……ですよね。先輩。
「ねえ、風切 直哉。……このまま私と、この世界に留まらないかい?」
ささなはそう言って、いつもと変わらない蕩けるような笑みを浮かべる。そして彼女はそんな笑みを浮かべたまま、優しく包み込むように、俺のことを……抱きしめた。
「────」
だからドキドキと、心臓が跳ねる。あまりに唐突な展開に、どんな言葉を返せばいいのか分からない。
「ふふっ」
そしてささなは、そんな俺の様子を楽しそうに見つめながら、優しく丁寧に俺の背中を撫でる。……だからどうしても、心臓の高鳴りが治ってくれない。
「……ささな。お前……」
この場所は夢のように虚ろで、だからどこを見ても言い知れない違和感を覚える。……けどささなの感触だけは、現実と何も変わらない。
温かくて、柔らかくて、安心して、とても気持ちいい。
……だから俺は、このまま彼女の言葉に頷いて、強く強く抱きしめ返したいと思ってしまう。だってこのままささなと一緒に居られるのなら、それ以上に望むことなんて何もない筈だから。
「……ふふっ、可愛い。君は本当に可愛いね、風切 直哉。……うん。だから私は、柄にもなく願ってしまうのだろう。君を独り占めにして、私の中に閉じ込めて、私だけのものにしたいって……」
ささなの腕に、力が込もる。彼女が俺を、求めてくれる。
……そしてきっと俺も、ささなのことを求めている。
なら俺は、いったい何を迷っているのだろう? もう届かないと思っていた彼女と、永遠に一緒に居られる。それは俺が1番、望んだことだ。なら俺の返す言葉は、決まっている筈だ。
……なのに、どうして俺は……そんなことを言ったのだろう?
「ごめん、ささな。やっぱり俺は……もうお前と一緒には、居られない」
「ふふっ。どうしてそんな寂しいことを言うんだい? 風切 直哉。もう今を逃せば、こんな風に君と抱き合うことは、できないかもしれない。なのにどうして君は、私のことを拒絶するんだい?」
ささなの言葉に、悲壮感はない。寧ろ彼女は、楽しそうに笑っている。……でも、ささなの心も本当に笑っているかどうかは、俺には分からない。
けどそれでも俺は、ささなから決して目を逸らさず、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめたまま言葉を返す。
「俺はさ……きっとまだ、お前のことが好きだ。……玲より、鏡花より、美綾より、俺はお前のことが、好きなんだ」
「ならどうして、君は私の誘いを断るんだい?」
「…………もう、決めたんだ。前に進むって、決めたんだよ。だから今更、立ち止まるわけにはいかないんだ……」
……俺の心はまだ、どうしようもなくささなのことを求めてしまう。けど俺は、そんな痛みを乗り越えて前に進むと決めた。
「だから、ごめん……ささな。俺はもう、お前とは生きられない」
俺たちが願ったから、ささなは死ぬことになった。そして俺がまた願ってしまったから、ささなは蘇って……だからもう一度死ぬことになってしまった。
ならきっと、俺は彼女の願いを断るべきじゃない。だって悪いのは俺で、ささなに非は一切ない。……いやそれどころか彼女は、こんな俺を愛してくれた。
……でももう、知ってしまった。だから俺は、止まるわけにはいかないんだ。
「ねぇ、風切 直哉」
「…………なんだ?」
「大きくなったね。私の胸に縋って泣いていたあの頃より、君はずっと大きくなった。……昔の君も可愛くて好きだったけど、今の君は昔よりずっとかっこいいよ。思わず胸が、きゅんってしてしまうくらいにね」
ささなはそう言って、俺の頭を撫でてくれる。優しく丁寧にまるで親が我が子を撫でるように、彼女の指が俺の頭を撫でる。
……少しくすぐったいけど、とても気持ちいい。思わず泣いてしまうくらい、ささなの掌は温かい。
「……何となく、分かったよ。お前がこのままじゃダメだって、言った理由が……。だって俺はまだ、お前が好きだ。そしてこのままじゃきっと、いつまで経っても……お前のことを忘れられない」
それはもう理屈じゃなくて、どうしようもない俺という人間の本質だ。俺は俺として生きる限り、青桜ささなという少女のことを忘れられない。
だからこのままじゃ、ダメなんだ。
いくら言葉でささなを拒絶しても、俺の心は彼女のことを求め続けてしまう。……だからこうやって抱きしめられると、それだけでもう逃げられない。
「バカだなぁ、風切 直哉は。そんな顔をするくらいなら、私の願いを聞いてくれればいいのに。そうすれば君は、ずっとずっと私と一緒にいられるのに……」
「でももう、決めたんだ。だから……ごめんな、ささな。本当は今でも……お前と一緒に死ねるなら、それでもいいって思ってる。でもさ、俺はまだやりたいことがあるんだ。やり残したことが、まだまだ沢山あるんだよ」
また、花火を見たい。また、流れ星を見たい。また一緒に、海を眺めたい。
ささなと2人きりで過ごした夏では、決して見ることができなかった景色を、この夏で沢山見ることができた。
そしてだから俺は……
もっと生きたいと、思ってしまった。
誰かの為とか、皆んなを傷つけたくないからとか、そんなのはただの言い訳で、本当はただ……死にたくないだけなんだ。もっともっといろんな明日を、彼女たちと生きたいと願ってしまったんだ。
「……うん、分かった。それなら、仕方ないね」
「…………ごめん、ささな」
「いいさ。……いや、私もこれでよかったんだ。だって今の君は、今までの君よりずっとかっこいい。或いはそんな君なら、運命を変えられるのかもしれない。ずっと続いたこの停滞を、今の君なら打ち破れるのかもしれない。だから……頑張れよ、風切直哉」
そしてそこで、ささな手が俺から離れる。
「…………」
……きっとここで手を伸ばさないと、もう2度とその手には触れられないのだろう。それに仮に生き残ったとしても、俺はこの選択を後悔するかもしれない。だからやり直せるのは、今だけだ。
今手を伸ばせば、まだ間に合う。
……けど、それでも俺は……手を伸ばさなかった。
「…………」
そしてその代わりに、ゆっくりと最後の言葉を口にする。
「…………ありがとう、ささな。やっぱり俺は──」
「まだその言葉は早いよ、風切 直哉。その言葉は、最後のお別れの時に……私を乗り越えた後で、聞かせてくれ。きっと今の君なら、それができる。これから起こる悲劇や、青い桜の真実を乗り越えて、今と同じように願ってくれる筈だ」
ささなはそう言って、笑った。それは、今まで見たどの笑顔とも違う色んな想いを孕んだ笑みで、だから俺は思わず……見惚れてしまう。
そして彼女は、その隙をつくように最後の愛情を俺に押しつけた。
「────」
「ばいばい、風切 直哉。……私はずっと、君の幸福を祈っているよ」
そこで唐突に、目が覚めた。何も言えず、何も返せず、目が覚めてしまった。
「…………」
唇に、手を当てる。そこにはまだ、彼女の唇の感触が残っている。けどそれは、きっと気のせいなのだろう。……目から溢れた涙も、きっと気のせい筈だ。
だから俺は、思考を切り替える為にゆっくりと立ち上がり、そっとカーテンを開けて空を眺める。
「……綺麗だな」
ちょうど朝日が昇り出した、透き通るような青空。そんな青空が目にしみて、俺はまた目を擦る。
そうして1つの別れと共に、長い長い合宿が終わりを告げた。
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