第19話 ルルクスの宿場町
ルルクスに着いたのは、ちょうど日が沈む少し前だった。森を抜けて街道に出る前に変身を解いたロッドが背後を見やると、少しふらつく様子のレティシアがアレスに支えられて歩いてくるのが見える。心なしか顔が青い。
「ごめんな、レティシア」
「いえ……私の方こそ、慣れてなくてすみません」
変身したロッドの背中に乗ったレティシアは、結局たいした距離を進む間もなく何度もその背からずり落ちてしまった。
ずっと天界の城で暮らしていたレティシアが、元来乗り物ではない獣の背に上手く乗れるはずがない。それに加えて体を支えるためにロッドの
見かねたアレスがレティシアを支えるために一緒に乗り、ロッドは大人二人を平然と背中に乗せて森を抜けてきたのだった。
「俺も配慮が足りなかった。悪い」
てっきり呆れられているだろうと思っていたところに謝罪を告げられ、逆にレティシアが呆気に取られた。上手く乗れなかったレティシアを支えてくれたばかりか、未だにふらつく体を心配してそっと背中に手を添えてくれている。最初こそ近寄りがたい雰囲気だったが、今は何となくアレスの不器用な優しさが分かるような気がした。
「いえ。次は上手に
その言葉のどこがおかしかったのだろうか。アレスは一瞬レティシアを面食らったように見つめた後、小さく声を漏らした笑った。
「メレシャが用意してくれたショールがあるだろう。髪がこぼれないように頭から被っておけ」
そう言われてしまえば笑った理由を問い詰めることもできず、レティシアは荷物の中から濃紺のショールを取り出して大人しくそれを頭に被ったのだった。
***
ルルクスは宿場町として栄えており、宿屋へ向かう通りには多くの露店が並んでいた。普通ならば夜に閉まるだろう店の多くは、アレスたちが到着した日暮れを過ぎてもなお少しも活気が衰えない。旅人が多く集まるルルクスでは、夜も大事な商売の時間なのだろう。
通りの左右に軒を連ねる露店には、実に様々な品が並べられていた。そのどれもがレティシアには珍しく、つい足を止めて見入っては先を行くアレスに注意をされる。そうやって幾つかの店を通り過ぎていくと、やっと目的地である宿屋の前へと辿り着いた。
「部屋が借りられそうか聞いてくる。ロッド、すまないがレティシアとここにいてくれ」
一階が酒場となっている宿屋の奥からは、喧噪に紛れて酒に酔った男の声も響いてくる。ここから中は見えないが、おそらく酒場には多くの人間がいるのだろうと予想ができた。そんな中にレティシアを連れていくのは得策ではないとアレスの意向を瞬時に悟り、ロッドが「任せろ!」と言わんばかりに自身の胸をどんと叩いた。
「やっと俺を頼ってくれたな! レティシアのことは俺がしっかり守るから安心して行ってくれ」
「信頼を裏切らないようにしてくれれば、それでいい」
満面の笑みを浮かべるロッドとは正反対に、アレスが無愛想な表情のままくるりと背を向けて宿屋へと入っていく。その頬がかすかに紅潮しているのを見たのは、レティシアだけだった。
それから程なくして戻ってきたアレスと共に宿屋へ入ると、酒場の奥で男が二人言い争っている姿が目に入った。さっき外にまで聞こえていた声は彼らのものだろう。テーブルの上には空になったジョッキが転がっている。
そのあまりの剣幕に驚いたレティシアが振り返ると、アレスが視界を塞ぐように立ち塞がった。
「あまり見るな。目を付けられても困る」
「あの……でも、何か争いに発展することはないのですか?」
「そんな大層なもんじゃない。あれは酒場の女を取り合ってるだけだ」
「えっ!? あれが……その、求愛の仕方……なのでしょうか」
世間知らずのレティシアの言動に、さすがのアレスも言葉を失って立ち尽くしてしまった。
十歳からずっと隔離されて生きてきたレティシアにとって、色恋沙汰などそれこそ無縁だったのだろう。アレスとて経験がないわけではなかったが、それでもレティシアにどう返していいか分からず暫しの間逡巡する。そんなアレスの戸惑いなど知りもせず、ロッドが何故か得意げに胸を張った。
「俺もさすがにあそこまでは怒鳴らなかったぞ。毎日結婚のお願いには行ってたけどな」
「お前の場合は執念深いだけだ。――行くぞ。部屋は二階だ」
部屋に荷物を置いた三人は、簡単な食事でも取ろうと再び夜のルルクスへと出ていった。
再度露店の並ぶ通りへ出てきたことはレティシアにとっては喜ばしく、その気持ちを表すかのように青い瞳はきらきらと輝いていた。
鉱物を扱う露店では紫色に輝く六角柱の原石を興味津々に見つめ、その軒先に吊されている星を閉じ込めたようなランプにうっとりと見惚れている。
隣の露店では主に菓子を売っていた。葉っぱで包まれた白く柔らかなものや、薄く焼いた茶色く丸いものが数十枚束ねられている光景は、どれもレティシアが初めて見るものばかりだ。
甘い香りに気持ちが落ち着くようで、つい熱心に見入っていたレティシアの隣にアレスが同じように屈み込む。その瞬間に自分がはしゃいでいたことを知り、慌てて立ち上がろうとしたレティシアをアレスの低い声が制止した。
「そんなに慌てなくても、ゆっくり見ていけばいい」
「でも……」
「いろいろ珍しいんだろ。お前の腹が減ってなければ……だがな」
