界が……。おのれっ、ここに来て邪魔をするか!」
迫り来る猛火から身を捩り、エレインが未だ瘴気に捕らわれたままのレティシアへと手を伸ばした。その指先を掠めて吐き落とされた炎と共に、飛竜の巨体が二人の間を割って勢いよく降下した。
「やったぁ!!」
聖獣の炎によって、魔物のほとんどが浄化されていく。事態の好転に喜びを抑えきれず、歓声を上げたロッドが
「アレス。レティシアはお前に任せた!」
ロッドの言葉を最後まで聞かずとも、既に飛竜に飛び乗っていたアレスが手綱を引いて上空へと駆け上がっていく。その先ではエレインが血走った目を向けて、獲物を横取りしようとするアレスを鋭く睨み付けていた。
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