まだ少し戸惑う視線をアレスからロッドへ流すと、彼もまた同意するように頷く。
「それでは……もう少しだけ、いいですか?」
「構わない」
「ありがとうございます」
甘い香りに包まれて、レティシアの心がさっきよりもふわりふわりと軽くなる。それは菓子の匂いだけが原因ではないと、レティシア自身も理解して――気付かれないようにそっと口元を緩めた。
「……ここにもラースがあるのか」
「ラース?」
訊ね返したレティシアに、アレスが端からひとつの小瓶を手に取った。中にはオレンジ色の不揃いな珠が詰められている。
「ロゼッタが好きな菓子だ。――店主、これを貰おう」
「毎度あり! 包みますか?」
「いや、このままでいい」
手際よく会計を済ませて立ち上がるアレスに続いて、レティシアも慌てて店先から移動する。人の往来を邪魔しない場所まで来ると、アレスがさっき買った瓶の蓋を開いてレティシアの方へと差し出した。
「ほら」
「え……いいんですか?」
戸惑いながらも広げた手のひらに、オレンジ色の小さな珠がころんと転がり落ちる。興味はあるものの少しだけ躊躇いがちに口へ入れると、甘酸っぱい味が舌の上で溶けていく。
「噛んでみろ」
舌先で転がしていた珠を言われた通りに噛むと、中からとろりとした甘い果汁が溢れ出した。その甘さと初めての感触に、レティシアの瞳がみるみるうちに大きく見開かれていく。アレスを見つめるその青い瞳には、見ているこちらが恥ずかしくなるくらいの感動と驚きに満ちた輝きを湛えていた。
「美味しい……! アレス! このお菓子、凄く美味しいです!!」
「……っ、そうか。なら……良かった」
まさかここまで喜んでくれるとは思っておらず、レティシアの心からの笑顔に不意打ちを食らったアレスの声が掠れてしまう。動揺を悟られぬよう顔を背ければ、物欲しそうに小瓶を見つめるロッドと目が合った。
「……お前も食べるか?」
「いいのか! 食べる食べる!」
子供のように喜ぶロッドを見つめながら、アレスは彼が旅に同行してくれて良かったと違う意味で安堵した。
***
食事を終えた三人は、食堂のテラス席でお茶を飲みながら旅の行程を確認していた。
「ルルクスから魔法都市アーヴァンまでは一日あれば着く距離だが、レティシアの体のことを考えると間のユレストでもう一泊した方がいいだろう」
「俺は
「私は連れていってもらう身なので……すみませんが、よろしくお願いします」
アレスもそこまで詳しい訳ではないが、二人に比べるとこちら側の知識は一番持っている方だ。
ユレストはルルクスに比べると随分と素朴な町だ。ルルクスのように露店もなければ、食事をする場所もひとつしかない。けれど自然に囲まれた小さな町は沢山の花が咲き、町の外れにある湖には多くの動物が水を飲みに来る。
その動物を見て、レティシアはまた顔を綻ばせるのだろうか。――そう考えが及んだ自分に驚いて顔を上げると、安いお茶を美味しそうに飲むレティシアの姿が目に映った。
「……あっ!!」
唐突にロッドが声を上げた。かと思うと椅子を激しく揺らしながら立ち上がり、通りを行き交う人の流れを注意深く見つめている。
「どうした?」
「今……セリカがいたような……」
ロッドの妻セリカは、呪いを含む傷を治しに魔法都市アーヴァンへ向かったはずだ。獣人界を発ってからの日数を考えると、帰路の途中で立ち寄ったとも考えられる。
ロッドにつられて人混みへ目を向けてみるが、二人ともセリカの容姿を全く知らない。髪色や背格好など簡単な情報を得ようとロッドに声をかけようとしたところで、当の本人はもう既にテラスの柵を跳び越えて通りの真ん中に飛び出していた。
「俺、ちょっと見てくる!」
「ロッド!」
アレスの制止も聞かず、ロッドはそのまま人混みをかき分けながら通りの向こうへと消えていった。
その先に広がる暗い森の奥から、まるで誘い込むかのように不気味な鳥の鳴き声が響いてくる。不安を掻き立てるような鳴き声にレティシアが体を小さく震わせた時、不意に横のテーブルに座っていた商人風の男が遠慮がちに声をかけてきた。
「なぁ……あのお連れさん、もしかして『帰らずの森』に向かったんじゃないのかい?」
「帰らずの森?」
「知らないのかい? ここらじゃ有名な話だよ。ルルクスの西に広がる森には魔物が棲んでいて、時々人間を誘い込むそうだ。深い霧と共にあっち側へ誘われた者は二度と戻ってこないって言う話でね……実際に行方不明者も多いらしい」
どこにでもあるような話だが、仮にそれが本当だったとしてもロッドは獣王だ。魔物の一匹や二匹、相手にもならないのではないか。
そう思ったものの、顔面蒼白のレティシアに不安げな眼差しを向けられては無視するわけにもいかない。短く息を吐くと、アレスは仕方なさそうに椅子から立ち上がった。
「ロッドを連れ戻してくる。お前はここに……」
言いかけて、束の間逡巡する。
多くの人間が溜まる場所へ、レティシアをひとり置いてはいけない。
「いや、一緒に来い。俺から離れるな」
「……はい」
ロッドを追いかけて向かう先、夜の闇よりも濃い色に澱んだ森の奥から、じわりと視界を埋め尽くす霧が漂い始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます